第八話「恐れてなお」④
鬼蜘蛛が一歩、結界へ近づいた。
瑠璃は息を殺した。
薄く広く張っただけの結界は、あれを止められるものではない。止める必要もない。目に留まり、餌だと認識させれば、それでいい。
鬼蜘蛛の前脚が地面を掻く。
次の瞬間、巨体が結界へ飛びついた。
光の膜が大きくたわむ。
喰われる。
瑠璃の指先から、術式が一本ずつ剥がされていく感覚が伝わってきた。
それでも手を下ろさない。
「まだですわ……!」
隣で紅緒が弓を引き絞っている。
鬼蜘蛛の頭部が結界へ深く沈む。腹側が持ち上がり、脚の付け根が大きく開いた。
「大月さん!」
「はい!」
瑠璃が結界を一気に明滅させた。
鬼蜘蛛がさらに強く食いつく。
紅緒の指が弦を離した。
霊矢が一直線に走る。
青白い光は、これまで重ねて傷をつけてきた前脚の付け根へ吸い込まれた。
鬼蜘蛛の巨体が大きく傾いた。
地面が揺れ、木々の葉が一斉に震える。
「入った……!」
瑠璃が思わず声を上げる。
だが、倒れない。
鬼蜘蛛は傷ついた脚を引きずりながらも、結界から顔を離した。
残った目が、今度は紅緒を捉える。
紅緒の表情が引き締まった。
「まだ来ます」
「……しぶといですわね」
結界はすでに半分以上を喰われている。
瑠璃の札は、もうない。
紅緒も何度も霊矢を放ち、呼吸が明らかに荒くなっていた。
それでも鬼蜘蛛は退かない。
むしろ傷を負ったことで、目の前の二人へ執着を向けたように身を低くした。
*
鬼蜘蛛が突進した。
紅緒が横へ跳ぶ。
瑠璃も身を投げ出すように転がった。
巨大な脚が、二人のいた場所を踏み砕く。
「上霞城さま!」
「平気ですわ!」
平気なはずはなかった。
足は震え、腕にも力が入らない。
それでも瑠璃は立ち上がった。
鬼蜘蛛は再び紅緒へ向きを変える。
瑠璃にはもう札がない。
結界を張れない。
ならば、できることは何か。
瑠璃は周囲を見回した。
斜面。浅い谷。先ほどまで鬼蜘蛛を誘導するために使った岩。折れた木々。
そして、まだ完全には消えていない最後の大結界。
喰われて薄くなっている。
だが、術式の芯はまだ残っている。
「大月さん!」
紅緒が矢を番えながら振り向く。
「もう一度だけ、隙を作りますわ!」
「札は?」
「ありません」
紅緒が一瞬目を見開いた。
瑠璃は扇子を握り締める。
「ですが、まだ術は残っていますわ」
最後の結界へ手を向ける。
喰われかけた術式を、新しく張り直すのではない。
残った形を崩す。
鬼蜘蛛が欲しがる結界の気配を、あえて一か所へ集める。
「そんなことが?」
「誰にものを聞いていますの?」
瑠璃は笑った。
強がりだった。
けれど、今度は震えを隠すためだけの強がりではない。
「上霞城の結界を、甘く見ないでくださいませ」
両手を組む。
残っていた結界の光が、音を立てるように一点へ収束した。
鬼蜘蛛の動きが止まる。
本能が、その餌を追った。
傷ついた巨体が結界の残滓へ向く。
「今ですわ!」
紅緒はすでに引き絞っていた。
今度の霊矢は、先ほどまでより細い。
ただし、揺れていない。
狙いは一点。
最初の一射が穿った傷口。
「――行きます」
矢が放たれた。
光が一直線に走り、同じ場所へ突き刺さる。先ほどまで重ねていた傷が限界を超え、巨体を支える前脚が大きく崩れた。
鬼蜘蛛の巨体が大きくのけぞった。
続けて、森を震わせる低い唸り声。
八本の脚が乱れ、地面を掻く。
紅緒は次の矢を構えようとした。
しかし鬼蜘蛛は、こちらへ来なかった。
ゆっくりと身を翻す。
傷ついた脚を引きずりながら、森の奥へ進み始めた。
「……退く?」
瑠璃が呟く。
紅緒は弓を下ろさず、その背を見送った。
鬼蜘蛛は一度だけこちらを振り返る。
それから木々を押し分け、深い森の向こうへ姿を消した。
しばらくして、枝の折れる音も聞こえなくなる。
紅緒がようやく弓を下ろした。
「……撃退、ですね」
「討ち取れなかったのは癪ですけれど」
瑠璃も息を吐く。
「今は、それで十分ですわ」
*
戦いが終わった途端、瑠璃の身体から力が抜けた。
膝が折れる。
今度は紅緒が迷わず腕を取った。
「上霞城さま」
「……結構ですわ」
いつものように振り払おうとして、できなかった。
紅緒は何も言わず、近くの岩まで肩を貸した。
瑠璃は座り込む。
そこで初めて、自分の姿を改めて見た。
衣は泥で汚れ、袖は裂け、髪も見る影がない。
戦いの最中には考えないようにしていたことまで、頭へ戻ってくる。
鬼蜘蛛に捕まった時。
自分がどれほど怯え、取り乱したか。
その姿を、紅緒に見られたこと。
瑠璃は俯いた。
「……笑えばよろしいでしょう」
紅緒が目を瞬いた。
「何をですか?」
「分かっていて仰っていますの?」
「ええ」
即答だった。
瑠璃は顔を上げる。
紅緒はいつもの、少し涼しげな顔をしている。
「でしたら、なおさらですわ。あれだけ偉そうなことを言っておいて、あの有様ですもの」
紅緒は少し黙った。
それから森の奥を見る。
「私は、笑うようなことだとは思いません」
瑠璃の眉が動く。
「怖かったのでしょう?」
その一言に、瑠璃の身体が強張った。
「……何が言いたいんですの」
「怖かったのに、逃げなかった」
紅緒は瑠璃を見る。
「村の人たちと、部下の方々を逃がすために、一人で残ったのでしょう」
瑠璃は答えない。
「それを笑う理由が、私にはありません」
言葉は静かだった。
同情でも慰めでもない。
ただ、見たものをそのまま評価している。
それがかえって、瑠璃には答えづらかった。
「……当然のことをしただけですわ」
やがて、そう返す。
「力を持つ家に生まれた者が、守られる側へ回ってどうしますの」
紅緒は何も挟まない。
瑠璃は続けた。
「わたくしには、あの村を守る力がありました。ならば、残るのは当然ですわ」
紅緒は少しだけ目を細めた。
血筋を理由に、自分へ責任を課す。
それは紅緒が好きになれる考え方ではない。
けれど――
それでも。
少なくとも上霞城瑠璃は、その血筋を都合のいい誇りとしてだけ使っているわけではない。
自分が口にする責任を、自分自身にも課している。
紅緒は小さく息を吐いた。
――やっぱり、苦手です。
そう思った。
けれど。
――卑怯な人では、ありませんね。
*
村の方から、複数の足音が近づいてきた。
「瑠璃さま!」
最初に飛び込んできたのは、感情の激しい方の取り巻きだった。
紅緒の姿を見るより早く瑠璃へ駆け寄り、膝をつく。
「ご無事で……本当に……!」
声が詰まり、そのまま目元を押さえる。
「大げさですわ」
瑠璃が呆れたように言う。
そのすぐ後ろから、もう一人が恐る恐る姿を見せた。
瑠璃を見つけた瞬間、張り詰めていた肩がはっきり下がる。
「よ、よかった……瑠璃さまが、いらっしゃる……」
「何ですの、その言い方は」
「す、すみません……でも、瑠璃さまがいないと、私……」
「まったく」
瑠璃はため息をついた。
けれど、二人を追い払おうとはしなかった。
村人たちの避難は終わり、怪我人も大きなものはないという。
それを聞いて、瑠璃はようやく表情を緩めた。
取り巻きの一人が、今度は紅緒を見る。
一瞬、以前までのためらいが顔に出る。
それでも姿勢を正し、深く頭を下げた。
「大月さん。瑠璃さまを助けてくださって……ありがとうございました」
もう一人も慌てて頭を下げる。
もう一人は一度瑠璃の顔を確かめ、それから意を決したように紅緒へ向き直った。
「あ、ありがとうございました……!」
紅緒は少し驚いたあと、首を横に振った。
「私一人では退けられませんでした。上霞城さまがずっと食い止めてくださっていたからです」
瑠璃が横から睨む。
「余計なことまで言わなくて結構ですわ」
「事実です」
「そういうところが可愛げがありませんのよ」
「上霞城さまに言われたくありません」
二人の取り巻きが顔を見合わせた。
さっきまで命の危機にあった二人とは思えない。
瑠璃もそれに気づいたのか、わざとらしく咳払いをした。
「……大月さん」
「はい?」
瑠璃は一度だけ視線を逸らす。
それから、いつものように顎を上げた。
「今回の働きだけは、認めて差し上げますわ」
紅緒は少しだけ目を丸くした。
「それはどうも」
立ち去ろうとして、数歩進む。
そこで紅緒は振り返った。
「上霞城さま」
「何ですの?」
「あなたも、悪くありませんでしたよ」
瑠璃が固まった。
紅緒はそのまま歩き出す。
数拍遅れて、後ろから声が飛んできた。
「――『悪くありませんでした』とは何ですの!」
紅緒は振り返らなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
森の向こうでは、もう鬼蜘蛛の気配は遠い。
恐怖が消えたわけではない。
きっと、瑠璃の中から簡単に消えるものでもない。
それでも今日は、逃げなかった。
そして一人ではなかった。




