表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/40

第八話「恐れてなお」④

 鬼蜘蛛が一歩、結界へ近づいた。

 瑠璃は息を殺した。

 薄く広く張っただけの結界は、あれを止められるものではない。止める必要もない。目に留まり、餌だと認識させれば、それでいい。

 鬼蜘蛛の前脚が地面を掻く。

 次の瞬間、巨体が結界へ飛びついた。

 光の膜が大きくたわむ。

 喰われる。

 瑠璃の指先から、術式が一本ずつ剥がされていく感覚が伝わってきた。

 それでも手を下ろさない。

「まだですわ……!」

 隣で紅緒が弓を引き絞っている。

 鬼蜘蛛の頭部が結界へ深く沈む。腹側が持ち上がり、脚の付け根が大きく開いた。

「大月さん!」

「はい!」

 瑠璃が結界を一気に明滅させた。

 鬼蜘蛛がさらに強く食いつく。

 紅緒の指が弦を離した。

 霊矢が一直線に走る。

 青白い光は、これまで重ねて傷をつけてきた前脚の付け根へ吸い込まれた。

 鬼蜘蛛の巨体が大きく傾いた。

 地面が揺れ、木々の葉が一斉に震える。

「入った……!」

 瑠璃が思わず声を上げる。

 だが、倒れない。

 鬼蜘蛛は傷ついた脚を引きずりながらも、結界から顔を離した。

 残った目が、今度は紅緒を捉える。

 紅緒の表情が引き締まった。

「まだ来ます」

「……しぶといですわね」

 結界はすでに半分以上を喰われている。

 瑠璃の札は、もうない。

 紅緒も何度も霊矢を放ち、呼吸が明らかに荒くなっていた。

 それでも鬼蜘蛛は退かない。

 むしろ傷を負ったことで、目の前の二人へ執着を向けたように身を低くした。


   *


 鬼蜘蛛が突進した。

 紅緒が横へ跳ぶ。

 瑠璃も身を投げ出すように転がった。

 巨大な脚が、二人のいた場所を踏み砕く。

「上霞城さま!」

「平気ですわ!」

 平気なはずはなかった。

 足は震え、腕にも力が入らない。

 それでも瑠璃は立ち上がった。

 鬼蜘蛛は再び紅緒へ向きを変える。

 瑠璃にはもう札がない。

 結界を張れない。

 ならば、できることは何か。

 瑠璃は周囲を見回した。

 斜面。浅い谷。先ほどまで鬼蜘蛛を誘導するために使った岩。折れた木々。

 そして、まだ完全には消えていない最後の大結界。

 喰われて薄くなっている。

 だが、術式の芯はまだ残っている。

「大月さん!」

 紅緒が矢を番えながら振り向く。

「もう一度だけ、隙を作りますわ!」

「札は?」

「ありません」

 紅緒が一瞬目を見開いた。

 瑠璃は扇子を握り締める。

「ですが、まだ術は残っていますわ」

 最後の結界へ手を向ける。

 喰われかけた術式を、新しく張り直すのではない。

 残った形を崩す。

 鬼蜘蛛が欲しがる結界の気配を、あえて一か所へ集める。

「そんなことが?」

「誰にものを聞いていますの?」

 瑠璃は笑った。

 強がりだった。

 けれど、今度は震えを隠すためだけの強がりではない。

「上霞城の結界を、甘く見ないでくださいませ」

 両手を組む。

 残っていた結界の光が、音を立てるように一点へ収束した。

 鬼蜘蛛の動きが止まる。

 本能が、その餌を追った。

 傷ついた巨体が結界の残滓へ向く。

「今ですわ!」

 紅緒はすでに引き絞っていた。

 今度の霊矢は、先ほどまでより細い。

 ただし、揺れていない。

 狙いは一点。

 最初の一射が穿った傷口。

「――行きます」

 矢が放たれた。

 光が一直線に走り、同じ場所へ突き刺さる。先ほどまで重ねていた傷が限界を超え、巨体を支える前脚が大きく崩れた。

 鬼蜘蛛の巨体が大きくのけぞった。

 続けて、森を震わせる低い唸り声。

 八本の脚が乱れ、地面を掻く。

 紅緒は次の矢を構えようとした。

 しかし鬼蜘蛛は、こちらへ来なかった。

 ゆっくりと身を翻す。

 傷ついた脚を引きずりながら、森の奥へ進み始めた。

「……退く?」

 瑠璃が呟く。

 紅緒は弓を下ろさず、その背を見送った。

 鬼蜘蛛は一度だけこちらを振り返る。

 それから木々を押し分け、深い森の向こうへ姿を消した。

 しばらくして、枝の折れる音も聞こえなくなる。

 紅緒がようやく弓を下ろした。

「……撃退、ですね」

「討ち取れなかったのは癪ですけれど」

 瑠璃も息を吐く。

「今は、それで十分ですわ」


   *


 戦いが終わった途端、瑠璃の身体から力が抜けた。

 膝が折れる。

 今度は紅緒が迷わず腕を取った。

「上霞城さま」

「……結構ですわ」

 いつものように振り払おうとして、できなかった。

 紅緒は何も言わず、近くの岩まで肩を貸した。

 瑠璃は座り込む。

 そこで初めて、自分の姿を改めて見た。

 衣は泥で汚れ、袖は裂け、髪も見る影がない。

 戦いの最中には考えないようにしていたことまで、頭へ戻ってくる。

 鬼蜘蛛に捕まった時。

 自分がどれほど怯え、取り乱したか。

 その姿を、紅緒に見られたこと。

 瑠璃は俯いた。

「……笑えばよろしいでしょう」

 紅緒が目を瞬いた。

「何をですか?」

「分かっていて仰っていますの?」

「ええ」

 即答だった。

 瑠璃は顔を上げる。

 紅緒はいつもの、少し涼しげな顔をしている。

「でしたら、なおさらですわ。あれだけ偉そうなことを言っておいて、あの有様ですもの」

 紅緒は少し黙った。

 それから森の奥を見る。

「私は、笑うようなことだとは思いません」

 瑠璃の眉が動く。

「怖かったのでしょう?」

 その一言に、瑠璃の身体が強張った。

「……何が言いたいんですの」

「怖かったのに、逃げなかった」

 紅緒は瑠璃を見る。

「村の人たちと、部下の方々を逃がすために、一人で残ったのでしょう」

 瑠璃は答えない。

「それを笑う理由が、私にはありません」

 言葉は静かだった。

 同情でも慰めでもない。

 ただ、見たものをそのまま評価している。

 それがかえって、瑠璃には答えづらかった。

「……当然のことをしただけですわ」

 やがて、そう返す。

「力を持つ家に生まれた者が、守られる側へ回ってどうしますの」

 紅緒は何も挟まない。

 瑠璃は続けた。

「わたくしには、あの村を守る力がありました。ならば、残るのは当然ですわ」

 紅緒は少しだけ目を細めた。

 血筋を理由に、自分へ責任を課す。

 それは紅緒が好きになれる考え方ではない。

 けれど――

 それでも。

 少なくとも上霞城瑠璃は、その血筋を都合のいい誇りとしてだけ使っているわけではない。

 自分が口にする責任を、自分自身にも課している。

 紅緒は小さく息を吐いた。

 ――やっぱり、苦手です。

 そう思った。

 けれど。

 ――卑怯な人では、ありませんね。


   *


 村の方から、複数の足音が近づいてきた。

「瑠璃さま!」

 最初に飛び込んできたのは、感情の激しい方の取り巻きだった。

 紅緒の姿を見るより早く瑠璃へ駆け寄り、膝をつく。

「ご無事で……本当に……!」

 声が詰まり、そのまま目元を押さえる。

「大げさですわ」

 瑠璃が呆れたように言う。

 そのすぐ後ろから、もう一人が恐る恐る姿を見せた。

 瑠璃を見つけた瞬間、張り詰めていた肩がはっきり下がる。

「よ、よかった……瑠璃さまが、いらっしゃる……」

「何ですの、その言い方は」

「す、すみません……でも、瑠璃さまがいないと、私……」

「まったく」

 瑠璃はため息をついた。

 けれど、二人を追い払おうとはしなかった。

 村人たちの避難は終わり、怪我人も大きなものはないという。

 それを聞いて、瑠璃はようやく表情を緩めた。

 取り巻きの一人が、今度は紅緒を見る。

 一瞬、以前までのためらいが顔に出る。

 それでも姿勢を正し、深く頭を下げた。

「大月さん。瑠璃さまを助けてくださって……ありがとうございました」

 もう一人も慌てて頭を下げる。

 もう一人は一度瑠璃の顔を確かめ、それから意を決したように紅緒へ向き直った。

「あ、ありがとうございました……!」

 紅緒は少し驚いたあと、首を横に振った。

「私一人では退けられませんでした。上霞城さまがずっと食い止めてくださっていたからです」

 瑠璃が横から睨む。

「余計なことまで言わなくて結構ですわ」

「事実です」

「そういうところが可愛げがありませんのよ」

「上霞城さまに言われたくありません」

 二人の取り巻きが顔を見合わせた。

 さっきまで命の危機にあった二人とは思えない。

 瑠璃もそれに気づいたのか、わざとらしく咳払いをした。

「……大月さん」

「はい?」

 瑠璃は一度だけ視線を逸らす。

 それから、いつものように顎を上げた。

「今回の働きだけは、認めて差し上げますわ」

 紅緒は少しだけ目を丸くした。

「それはどうも」

 立ち去ろうとして、数歩進む。

 そこで紅緒は振り返った。

「上霞城さま」

「何ですの?」

「あなたも、悪くありませんでしたよ」

 瑠璃が固まった。

 紅緒はそのまま歩き出す。

 数拍遅れて、後ろから声が飛んできた。

「――『悪くありませんでした』とは何ですの!」

 紅緒は振り返らなかった。

 ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 森の向こうでは、もう鬼蜘蛛の気配は遠い。

 恐怖が消えたわけではない。

 きっと、瑠璃の中から簡単に消えるものでもない。

 それでも今日は、逃げなかった。

 そして一人ではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ