第九話「星読みの秘め事」①
ここ数日、幽京にはめずらしく静かな時間が流れていた。
少なくとも、東春景真の周りではそうだった。
誰かが傷ついたという知らせもなければ、妙な妖怪が暴れているという急報もない。時折依頼書が届くことはあったが、火急のものではない。誰かが怒鳴りながら飛び込んでくるような騒ぎもなかった。
つまり、平和だった。
景真は卓の端に肘をつき、しみじみと思う。
(……こういう日も、ちゃんとあるんだな)
この世界へ来てからというもの、何かが起きている日の方が多かった気がする。幽京という街そのものは賑やかで、人も妖もそれぞれの日常を暮らしているはずなのに、自分が関わると妙に厄介事へ寄っていく。
だからこそ、何も起きない午後は貴重だった。
「景真。暇だからって、だらけすぎよ」
向かいに座る紅緒が、依頼書から目も上げずに言った。
紅緒が見ているのは、御伽衆に持ち込まれた依頼のうち、引き受け手を募るため受付に出されているものだ。暇なうちに、自分にできそうな依頼がないか探しているらしい。
「だらけてない。平和を味わってる」
「肘をついてぼんやりすることを、ずいぶん綺麗に言うのね」
「平和を噛みしめる姿勢って人それぞれだろ」
「少なくとも、その姿勢ではないと思うわ」
紅緒は淡々と返し、また紙面へ視線を戻す。
その横では、深影が受付台に姿勢よく座ったまま、暇にかこつけて景真を観察していた。
真っ黒な瞳が、瞬きも少なくじっとこちらを向いている。時折、口元から細い舌がちろりと覗いては引っ込む。本人に悪気がないのは分かっているのだが、見つめられる側としては、少し怖い。
「……何だよ」
「ん? 別に。暇だから見てるだけ」
「その見方がちょっと怖いんだよ」
「気にしないで」
「無茶言うな」
「それより、景真、紅緒に怒られてばっかりだね」
「別に怒ってないわ」
「その言い方、ちょっと怒ってる時のやつじゃない?」
「深影まで混ぜ返さないで」
いつもの調子だった。
景真は小さく笑って、卓の上に置かれた湯呑みへ手を伸ばした。
その時、御伽館の戸が開いた。
「こんにちは。みんな揃っているのね」
柔らかな声とともに入ってきたのは、景真にとって意外な人物――陰陽寮天文博士、真砂陽香だった。
(相変わらず、でか……)
吸い寄せられるように視線を送り、しかし紅緒に睨まれていることに気づいて、景真はすぐに居住まいを正した。
「陽香さま。こんにちは」
その紅緒も、すぐに姿勢を正す。
「こんにちは、紅緒ちゃん。そんなにかしこまらなくてもいいのよ」
陽香は後ろ手に戸を閉めると、いつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、景真へも軽く手を振った。
「東春くんもこんにちは」
「こんにちは」
そこで陽香の視線が、受付台の向こうにいる深影へ移った。
「そういえば、あなたとは初めましてね」
「うん。御陵深影。蛇の妖で、ここで受付をしてるよ」
深影は相変わらずの調子で名乗り、口元から細い舌をちろりと覗かせた。
陽香の視線が、その舌から深影の真っ黒な瞳へ移る。
ほんの一瞬だった。
柔らかな笑みは消えていない。それでも景真には、御伽館の空気がわずかに張り詰めたように感じられた。
(……今の、何だ?)
だが、そう思った時にはもう、陽香の表情はいつもの優しいものへ戻っていた。
「真砂陽香よ。陰陽寮で天文博士をしているの。よろしくね、深影ちゃん」
「よろしく、陽香」
深影は何も気にした様子がない。陽香もにこやかに微笑んでいる。
景真だけが一瞬の違和感を胸に残したまま、二人を見比べた。
「陽香さまが御伽館へいらっしゃるなんて珍しいですね。今日は何か御用ですか?」
「ええ。ちょっと、みんなにお願いがあってね」
先ほどの一瞬が気のせいだったかのように、声も笑顔もいつもの陽香だった。
けれど、その直後、景真は陽香の様子がおかしいことに気づいた。
陽香の右手が、袖口へ入る。
何かを確かめるように中を探り、それから左の袖にも手を入れる。さらに腰元の小さな袋を開き、中を覗き込んだ。
そして何事もなかったように顔を上げる。
「……」
「どうかした、景真?」
深影が訊く。
「いや」
景真は答えながら、もう一度陽香を見る。
陽香は紅緒と何やら話している。
笑っている。声もいつも通りだ。
だが話の合間に、さりげなく荷物へ手を伸ばしている。
包みを開き、閉じる。
ふと戸口を振り返る。
また袖を確かめる。
(何か探してる?)
どう見てもそうだった。
しかも、あの陽香がである。
景真が知る限り、陽香は多少のことでは動じない。ものの歩の砦で揉め事に巻き込まれた時でさえ、最後まで柔らかな笑顔を崩さなかった。
そんな彼女が、今は明らかに落ち着かない。
「陽香さま」
紅緒も気づいていたらしい。
「先ほどから何かをお探しのようですが」
「あら」
陽香の手がぴたりと止まった。
「分かっちゃった?」
「はい。何度もお荷物を確認されていますので」
「紅緒ちゃんはよく見てるわねえ」
陽香は困ったように頬へ手を添えた。
その仕草だけなら、いつもの優しいお姉さんそのものだ。
「実はね、ちょっと落とし物をしてしまって。みんなに探すのを手伝ってもらえないかと思って、ここへ来たの」
「落とし物?」
深影が受付台から身を乗り出す。
「何を落としたの?」
「紙よ。何枚か綴じたもの」
「書類ですか?」
紅緒の声が少し真面目になる。
陽香は一拍だけ間を置いた。
「まあ……書いたもの、ではあるわね」
含みのある、妙な言い回しだった。
景真と紅緒が同時に顔を見合わせる。
「陰陽寮のものですか?」
「ううん。私物よ」
陽香はそう言ったが、なぜか安心できない。
「どこでなくしたんです?」
景真が尋ねると、陽香は顎に指を当てて考え込んだ。
「それが、はっきりしないの。陰陽寮を出た時には持っていたはずなのよ。そのあと書店へ寄って、茶屋へ寄って、それから少し買い物をして……ここへ来る途中で気づいたの」
「結構歩いてますね」
「そうなのよ」
陽香はふう、と小さく息を吐いた。
それから、いつもの笑顔のまま言った。
「できれば、誰かに中を見られる前に見つけたいのだけれど」
景真は湯呑みへ伸ばしかけた手を止めた。
紅緒も同じだった。
深影だけが、きょとんとしている。
「見られたら困るの?」
「ええ。少しね」
「機密ですか?」
紅緒が訊く。
「そこまで大げさなものじゃないわ」
陽香は笑う。
しかしその答え方が、かえって怪しかった。
天文博士という立場にいる人物が、自分で書いた紙束をなくした。しかも人に見られると困るという。
景真の頭の中で、平和だった午後が少しだけ形を変える。
(陰陽寮の内情とか、朝廷絡みの記録とか……?)
これまでの経験が、嫌な方向に想像力を鍛えていた。
「紙束には、何か目印はありますか?」
紅緒はすでに探しに行くつもりらしい。
「薄い鼠色の紙を重ねて、紫の紐で綴じてあるわ。厚さはこれくらい」
陽香が指で示す。
想像していたより厚い。
「……結構ありますね」
「少しずつ書いていたら増えちゃって」
「内容は?」
景真が訊いた。
陽香の笑顔が、ほんのわずかに固まった気がした。
「それは……見つけるのに必要?」
「中身が分かれば、拾った人に訊きやすいかもしれません」
「そうねえ」
陽香は考える。
本当に考えているのか、それとも言い訳を探しているのか、景真には判断がつかなかった。
やがて彼女は、にこりと微笑んだ。
「私的な読み物よ」
「読み物?」
「ええ。だから、中身は気にしなくて大丈夫」
「……」
明らかに気にしてほしくないらしい。
そうなると余計に気になるのが人間というものだが、少なくとも紅緒はそこを追及しなかった。
「分かりました。では、陽香さまが通られた道を辿りましょう。人通りの多い場所もありますし、早い方がよいと思います」
「ありがとう、紅緒ちゃん。助かるわ」
「俺も行きます」
景真も立ち上がる。
「私も行く」
深影もすぐに手を挙げた。
「受付はいいのか?」
「今なら代わってもらえるよ。それに、なんだか面白そうだし」
「面白そうって、お前な……」
その時だった。
「あ」
陽香が突然、何かを思い出したように声を上げる。
「どうしました?」
紅緒が訊く。
陽香は三人の顔を順に見た。
そして、さっきまでより少しだけ真剣な声で言った。
「ひとつだけお願いがあるの」
三人が揃って耳を傾ける。
「もし見つけても、できるだけ中は読まないでね」
「……はい」
紅緒が答える。
「それと」
陽香は続けた。
ほんの一瞬だけ、視線が泳いだ。
「小夜に見つかる前に回収したいの」
「小夜さんに?」
景真が思わず聞き返す。
「ええ」
「どうしてです?」
「それは……」
陽香が珍しく言葉に詰まった。
だが次の瞬間には、いつもの柔らかな微笑みに戻っている。
「いろいろあるのよ」
それ以上は答えなかった。
景真は紅緒を見る。
紅緒も景真を見る。
小夜に見つかると困る、人に読まれたくない私的な文書。
しかも書いたのは陰陽寮の天文博士。
(……本当にただの読み物か?)
さっきまで平和を噛みしめていたはずなのに、気づけば妙に緊張感のある捜索が始まろうとしていた。




