第二話「井戸を渡る声」③
陰陽寮を出てから半刻ほど歩くと、街の音が少しずつ変わっていった。
筆と紙を抱えた官人の姿は減り、代わりに槌を振るう音や、木材を削る乾いた音が通りの奥から響いてくる。軒先には鍋、刀の鞘、木彫りの面、見たことのない形の道具が並び、職人らしい者たちが朝から声を張り上げていた。
「さっきまでの場所より、だいぶ賑やかだな」
「青陽区は役所が多いもの。こちらの白匠区は職人や商人の出入りが多いから」
紅緒は慣れた様子で人波を抜けていく。景真は見失わないよう後を追いながら、通りの両側へ目を配った。
鎧のようなものを背負った大男と、狐の耳を持つ女が同じ店先で値段を言い争っている。荷車の下では、手のひらほどの小鬼が車輪へ油を差していた。その横を、笠を深くかぶった旅人が大きな瓢箪を抱えて通り過ぎる。
人と妖の区別を気にしているのは、景真の方だけらしい。
「御伽衆っていうのも、この辺にあるのか?」
「もう見えてるわ」
紅緒が顎で示した先に、通りへ大きく口を開いた木造の館があった。
二階建ての建物は陰陽寮ほど整然としていない。左右へ増築を繰り返したらしく、屋根の高さも柱の色も少しずつ違っている。正面には『御伽衆』と力強く書かれた看板が掲げられ、その下を人と妖が絶え間なく出入りしていた。
片側の壁には、文字の書かれた木札や紙が隙間なく貼られている。受付らしい広間では、商人が身振りを交えて何かを訴え、旅装の女が報酬について職員と交渉していた。奥からは食器の触れ合う音と、誰かの大きな笑い声が聞こえる。
「役所というより、宿屋みたいだな」
「宿を兼ねることもあるわ。酒場もね」
「役所で宿屋で酒場? つまり何なんだ?」
「御伽衆よ」
二人が入口をくぐると、近くで書類を整理していた職員が顔を上げた。
「大月殿。お久しぶりです」
「三森総代にお目通りを。小神博士から書状を預かっています」
「小神博士の式から、先触れを受けております。そちらが、例の迷い人ですか」
職員は景真を珍しそうに見たが、陰陽寮で向けられたような、遠慮のない好奇の視線ではなかった。
「東春景真です」
「話は総代から直接聞くようにとのことです。こちらへどうぞ」
案内されて広間を横切る。依頼札の前では、二人組の男がどちらが危険な仕事を引き受けるかで揉めていた。その隣では、毛むくじゃらの妖が紛失した櫛の特徴を受付へ一生懸命説明している。
景真が足を緩めると、紅緒が横目を向けた。
「あんまりじろじろ見ないの」
「分かってる。でも、見たことないものばっかりなんだよ」
「それだけ見て、よく人にぶつからないわね」
「周りを見ろって、昔から言われてたからな」
景真が何気なく答えると、紅緒は一瞬だけ何かを考えるように目を細めた。だが、すぐに前へ向き直った。
*
通された部屋は、館の騒がしさが嘘のように静かだった。
中央には低い机が置かれ、その向こうに一人の男が座っている。五十歳ほどだろうか。白髪の混じった髪を後ろへ撫でつけ、右目には細い鎖の付いた片眼鏡を掛けていた。整えられた口髭と顎髭、白と黒を基調にした衣服まで、隙のない印象を与える。
「お待ちしていました。御伽衆総代の三森高平です。大月殿、お久しぶりですね」
「ご無沙汰しております。こちらが東春景真」
「東春景真です。よろしくお願いします」
「ええ。まずはお掛けください」
声は低く落ち着いていた。威圧するような調子ではないが、適当な返事を許さない硬さがある。
紅緒は懐から小夜の書状を取り出し、高平へ差し出した。
高平は封を解き、しばらく目を通した。
「異なる世界から来た可能性があり、幽世に身分も住まいもない。現時点では、帰還の方法も不明。そう記されています」
「だいたい合っています」
「小神博士らしい、簡潔でありながら扱いに困る書状です」
高平の口元が、ほんのわずかに動いた。冗談なのか本気なのか、景真には判断できない。
「先に結論を申し上げます。今夜から数日の寝床と食事は、こちらで用意しましょう」
「本当ですか?」
「身元が分からないから追い出すのは公平ではありません。異世界から来たというだけで、無条件に厚遇するのも公平ではない。まずは安全な場所を用意し、そのうえで今後を判断します」
言葉の端々から、公平というものへの強いこだわりが伝わってくる。
「ありがとうございます」
「礼は、まだ早いでしょう。御伽衆は慈善だけで成り立つ組織ではありません。ただし、宿を貸す代わりに働け、と今すぐ迫るつもりもありません」
「言われる前に釘を刺された……」
「表情に出ていましたよ」
小夜と同じことを言われ、景真は無意識に顔へ手をやった。
「この世界の偉い人は、みんな人の顔を読むんですか」
「総代ともなれば、依頼人の顔色を見る機会は多いものです」
高平は片眼鏡の位置を指先で直した。
「それとは別に、あなたの目を借りたい案件があります」
「俺の目? 手ではなく?」
「ええ、慧眼、と言えるかどうかはまだ分かりませんが。昨夜、暴走した蛇妖の異常を見抜いたのは、あなたの観察だったと書状にあります」
景真は紅緒を見る。紅緒は小さく首を横へ振った。自分から小夜へ詳しく話したわけではないらしい。
「戦闘の経緯は報告したわ。でも、小夜さまがそこまで書くとは思わなかった」
「やっぱり、あの人怖くないか?」
「今さらでしょう」
高平は二人のやり取りを遮らず、静かに続けた。
「依頼はすでに御伽衆で引き受けています。あなたが協力しなくとも、寝床を取り消すことはありません。その点は分けて考えてください」
「そこまで言われると、逆に断りにくいんですけど」
「断りにくさと強制は別物です」
「徹底してるな……」
紅緒が書状へ目を向けた。
「御伽衆でも手を焼いている案件とは、どのようなものですか」
高平は机の脇に置かれていた一枚の地図を広げた。幽京の地図だった。碁盤の目のような街路は、驚くほど平安京に酷似している。
その地図の数か所へ、赤い印が付けられていた。
「行方不明になった奉公人の声が、複数の井戸から聞こえるという依頼です」
*
「声だけが、ですか?」
紅緒が尋ねると、高平は頷いた。
「白匠区で乾物を扱う商家の奉公人が、昨日の夕方から戻っていません。名は藤吉。十六歳です」
「昨日の夕方……」
「最初に声が聞こえたのは、その夜です。水を汲んでいた同僚が、井戸の奥から自分を呼ぶ藤吉の声を聞いています」
「井戸の中へ落ちたんじゃないのか?」
「当然、そう考えました。縄を下ろし、人も入れて調べましたが、底には誰もいなかった。最初の井戸は御伽衆の者が囲み、出入りも見張っていました。ところが調査を続けている最中、二町ほど離れた別の井戸から、今度は『助けてくれ』という声が聞こえたのです」
高平の指が、地図上の二つ目の印へ移る。
「そちらも調べましたが、同じ結果でした。そして今朝、三つ目の井戸から声が聞こえています。先ほど、あなた方が通りで見た騒ぎがそれです」
「あの井戸か」
暗い井戸口と、不安そうに囁く人々の姿が景真の頭へ戻る。
「声の主が藤吉本人だという根拠は?」
「店の者は、間違いないと。本人しか知らない昔の失敗を口にしたとも証言しています。声真似をする妖の可能性も調べましたが、三つの井戸から妖気は見つかっていません」
「水妖や呪いの痕跡も?」
「ありません。幽京の井戸には、同じ地下水脈から水を汲むものもあります。しかし水は土や砂利の隙間を染み通るもので、人や声、木の葉などが行き来できる開いた水路ではありません。少なくとも、三つの井戸を直接結ぶ水路は現在の図面に記されていません」
紅緒は地図を見つめた。
「最初の井戸は見張られていた。それなのに、誰にも姿を見られず、ほぼ同じ頃に別の井戸から声がしたのですね」
「だから住民の間では、井戸を渡り歩く妖に連れ去られたという噂が広がっています。このままでは井戸を使う者がいなくなり、市場にも影響が出るでしょう」
「俺に妖怪のことは分かりませんよ」
「分からないからこそ、別のものが見える場合もあります」
高平は地図を折り、景真の前へ差し出した。
「大月殿には、妖術や呪いの有無を確認していただきたい。東春殿には、現場を見て感じたことを教えてほしい。それだけです。ただし、大月殿は負傷中と伺っています。無理はなさらぬよう」
「調査程度なら問題ありません」
「俺は感じたこと、でいいんですか?」
「正しい答えを出せとは申しません。私たちが見落としているものがあるなら、それを知りたい」
紅緒が景真へ目を向けた。
「どうするの?」
「困ってる人がいて、助けない選択肢があるのか?」
景真がそう言うと、高平は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。案内役を一人付けます」
「高平殿は来ないのですか?」
紅緒が尋ねた。
「私は、ほかの依頼の判断を止めるわけにはいきません。館に残り、こちらの役目を果たします」
「分かりました」
高平は片眼鏡の位置を直し、静かに頷いた。
*
御伽衆の若い衆員に案内され、景真と紅緒は三つの井戸を順に回った。
最初は、藤吉が勤める商家の裏手にある井戸だった。通りから一本入った狭い路地にあり、井戸口の石には長年使われた滑らかな窪みができている。
紅緒は札を一枚取り出し、水面へかざした。淡い光が紙の文字を走るが、それ以上の変化はない。
「妖気はないわ。水そのものにも、井戸の壁にも」
「昨日も同じ結果でした」
案内役の衆員が答える。
景真は井戸の縁へ両手をつき、中を覗いた。底の水面は丸く小さく、朝の光をかすかに返している。
「声がしたとき、何をしてたんですか?」
近くで待っていた商家の男が答えた。
「水を汲もうとして、桶を下ろしていました。底へ着いたあたりで、藤吉が私の名を呼んだんです」
「水の下から?」
「いえ……そう言われると、壁の奥から響いたような」
景真は井戸の内側へ耳を澄ませた。水滴の落ちる音に混じって、どこか遠くで風が抜けるような低い響きがある。
井戸の脇へ伏せられた桶には、淡黄色の小さな花びらが一枚と、細い木くずが張りついていた。景真は一度目を留めたが、この時点では、井戸水へ混じったごみだろうと考えた。
「次へ行きましょう」
紅緒に促され、二つ目の井戸へ向かう。
そこは大路へ近く、周囲に店が並ぶ人通りの多い場所だった。御伽衆の印が入った縄によって井戸口が囲まれ、近隣の住民が遠巻きに見守っている。
紅緒の術でも、やはり妖気は見つからなかった。
景真は伏せられた桶の中に、淡黄色の小さな花びらが張りついていることに気づいた。先ほどの井戸で見たものと、色も形も同じだった。
「この花、近くに咲いてますか?」
「この辺りでは見ませんね」
衆員が首を傾げる。
桶の底には、先ほどと同じような細かな木くずも数本残っている。周囲は石敷きで、木を削るような店も見当たらない。
「さっきの井戸にも、同じ花と木くずがありました」
「どちらの井戸の近くにも、この花は咲いていません。木を扱う店もないはずです」
案内役の衆員は二つの桶を思い浮かべるように、眉を寄せた。
「同じ場所から流れてきたのかもしれないわね」
紅緒が井戸の縁へ目を落とす。
「景真は、何が気になるの?」
「まだ分からない。でも、離れた二つの井戸へ、近くにない同じ花びらと木くずが混じるのは変だろ」
「同じ地下水脈から汲んでいる可能性はあるわ」
「でも普通の地下水なら、土や砂利の隙間を通るんだろ。花びらや木くずが、形を残したまま別の井戸まで来るのか?」
言いながら、景真は違和感を覚えた。
同じ水脈から水を汲むことと、声や物が通れる道でつながっていることは違う。
高平が否定したのは、現在知られている開いた水路だった。ならば、図面にない古い空洞が残っている可能性はないだろうか。
三つ目に訪れたのは、御伽衆に向かう際に見かけた共同井戸だった。人だかりは御伽衆の者に散らされ、今は井戸の周りだけが不自然に空いている。
景真が近づくと、冷たい空気が頬を撫でた。朝の風かと思ったが、髪や衣は揺れていない。
「紅緒。ここ、風が出てないか?」
紅緒も井戸へ顔を近づける。
「……水面からではないわ。壁の隙間から、わずかに空気が流れてる」
井戸の内壁を見ると、東側だけ苔が濃く生えている。反対側の石は乾いており、ところどころ細い隙間が黒く続いていた。
「声が聞こえたのは、どんなときでした?」
近くの女が、怯えながら答えた。
「桶を下ろしたときです。底へ着いた音がして、少ししてから『ここにいる』って……」
「ここも、桶を下ろしたあとか」
景真は高平から預かった地図を開いた。三つの井戸へ付けられた赤い印を、指で順にたどる。
碁盤状の街路とは関係なく、印は北東から南西へ斜めに並んでいた。
最初の井戸では、壁の奥から声がした。二つ目では、周囲にない花びらと木くずが水に混じっていた。三つ目では、石の隙間から風が流れている。
どの井戸にも妖気はない。
それでも、三つの井戸には同じ何かが通っている。
「紅緒」
「何?」
「高平さんは、声や物が通れる水路は図面にないって言ってたよな」
「現在の図面には、でしょう」
紅緒も同じところへ気づいたらしい。
景真は地図から顔を上げ、暗い井戸口を見た。
「声の主が井戸を渡ってるんじゃない」
井戸の奥から、かすかな風が吹き上がる。
「声の通り道が、下でつながってるんだ」




