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第二話「井戸を渡る声」②

 景真は紅緒と並んで座布団へ腰を下ろした。

 小夜は机を挟んだ向かい側に座り、右手だけで紙の端を整えた。筆先から落ちた墨が、白い紙へ小さな点を作る。

「まずは、お名前をもう一度。記録へ残しますので」

「東春景真です。十七歳です」

「とうばる、けいまさん。十七歳、と」

 小夜の筆が、迷いなく紙の上を滑っていく。文字は日本語と同じで、それが景真には無性に嬉しく感じた。

「出身は、ニホンという国でよろしいですか?」

「日本です。国っていうより……いや、国で合っていますけど。ここからどれくらい離れているかは分かりません」

「少なくとも、幽世の地図にはない場所ですね」

「それは昨日、嫌というほど分かりました」

 小夜は口元だけで微笑んだ。景真が一つ答えるたび、紙には二つ三つと新しい文字が増えていく。聞き取りというより、見えない網を少しずつ狭められているようだった。

「昨日は学び舎からの帰り道だったのですね」

「はい。迷子の猫を探して、古い神社に入りました。境内の奥で黒い影に追われて、楠の根元にあった石鳥居へ背中が触れたら、急に――」

「その石鳥居は、人が一人くぐれるほどの大きさだった」

 景真は少し眉を寄せた。

「……俺、そこまで言いましたか?」

「背中が触れたのなら、少なくとも置物ほど小さくはないでしょう。境を越えたというなら、人がくぐれる形だった可能性が高い」

 笑みを崩さず返され、景真は黙った。話したことだけではなく、話していない部分まで組み立てられている。

 紅緒は慣れているのか、隣で平然としていた。

「石鳥居の向こうには、何がありました?」

「何もありませんでした。楠の根元と、濡れた地面だけです。少なくとも、向こう側へ道が続いているようには見えませんでした」

「では、黒い影について。どのような形でした?」

 景真は、雨に煙る境内を思い返した。

「形はありませんでした。煙みたいに伸びたり、獣みたいに膨らんだりしていました。顔もありませんでしたけど……見られている感じだけはしました」

「目は?」

「光ったように見えました。でも、本当に目だったかは分かりません」

「妖気は感じましたか?」

「感じると言われても、昨日まで妖怪が本当にいるとも思っていなかったんですけど」

「それもそうですね」

 小夜の筆が、そこで初めてわずかに止まった。

「影は、猫を追っていたのですか。それとも、あなたを?」

「分かりません。ユキに近づいたから、間に入ったんです。そうしたら、こちらへ伸びてきました」

「見知らぬものと猫の間へ、ご自分から?」

「……今考えたら、どうかしていたと思います」

「今朝、紅緒さんから聞いた印象とは、それほど違いませんね」

「どういう報告をしたんだよ」

 景真が紅緒を見ると、紅緒は目を逸らさず答えた。

「見知らぬ世界へ来た直後に、餓鬼と蛇妖の前へ飛び出した迷い人」

「もっと他に言い方があるだろ」

「正確だと思います」

 小夜まで穏やかに同意した。

「それから、お守りが熱を持ったのですね」

 景真は制服の胸元へ手を当てた。内ポケットから、赤い布のお守りを取り出す。長く持ち歩いているせいで、角は擦れて丸くなっている。

「母からもらったものです。どこの神社のものだったかは知りません」

「拝見しても?」

 一瞬ためらったが、帰る手がかりになるかもしれない。景真は小夜の右手へお守りを渡した。

 小夜は指先で布の表裏を確かめ、結び目と縫い目を順に撫でた。細く閉じられた目が、ほんのわずかに緩んだように見える。

「術式はありません。少なくとも、幽世で使われる形では」

「では、ただのお守りなんですか?」

「ただのものが、境を越える鍵にならないとは限りません」

 小夜はお守りを景真へ返した。

「長く大切にされた物には、持ち主や贈り主の願いが宿ることがあります。もっとも、それだけで世界を渡れるなら、迷い人は今よりずっと多いでしょうけれど」

 答えを得たようで、何も分からない。景真はお守りを内ポケットへ戻した。

「鐘の音を聞いたのは、そのあとですね?」

「確か……二つです。どこから鳴っているかは分かりませんでした」

 紅緒が口を開いた。

「同じ頃、幽京から酉の刻の鐘が二つ聞こえました」

「時刻が重なっていた可能性は高そうですね」

 小夜の筆が再び走る。

「腕時計が止まったのも、酉の刻と前後しているようですね」

「まだ見せていないのに、なぜそれを?」

「先ほどから、あなたが何度も左手を確かめていますから。便利そうなカラクリですね」

 景真は反射的に腕時計を押さえた。

 小夜の目は、相変わらず一本の線のままだった。

「帰る方法について、何か分かったんですか?」

 景真が尋ねると、筆の音が止まった。

 小夜はすぐには答えず、紙へ書いた内容を上から静かに見直した。

「現時点では、何も」

「……そうですか」

「ただし、方法が存在しないと決まったわけでもありません。石鳥居、お守り、二つの世界で重なった鐘。調べる価値のあるものはあります」

「期待してもいいんですか?」

「期待を持たせる約束はできません」

 小夜は穏やかに微笑んだ。

「ですが、最初から諦める理由もありません」

 優しい言葉のはずだった。それでも景真には、慰めではなく、調査対象へ向けた評価のようにも聞こえた。


   *


 そのとき、戸の外から控えめな声がした。

『小神博士。昨夜の北外縁の件で、報告がございます』

 小夜が紅緒へ顔を向ける。

「ちょうどよかったですね。入ってください」

 戸が開き、紺色の装束を着た若い退魔方が膝をついた。夜通し動いていたのか、目の下に薄い隈がある。

 彼は景真へ一瞬だけ視線を向けたが、小夜から何も言われないのを見て、そのまま報告を始めた。

「昨夜暴走した蛇妖についてです。大月殿から引き継いだ時点で、すでに息はありませんでした」

 紅緒の表情は変わらない。景真の耳には、蛇妖の最後の吐息が蘇った。

「夜明け前、亡骸は妖気とともに崩れ、塵へ還りました。周辺の残滓も調べましたが、通常の暴走とは異なる乱れが残っています」

「ふむ……他に、何か異常はありませんでしたか?」

「それが、増援が現場へ近づいた際、蛇妖のそばに人影らしきものを確認した者がおります」

「人影、ですか」

 小夜が小さく繰り返した。声音は変わらない。ただ、僅かな間があった。

 何か、別の答えを予想していたのだろうか。

 景真には、そんな気がした。

 退魔方が続ける。

「木々の間から見えただけですが、小柄な者だったと。こちらが声をかける前に森へ入り、追った者が見失いました」

「妖気は?」

「蛇妖の残滓が濃く、判別できませんでした。敵意や襲撃もありません」

「足跡は残っていなかったのですか?」

「街道脇に細い踏み跡がいくつかありましたが、途中でほかの痕跡へ紛れています。足取りはひどく軽く、人間のものかどうかも判断できません」

 景真の脳裏に、蛇妖のかすかな声が浮かんだ。

 ――あの子。頼む。

 昨夜の人影が、その「あの子」だったのだろうか。だとしても、性別も姿も分からない。結びつけるには材料が足りなかった。

「近隣の門と糾察司きゅうさつしへ、特徴を伝えてください。ただし、危害を加えた事実はありません。見つけても刺激せず、まず報告をお願いするように」

 小夜の指示に、退魔方は頭を下げた。

「承知しました」

「夜通し、ご苦労さまでした。交代したら休んでください」

 退魔方が退出すると、部屋へ静けさが戻った。

 紅緒は閉じた戸をしばらく見つめていた。

「蛇妖の関係者でしょうか」

「可能性はあります。亡骸のそばにいたのであれば、偶然とは考えにくいでしょうね」

「探しますか?」

「今は報告を待ちましょう。相手が何者かも、何を望んでいるかも分かりません」

 小夜はそう言いながら、新しい紙へ短い書き付けをした。

「それに、こちらには先に決めなければならないことがあります」

 細い目が、景真へ向いた。

 嫌な予感がした。


   *


「俺のことですか?」

「ええ。東春景真さんを、今後どこでお預かりするかという話です」

「ここでは駄目なんですか?」

 小夜は筆を置き、右手の指を一本立てた。

「陰陽寮は、朝廷の官人と陰陽生が務める役所です。宿ではありません」

 二本目。

「あなたには幽世での戸籍も、身分を保証する者もいません」

 三本目。

「そして、異なる世界から来た方をどのように扱うかという決まりも、残念ながらありません」

「つまり、面倒を見られないということですか?」

「物分かりのいい子は好きですよ」

 笑顔で認められると、腹を立てるきっかけまで失われる。

「では、結界神社で引き続き預かります」

 紅緒がすぐに口を挟んだ。

 小夜は、予想していたように首を傾ける。

「紅緒さん。昨夜、結界神社が暴走した蛇妖の進路へ入っていたことを、もうお忘れですか?」

「忘れていません」

「あなたには結界守の務めがあります。妖の討伐で神社を空けることもある。迷い人を守りながら果たすには、負担が大きすぎます」

「景真が、命令を守れば――」

 小夜と紅緒の顔が、同時に景真へ向いた。

 二人分の視線が突き刺さる。一つは思考の読めない糸目。もう一つには、はっきりと呆れの色が浮かんでいた。

 小夜が笑顔のまま尋ねた。

「誰が、命令を守ると?」

「いえ、何でもありません」

「おい」

 些細な抗議は、当たり前のように黙殺された。

「それに、あなたはこれから医官の診察を受けます。しばらく安静と言われるかもしれません」

「そこまでの怪我ではありません」

「診るのはあなたではなく医官です」

 小夜は有無を言わせず話を戻した。

「そこで、御伽衆へお願いしようと思います」

「おとぎしゅう?」

 また知らない言葉が出てきた。

「人や妖から持ち込まれる依頼を受け、適任者へ取り次ぐ者たちです。失せ物探しから揉め事の仲裁、旅人の護衛まで。朝廷の役所では扱いにくい案件も、広く引き受けています」

「何でも屋みたいなものですか?」

「大きくは間違っていません。総代の三森みつもり高平たかひら殿は、公平を重んじる方です。身元が不明というだけで、あなたを追い出すことはないでしょう」

「でも、置いてもらえるかは分からないんですか?」

「そこまで私が決めれば、それこそ公平ではありませんから」

 小夜は新しい紙を一枚取り出し、右手だけで素早く書き始めた。

「事情を記した書状を用意します。紅緒さん、御伽衆の館まで案内してください」

「承知しました」

「俺は、役所から別の場所へ回されるわけですか?」

「不満ですか?」

「世界が変わっても、役所はやることが同じなんだなと思っただけです」

 小夜の筆が止まり、口元の笑みが少し深くなった。

「あなたの世界にも、扱いに困ったものを別の場所へ送る仕組みが?」

「たらい回しと言います」

「便利な言葉ですね。勉強になります」

「……性格悪いって言われません?」

「あら、よく見えていたんですか? 私もまだまだ捨てたものではありませんね」

 フフフ、と笑う小夜。

 人はここまで胡散臭くなれるのか、と景真は逆に感心してしまった。

 小夜は書状を折り、表へ三森高平の名を書いた。

「御伽衆は、陰陽寮よりも多くの人や妖が出入りします。幽京を知るにも、あなたが何をできるのか確かめるにも、悪い場所ではありません」

「俺が何をできるか、ですか?」

「何もできないと、もうお決めになったのですか?」

 問い返され、景真は言葉に詰まった。

 刀も術もない。幽世の常識も決まりも知らない。それでも昨夜、蛇妖の異変に気づいたのは自分だった。

 小夜がどこまで見抜いて言っているのかは、分からなかった。


   *


 書状を受け取ったあと、紅緒は小夜の命令どおり医官の診察を受けることになった。

 景真は医務室の外にある長椅子へ座り、廊下を行き交う人々を眺めて待った。

 小夜の部屋へ向かうときと同じく、陰陽寮の中は忙しい。書類を抱えた官人、札の束を運ぶ陰陽生、紙の鼠を追いかける少年。誰も景真を知ってはいないが、見慣れない制服と革靴には遠慮のない視線が向けられた。

 それでも、紅緒へ向けられるものとは違っていた。

 医務室の戸が開き、脇腹へ新しい布を巻かれた紅緒が出てくる。衣から薬草の匂いがした。

「どうだった?」

「骨には異常なし。しばらく激しい動きを控えるように、だそうよ」

「守る気あるのか?」

「必要がなければ」

「ないのと同じ答えだな」

 紅緒が何か言い返そうとしたとき、近くの部屋から若い陰陽生が飛び出してきた。抱えていた紙が腕から滑り、廊下へ散らばる。

 景真は反射的に立ち、足元へ落ちた紙を拾った。紅緒も一枚へ手を伸ばす。

 しかし陰陽生は、紅緒の指が触れるより先に、その紙を急いで引き寄せた。

「す、すみません。自分で拾えますので」

 景真が差し出した紙は受け取るのに、紅緒には目を合わせない。集め終えると、浅く頭を下げて足早に去っていった。

 廊下の角を曲がる直前、別の陰陽生と交わす声が小さく聞こえた。

「あれが、また小神博士に庇われたっていう……」

 続きは聞き取れなかった。

 景真が振り返ると、紅緒はすでに歩き出していた。

 門を出るまでにも、挨拶を返さない者や、必要以上に道を空ける者が何人かいた。紅緒は一度も足を止めず、そのどれにも慣れているように見えた。

 陰陽寮の門を出て、朝の光と街のざわめきが戻ってきたところで、景真はようやく口を開いた。

「あそこ、空気悪いな」

「術の実験で焦げた匂いでもした?」

「そういう話じゃない」

 紅緒は前を向いたまま答えた。

「いつものことよ」

「いつもなら、いいって話じゃないだろ」

「あなたには関係ないわ」

 突き放すような言葉だった。だが、声には怒りよりも、これ以上踏み込ませたくないという硬さがあった。

 景真は少し考えた。

「理由を聞いてほしい顔でもないし、今は聞かない」

 紅緒の足が、ほんのわずかに緩んだ。

「……そうして」

「でも、関係ないってことにはしないからな」

「どうして?」

「目に入ったから」

 昨夜とよく似た答えに、紅緒は横目で景真を見た。何かを言いかけたが、結局そのまま前へ向き直る。

 二人は大路を西へ進んだ。朝より人通りは増え、露店の呼び声と牛車の車輪の音が重なっている。

「御伽衆って、どんなところなんだ?」

「人と妖の依頼が集まる場所。陰陽寮ほど堅苦しくはないわ」

「じゃあ、さっきよりは居心地がよさそうだ」

「それは会ってから決めなさい。総代の高平殿は公平だけれど、何でも無条件で受け入れる方ではないから」

「公平って、何回も聞くと逆に不安になるな」

「会えば分かるわ」

 大路の角へ差しかかったとき、道端に人だかりができているのが見えた。

 中心にあるのは、石造りの共同井戸だった。井戸口には、御伽衆の印が付いた縄が張られ、桶は地面へ伏せられている。水を汲みに来たらしい女たちが、離れた場所から不安そうに覗いていた。

「また聞こえたんだって」

「今度はこの井戸から?」

「でも、中には誰もいなかったそうよ」

 すれ違いざま、そんな囁きが景真の耳へ入った。

 景真は井戸を振り返った。

「何かあったのか?」

「さあ。御伽衆が調べているなら、館へ行けば分かるでしょう」

 紅緒は足を止めなかった。

 景真もあとを追う。

 けれど、朝の街へ取り残された井戸の暗い口だけが、なぜかしばらく頭から離れなかった。

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