第二話「井戸を渡る声」①
鳥の声で、景真は目を覚ました。
聞き慣れた雀の声に似ている。けれど、鳴き声の合間に鈴を転がしたような高い音が混じっていた。
目を開けると、見知らぬ板張りの天井があった。白い障子を透かして朝の光が差し込み、昨夜借りた薄い掛け布が、畳みかけのまま部屋の隅に置かれている。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
雨の神社。黒い影。二つの月。餓鬼。そして、巨大な蛇。
記憶が一度に戻り、景真は勢いよく身を起こした。
左手首の腕時計へ目を落とす。針は午後五時五十六分を指したまま、秒針も動いていない。窓の外は朝なのに、景真の時間だけが昨日の夕方に取り残されていた。
「……夢じゃなかったか」
声に出すと、余計に現実味が増した。
障子の向こうから、一定の間隔で砂を掃く音が聞こえる。景真は制服の皺を手で伸ばし、立ち上がった。身体のあちこちが重い。餓鬼から逃げ回り、蛇妖の前へ飛び出した代償らしい。
制服のポケットへ手を入れかけたが、外から聞こえた箒の音に気を取られ、そのまま障子を開けた。
朝の境内は、昨夜とはまるで違って見えた。
玉砂利の上へ柔らかな日差しが落ち、四隅の注連縄は淡い光を失って、普通の縄のように風へ揺れている。境内の端では、紅緒が長い箒を動かしていた。銀色の髪を後ろで簡単に束ね、昨日と同じ意匠の巫女装束の上へ、薄い羽織を重ねている。
改めてその姿を目にし、景真の頭に浮かんだのは至ってシンプルな思いだった。
(とんでもない美人だな……)
歳はおそらく同年代だろう。整った顔立ちに浮かぶ切れ長の目や凛とした佇まいは、研ぎ澄まされた白刃を思わせた。和服なので分かりにくいが、プロポーションもかなり良さそうだ。
だが、その完成されすぎた美しさには、どこか人間離れした雰囲気を感じた。
その、紅緒の動きがわずかに止まった。箒を持ち直す際、脇腹に痛みが走ったらしい。眉間へ一瞬だけ皺が寄り、すぐに消えた。
「起きたのね」
景真に気づいた紅緒が、何事もなかったように言った。
「その身体で、朝から掃除してるのか」
「毎朝していることよ」
「毎朝なら、怪我しててもやるのか?」
「動けないほどではないわ」
昨夜も似たようなことを聞いた気がする。景真が何か言う前に、紅緒は箒を壁へ立てかけた。
「顔を洗ったら朝餉にしましょう。そのあと、幽京へ向かうわ」
「ゆうきょう?」
「この国の都。陰陽寮もそこにある」
陰陽寮という言葉で、昨夜の紙の鳥と、静かな女の声を思い出した。紅緒の上役だという小夜に、自分のことを説明しなければならない。
それより先に、景真は昨夜の街道を思い浮かべた。
「あの蛇は?」
紅緒は少しだけ目を伏せた。
「現場は増援へ引き継いだわ。詳しいことは、陰陽寮で聞くことになる」
助からなかった、とは言わなかった。言わなくても、景真には分かった。
「……そっか」
境内を風が通り抜けた。木の葉が擦れ、どこかで先ほどの鳥が鳴いた。
簡素な朝餉を済ませると、紅緒は物置から無地の藍色の羽織を持ってきた。
「それを着て」
「俺に?」
「その服のままでは目立ちすぎるもの」
「これでも俺のいた場所じゃ、普通なんだけどな」
「ここでは普通ではないわ」
羽織を制服の上から着てみる。袖丈は少し短く、下には現世の制服が覗いている。隠せたというより、異なる時代の服を無理に重ねたようになった。
紅緒はしばらく景真を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「何もないよりはましね」
「そこまで変か?」
「幽京へ着けば分かるわ」
*
結界神社を出て、二人は朝の森を南西へ進んだ。
昨夜は二つの月と闇しか見えなかった道にも、朝になれば色があった。幹の白い木、青みを帯びた下草、葉の裏へ隠れる薄羽の虫。景真の知る植物に似ているものもあれば、花弁が淡く光る見慣れない草もある。
紅緒は足早に歩きながら、必要なことだけを短く説明した。結界神社は幽京の北東、鬼門に近い外縁にあり、都を守る結界の一端を担っていること。陰陽寮は幽京東部の青陽区にあること。都の中でも妖が事件を起こすことはあり、勝手に路地へ入らない方がよいこと。
「最後のは、俺を何だと思ってるんだ」
「昨日、知らない世界へ来たその日に、巨大な蛇の前へ二度も飛び出した人」
「……一回目は勝手に身体が動いただけだ」
「二回目は?」
景真は答えず、道の先へ目を向けた。紅緒も追及しなかった。
森を抜けるにつれ、行き交う人の姿が増えていった。背に薪を負った男、籠を抱えた女、荷車を引く若者。誰もが小袖や水干のような衣をまとい、髪を布や紐でまとめている。
その中には、明らかに人間ではない者もいた。
頭の上に短い角を生やした女が、子どもの手を引いて歩いている。荷車の後ろでは、狸に似た顔の小柄な者が器用に荷を結び直していた。道端の茶屋では、長い耳を髪の間から覗かせた娘が湯気の立つ椀を運んでいる。
景真が目で追っていると、紅緒が振り返らずに言った。
「見すぎよ」
「いや、だって……普通にいるんだな」
「何が?」
「妖怪が」
「妖よ。人と暮らしている者も珍しくないわ」
昨夜の餓鬼や蛇妖だけを見ていれば、妖は人を襲う怪物にしか思えなかった。だが、目の前では角のある女が子どもの襟を直し、狸顔の男が荷主に叱られて頭を下げている。
景真が知っている世界の常識は、ここでは何の役にも立たないらしい。
やがて道が緩やかな坂を下り始めた。木々の間が開き、その向こうに巨大な街が姿を現す。
景真は思わず足を止めた。
広い大路が、朝の光の中を真っすぐ伸びている。そこから細い道が等間隔に分かれ、屋根瓦の波を碁盤の目のように区切っていた。遠く北には何重もの塀と門に囲まれた大きな宮殿が見え、東西には寺社や役所らしい建物が並ぶ。炊煙が幾筋も空へ上り、街全体が目を覚まそうとしていた。
大路には牛車と荷車が行き交い、色とりどりの衣をまとった人々が流れている。朱塗りの柱、白壁、連なる格子戸。軒先には布看板や木札が下がり、声を張る商人の前へ客が集まっていた。
空には、白い紙の鳥が何羽も飛んでいる。その一羽が屋根すれすれに旋回し、遠くの役所へ吸い込まれるように降りていった。別の屋根では、小さな獣の姿をした式が瓦の上を走っている。
「……平安京みたいだ」
「へいあんきょう?」
「俺のいた国に、昔こんな都があったんだ。多分。教科書で見ただけだけど」
「あなたの世界にも幽京があるの?」
「いや、似てるだけだと思う」
景真の知る平安京には、屋根の上を式神が走ってはいないし、角を生やした者が露店で団子を買ってもいない。似ているからこそ、違いが余計に際立った。
二人が大路へ入ると、周囲の視線が景真へ集まった。藍の羽織から覗く見慣れない制服と革靴は、この街ではひどく浮いている。
通り過ぎる子どもが景真の足元を指差し、母親に手を引かれていった。牛車の御者まで振り返る。
「確かに目立つな……」
「だから言ったでしょう」
紅緒は平然と歩いている。だが景真は、彼女にも別の種類の視線が向けられていることに気づいた。
美しい巫女を眺める視線だけではない。気づくと目を逸らす者。わずかに道を空ける者。中には紅緒の銀髪を見て、隣の者へ何かを囁く者もいた。
景真がそちらを見ると、囁いていた二人はすぐに口を閉ざした。
「紅緒」
「何?」
「いや……何でもない」
まだ尋ねるには早い気がした。紅緒は一度だけ景真を見たが、そのまま前を向いた。
*
大路を東へ折れ、青陽区へ入ると、街の雰囲気が変わった。
商人の声は遠のき、代わりに筆と紙を抱えた官人や、腰へ札袋を下げた若者が増える。道沿いの建物は規則正しく並び、門前には所属と役目を示すらしい木札が掲げられていた。
その一角に、陰陽寮はあった。
朱と白で整えられた大きな門の向こうに、複数の棟が渡り廊下でつながっている。庭には景真の背丈を超える金属の輪や、方角を示す文字を刻んだ石盤が置かれ、官人たちがその周囲で記録を取っていた。軒下には札が何列も吊るされ、朝の風に乾いた音を立てている。
門をくぐる直前、紅緒は腰の札袋から小さな木札を取り出した。門番はそれを確かめ、丁寧に頭を下げる。
「大月殿。昨夜はご苦労さまでした」
「小夜さまへ報告に参りました」
「伺っております。そちらの方も、お通しするようにと」
門番の視線が景真へ移った。驚きはしたものの、何も尋ねず道を開ける。
「俺が来ること、もう伝わってるのか」
「小夜さまは、式を通してこちらの様子を把握していたから」
紅緒はそう答えたが、景真には、紙の鳥がどこまで自分を見ていたのか分からなかった。
敷石の道を進む。庭の一角では、陰陽生らしい若者たちが札を投げ、空中に火や水の形を作っていた。別の場所では、折り紙の獣が一列に並び、命令を待つように座っている。
景真が足を緩めると、紅緒が袖を引いた。
「置いていくわよ」
「見たことないものばっかりなんだから、仕方ないだろ」
「帰りに見る時間があればね」
二人が廊下へ上がったとき、向こうから三人の若い陰陽生が歩いてきた。笑いながら話していた声が、紅緒の姿を認めた途端に止まる。
先頭の一人が道を譲った。礼儀正しく見える動きだったが、廊下の端へ寄る距離が不自然に大きい。後ろの二人も紅緒と目を合わせず、黙って通り過ぎた。
景真は振り返った。三人は少し離れたところで会話を再開したが、先ほどより声を落としている。
別の部屋の前では、書類を抱えた女官が紅緒に気づき、一瞬だけ立ち止まった。紅緒が会釈すると、女官も形だけ頭を下げ、足早に去っていく。
誰かが直接何かを言ったわけではない。
それでも、紅緒の周囲だけ空気が薄くなるようだった。
「なあ」
「小夜さまを待たせているわ。話はあとにして」
まだ何も尋ねていないのに、紅緒はそう言った。
景真は口を閉じた。彼女自身も、周囲の反応に気づいていないわけではないらしい。
やがて二人は、ほかの棟より少し奥まった建物へ着いた。戸口には天体と方角を組み合わせたような紋が描かれ、その下に「陰陽博士」と記された木札が掛けられている。
紅緒が戸の前へ膝をついた。
「大月紅緒、参りました」
間を置かず、中から柔らかな声が返る。
『どうぞ。お連れの方もご一緒に』
昨日、紙の鳥から聞こえた声だった。
*
紅緒が戸を開ける。
室内には、巻物と書物が壁際まで積まれていた。星の並びを描いた大きな図、文字の刻まれた占盤、透明な石の入った箱。整っているのか散らかっているのか、景真には判断できない。
その中央で、一人の女が机に向かっていた。
白と淡い青を基調とした狩衣姿。長い黒髪は後ろでまとめられ、目は笑っているように細く閉じられている。年齢は紅緒より上だが、役所の重役というほど堅苦しくは見えない。
ただ、左袖だけが空のまま静かに垂れていた。
女は右手で筆を置き、二人へ顔を向けた。
「お待ちしていました、紅緒さん。それから――東春景真さん」
名前を呼ばれ、景真は足を止めた。
「どうして俺の名前を」
「昨夜、紅緒さんが式へ伝えてくださったでしょう?」
女は笑みを崩さない。
「式を通して、どこまで見えていたのか気になりましたか?」
景真は答えに詰まった。まさに考えていたことだった。
「……顔に出ていました?」
「ええ、とても分かりやすく」
糸のように細い目は閉じたままなのに、隅々まで見透かされているような気がする。
紅緒が一歩進み、頭を下げた。
「小夜さま。昨夜の件について、報告いたします」
「その前に」
小夜と呼ばれた女は、紅緒の脇腹へ顔を向けた。
「単独で深入りせず、危険なら退くようにとお伝えしたはずですが」
「進路上に集落と迷い人がいました。退くより、食い止めるべきだと判断しました」
「そう言うと思いました」
声音は穏やかなままだった。だが、ほんの一瞬だけ、笑みの奥に別の感情が混じった気がした。心配なのか、呆れなのか、景真には読み取れない。
「あとで医官に診てもらってください。命令です」
「必要ありません」
「命令です」
同じ言葉を同じ笑顔で繰り返され、紅緒はわずかに眉を寄せた。
「……承知しました」
小夜は満足そうに頷き、今度は景真へ向き直る。
「改めまして。陰陽博士を務めております、小神小夜です」
「東春景真です。……もう知ってるみたいですけど」
「お名前とお顔、それから紅緒さんが保護した方だということくらいですよ。どこから来て、なぜ幽世へ現れたのか。紅緒さんが、見知らぬ殿方を神社へ連れ帰るほどの事情も、まだ何も」
「小夜さま」
紅緒の声が少しだけ低くなる。
小夜は口元へ袖を寄せ、楽しそうに笑った。左の空袖ではなく、右手側の袖だった。
「冗談です。紅緒さんが困っていますから、このくらいにしておきましょう」
油断ならない人かもしれない。初対面にもかかわらず、景真はそんなことを思った。
小夜は机の前に置かれた座布団を、右手で示した。
「どうぞ、お座りください。怖いところではありませんよ」
「それ、自分で言う人ほど怪しいんですけど」
思わず口から出た。
紅緒が景真を見る。まずいことを言ったかと思ったが、小夜は怒るどころか、笑みを深くした。
「よかった。紅緒さんの後ろで黙っているだけの方ではなさそうですね」
「何がよかったんですか」
「こちらの話です」
答えになっていない。
景真が座ると、小夜は止まった腕時計へ一度、制服の胸元へ一度、視線を向けたように見えた。細い目は開いていない。それでも、見られているという感覚だけははっきりとあった。
「では、東春景真さん」
小夜は右手で新しい紙を広げ、筆先を墨へ浸した。
「あなたが昨日、現世で何を見たのか。神社へ入る前から、順番に聞かせてください」
柔らかな声だった。
けれど景真には、これから始まるのが保護された迷子への聞き取りではなく、逃げ道のない尋問のように思えた。




