第一話「逢魔が時の巫女」④
「……遅かった」
紅緒の声が、夜の森へ静かに落ちた。
首元の札を失った蛇妖は、もう鎌首をもたげようとはしなかった。街道へ伏した巨体は浅い呼吸に合わせてわずかに上下し、闇色の鱗の隙間からは、力を失った妖気が細く漏れ続けている。
先ほどまで赤黒く濁っていた金色の瞳には、かすかな光が戻っていた。けれど、その光はあまりに弱い。正気を取り戻したというより、燃え尽きる寸前になって、ようやく自分の目で世界を見られるようになったのだ。
紅緒は弓を背へ戻し、拾い上げた刀を両手で構え直した。
蛇妖の瞳が、ゆっくりと彼女へ向く。
景真は息を止めた。紅緒は動かない。刀の切っ先を蛇妖へ向けたまま、その呼吸と瞳を見定めている。
「……まだ、斬るのか」
景真の声に、紅緒は答えなかった。
蛇妖がわずかに頭を持ち上げる。金色の目が紅緒を捉えた。だが、そこに先ほどまでの敵意はない。牙を剥くことも、尾を振り上げることもなかった。
紅緒は、ゆっくりと刀を下ろした。
「もうこれ以上は必要ないわ」
刀身が白鞘へ収まる。硬い音が一つだけ響き、それきり街道には蛇妖の浅い息遣いだけが残った。
紅緒は数歩近づき、しゃがみ込んで鱗へ手をかざした。触れてはいない。それでも何かを測るように、目を閉じる。
しばらくして、その手が静かに下ろされた。
「妖気の流れが壊れている。あの札に、無理やり力を引き出され続けたのね」
「治せないのか」
「ここでは無理よ。陰陽寮へ運ぶまで、もたない」
言い切る声に迷いはなかった。けれど、冷たくもなかった。
景真は蛇妖を見た。大きすぎる身体も、鋭い牙も、つい先ほどまで自分たちを襲っていたことも変わらない。なのに今は、ひどく弱りきった生き物にしか見えなかった。
*
紅緒は立ち上がった。
「行きましょう。増援が来れば、あとは引き継げるわ」
景真は動かなかった。
蛇妖の目が、かすかに景真へ向いている。先ほど自分を押し潰すはずだった尾を、寸前で逸らした目だった。苦痛の中でも、景真を傷つけまいとしていた目だった。
「景真?」
「こいつ、まだここにいる」
「ええ。けれど、もう助けられない」
「助けられなくても、まだここにいるだろ」
紅緒の眉がわずかに動いた。
景真は蛇妖の頭のそばへ歩み寄った。紅緒が止めるより先に膝をつく。巨大な金色の目が、すぐ近くから景真を映した。
怖くないわけではなかった。少し顎を動かされるだけで、自分など簡単に呑み込まれる。それでも、その瞳にもう敵意がないことだけは分かった。
「何もできないけどさ」
何を言えばいいのか分からず、景真は自分の膝を握った。
「一人で終わるよりは、ましだろ」
「……勝手にしなさい」
紅緒はそれだけ言うと、数歩下がって周囲の気配へ意識を向けた。
蛇妖の喉の奥から、低い音が漏れた。咆哮ではない。言葉になろうとして、形を持てずに崩れたような音だった。
景真は少しだけ身を寄せた。
「何だ?」
蛇妖の息が、かすかに景真の頬へ触れる。
「……あの……子……」
声だった。吐息よりも弱く、すぐそばまで耳を寄せた景真にしか届かないほど、かすかな人の言葉だった。
「あの子?」
蛇妖の瞳が、街道の奥へ向こうとする。だが、もう頭を動かす力は残っていない。
「……頼む……」
誰のことなのか、景真には分からなかった。約束できることでもない。ここがどこなのかさえ知らず、自分が明日どうなるのかも分からない。
それでも、その言葉を聞かなかったことにはできなかった。
「……わかった」
景真は答えた。
「会えたら、ちゃんと力になる。だから、もう大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
けれど蛇妖の瞳から、ほんの少しだけ力が抜けた。
ゆっくりと瞼が下りていく。大きな身体が最後に一度だけ息を吸い、長く、静かに吐き出した。
それ以降、鱗は動かなかった。
景真はしばらく、その場から立てなかった。
左手首の時計は、午後五時五十六分を指したまま止まっている。自分の時間は止まったのに、目の前の命だけが先へ進み、終わってしまった。
*
どれほど時間が経ったのか。
紅緒は急かさなかった。少し離れた場所に立ち、森の気配へ注意を向けながら、景真が立ち上がるのを待っていた。
やがて景真は、地面へついた手を持ち上げた。指先に、白い紙が触れている。
先ほど蛇妖の首から剥がれ落ちた札だった。
朱と墨の文字はほとんど色を失い、雨にも濡れていないのに、古い紙のように力なくよれていた。破れてはいない。燃えた跡もない。もう、普通の紙に見える。
ただ、この蛇妖を苦しめていたものを、亡骸のそばに残しておきたくなかった。それだけの気持ちで、景真は札を拾った。何より今は、札について考える余裕がなかった。
景真は紙を制服のポケットへ滑り込ませた。
その動きを、紅緒は見ていなかった。彼女の視線は南の街道へ向けられている。遠くから、かすかに人の声が届いた。
「増援ね。まだ少し距離があるわ」
紅緒は耳を澄ませ、立ち上がった景真へ向き直った。
「この先で合流して、場所を伝えるわ。あなたとはそのあと神社へ戻る」
景真は亡骸を振り返った。金色の瞳は閉じられ、もう浅い呼吸も聞こえない。
「……わかった」
足が痺れていた。膝へ力を入れ、ふらつく身体を支える。ポケットの中で札がかすかに擦れたが、その存在はすぐに意識の外へ沈んでいった。
紅緒が先に歩き出す。景真も、最後に一度だけ蛇妖へ目を向けてから、その背中を追った。
二人の足音は南の街道へ遠ざかり、やがて森のざわめきに溶けていった。
*
街道に、再び静けさが戻った。
二つの月明かりが、倒れた石灯籠と抉れた土、そして動かなくなった蛇妖の巨体を淡く照らしている。
紅緒たちの足音が完全に遠ざかって間もなく、街道脇の茂みがかすかに揺れた。
現れたのは、一人の少女だった。
夜色の装束をまとい、肩まである黒髪を乱している。人の姿をしているのに、その足取りは獣のように速かった。だが街道へ倒れた蛇妖を目にした瞬間、少女の身体は糸を切られたように止まった。
黒い瞳が、大きく見開かれる。月明かりを映しているはずなのに、その目には一欠片の光も浮かんでいない。
少女は、足元の泥を跳ね上げながら蛇妖のもとへ駆け寄った。闇色の鱗へ震える手を伸ばし、何度も呼びかけようとする。けれど、最初の声は喉に絡まり、音にならなかった。
やがて、かすかな声が静まり返った街道へ落ちた。
「……父さま?」
返事はなかった。
少女はその場へ膝をつき、冷え始めた鱗へ額を寄せた。
「父さま……」
二つの月の下で、黒い瞳の少女は、動かなくなった父をただ見つめていた。




