第二十話「見ていた」③
「殺すつもりはなかった」
男の言葉が、静かな森に落ちた。
紅緒は拳を握ったまま、男を見つめる。
「……どういう意味ですか」
「言葉の通りだよ」
男は手にした杭へ目を落とした。
「私は最後の一本を、別の根へ打ち直そうとしていた。蘇芳はそれを止めた」
男の声に、後悔はなかった。
ただ、昔の出来事を順番に並べ直しているだけだった。
「あれは何度抜いても私の杭を見つけた。だから、あの日は少し場所を変えた。もっと太い根へ打ち込めば、どの程度まで影響が広がるかも見られると思ってね」
紅緒の胸の奥で、何かが軋んだ。
「父は、それを止めたんですね」
「ああ」
男は頷く。
「根へ杭を当てたところで、腕を掴まれた」
景真の目が細くなる。
男は構わず続けた。
「蘇芳はやめろと言った。私は離せと言った。少し揉み合った。それだけだ」
「それだけ……?」
紅緒の声が掠れる。
「杭は細い。先端も鋭い。向きが変われば、人の身体にも入る」
男は自分の脇腹の辺りを指で示した。
「蘇芳の、ここだったと思う」
紅緒の息が止まる。
「押し合いになった拍子に杭の向きが変わった。その先が蘇芳の脇腹へ刺さった」
陽香の表情から、僅かに色が消えた。
小夜は何も言わない。
いつもの糸目のまま、男の言葉だけを聞いている。
「傷そのものは深くなかった」
男は続ける。
「少なくとも、刺さっただけで即座に命を落とすような傷には見えなかった」
「だったら」
紅緒が一歩踏み出す。
「だったら、どうして父は死んだんですか」
男は紅緒を見る。
「杭が働いたからだ」
あまりにも簡単な答えだった。
紅緒の喉が鳴る。
「樹に刺した時と同じだった。いや、正確には少し違ったな。流れが速かった」
「生命力を……吸ったんですか」
小夜が尋ねる。
「そうだ」
男の目に、あの興味の光が戻る。
「初めてだった」
紅緒の眉が寄る。
「何がですか」
「人に刺さったのが」
その瞬間、景真が男へ踏み出した。
「お前……!」
「景真」
紅緒が呼ぶ。
景真が止まる。
紅緒自身も、今すぐ男へ掴みかかりたい気持ちは同じだった。
それでも、まだ聞かなければならない。
「父は、その時まだ生きていたんですね」
「もちろん」
男は答える。
「すぐには死ななかった」
その言い方に、紅緒の背筋が冷える。
「最初は本人も抜こうとしていた。だが、指から力が抜けていった。立っていることもできなくなった」
「あなたは」
声が震える。
「あなたは、何をしていたんですか」
男は少し首を傾げた。
「見ていた」
紅緒は何も言えなかった。
「……見ていた?」
「人へ刺した時、どうなるのかを」
男は布の上の杭へ視線を落とす。
「樹ならば、周囲の根や草木から変化を追える。だが、人ではどうなるのか分からなかった。だから見ていた」
景真の拳が強く握られる。
「抜こうとは思わなかったのか」
「なぜ?」
景真の顔から表情が消えた。
男は本当に分かっていない。
「抜けば、そこで終わるだろう」
「終わって何が悪い」
「経過が取れなくなる」
景真が息を呑む。
紅緒の耳には、自分の心臓の音だけが大きく響いていた。
父は、生きていた。
杭が刺さったあとも。
目の前の男が、それを抜けば助かったかもしれない時間があった。
その時間を、この男は見ていた。
「父は……何か言いましたか」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
男は少し考える。
「いくつか」
「何を」
「森から離れろ、と。杭を持っていけ、と。二度とここへ来るな、と」
紅緒は唇を噛む。
最期まで、父は森のことを考えていた。
「それから……」
男の視線が紅緒へ移る。
「帰らなければならない、とも言っていた」
紅緒の指が震えた。
それ以上は、聞けなかった。
男はその反応にも大した関心を示さない。
「だが、興味深かったのはそこではない」
景真が低く言う。
「まだ言うのか」
「ああ」
男は平然と頷いた。
「蘇芳は、思っていたよりずっと長く保った」
紅緒が顔を上げる。
「長く……?」
「樹の末端から吸い上げる時の流れを考えれば、人の身体などもっと早く尽きると思っていた。だが、蘇芳は違った」
男の声が僅かに弾む。
「意識を失うまでにも時間がかかった。倒れてからも、完全に気が尽きるまで長かった」
「それをずっと見ていたんですか」
小夜の声は静かだった。
「そうだ」
「助けも呼ばずに」
「呼べば観察を続けられない」
あっさりとした答えだった。
小夜の口元から、普段の微かな笑みが消える。
紅緒は男を睨んだ。
「それで、父が死ぬまで見ていた」
「死んだ後も少し見た」
景真が今度こそ男へ詰め寄ろうとする。
だが、その前に小夜が声を上げた。
「待ってください」
景真が振り向く。
小夜は男ではなく、三本の杭を見ていた。
「あなたは蘇芳さんの死後も、同じ実験を続けたんですか」
「続けようとはした」
「とは?」
「面倒が増えた」
男は僅かに眉を寄せる。
「森を調べる者が増えた。杭もいくつか回収した。しばらくここを使うのは効率が悪いと判断した」
紅緒は古い根の傷を見る。
父が杭を抜いた。
その後、異変は止まった。
山吹から聞いた話と、男の証言が重なる。
男は三本の杭を一つずつ布で包み直した。
「だが、試したいことは残っていた」
小夜が男を見る。
「人に使った場合のことですか」
「それもある」
男の視線が、小夜へ止まる。
紅緒はその目つきが変わったことに気づいた。
これまで杭や天蓋樹へ向けられていた興味が、今度は小夜へ向いている。
男の視線が、小夜の左腕へ落ちた。
肘から先のない袖。
「その腕」
小夜の眉が僅かに動く。
「……私の腕が、何か?」
「失ってからどれくらい経つ」
陽香の表情が消えた。
小夜は答えない。
男は気にせず続ける。
「片腕を失った人間か。欠損した身体では、杭の吸い上げ方も変わるかもしれない」
紅緒の背筋が粟立つ。
「あなた、何を言って……」
「確かめれば分かる」
男が杭へ手を伸ばした。
その瞬間。
陽香が、小夜の前へ出た。
「……その子には、触らないでくれる?」
優しい声だった。
いつもの陽香と変わらない。
だからこそ、紅緒には妙に冷たく聞こえた。
男が陽香を見る。
「なぜ?」
「嫌だから」
陽香は微笑まなかった。
「お願いじゃないの」
小夜が、僅かに陽香を見る。
男はしばらく陽香を見つめた。
だが、興味を失ったように視線を杭へ戻す。
「なら、別の人間でも構わない」
景真が顔をしかめる。
「ふざけるな」
「比較が要る」
男は当然のことのように言った。
「蘇芳一人では足りない」
その言葉に、陽香の目が僅かに細くなる。
「……一人だけ?」
男が陽香を見る。
「何?」
「人に刺した例は、蘇芳さん一人だけなの?」
「ああ」
「それで研究と呼べるのかしら」
男の動きが止まった。
紅緒も陽香を見る。
陽香は、ただ静かに男を見返している。
「その人が特別だったのかもしれないでしょう?」
男は何も言わない。
「杭が人に刺されば、誰でも同じようになるのか。それとも蘇芳さんだけが長く耐えたのか。一人だけでは比べられないわ」
森に沈黙が落ちる。
男の顔から、初めて余計な表情が消えた。
考えている。
陽香の言葉だけを。
「……確かに」
男が小さく呟いた。
景真が眉を寄せる。
「おい」
男は聞いていない。
「一例だけでは、蘇芳の身体が特別だったのか、杭そのものの性質なのか判じられない」
「だからって他の誰かに――」
紅緒が言いかけた時だった。
男が自分の胸元へ手を当てた。
「いや」
その声に、奇妙な納得が混じる。
「他人である必要はないな」
男は一本の杭を手に取った。
小夜の糸目が、ほんの僅かに開く。
「私は自分の身体の状態を把握している。気の巡りも、日ごとの変化も記録してきた」
景真の顔が強張る。
「まさか……」
男は黒い杭の先端を見つめた。
そこには恐怖も、迷いもなかった。
ただ、新しい答えを前にした研究者の目だけがあった。
「試料なら」
男は自分の身体へ視線を落とす。
「ここにあるではないか」




