第二十話「見ていた」④
「待て!」
景真が叫んだ。
だが、男はもう動いていた。
黒い杭の先を、自分の脇腹へ当てる。
蘇芳に刺さった場所をなぞるように。
「同じ場所の方が比較しやすい」
その言葉とほとんど同時に、男は杭を自らの身体へ押し込んだ。
「何してるんだ!」
景真が駆ける。
紅緒も反射的に札へ手を伸ばした。
男は二人を見ようともしない。
自分の手首へ指を当て、脈を確かめている。
「刺入直後。痛みはある。脈は――」
言葉が止まった。
男の指先が、小さく震える。
「……速いな」
紅緒の背筋が冷えた。
さっきまで血色のあった男の顔から、目に見えて色が失われていく。
杭の周囲から何かが吸い上げられている。
目には見えない。
けれど、天蓋樹の根へ刺さっていた時と同じ、嫌な感覚がそこにあった。
「抜け!」
景真が男の腕を掴む。
男は振り払おうとした。
「まだだ。蘇芳はもっと――」
言い終える前に、膝が崩れた。
「っ!」
景真が男の身体を支える。
その隙に、紅緒は黒い杭を掴んだ。
「抜くわよ!」
力を込める。
杭は抵抗なく抜けた。
傷口は小さい。
それなのに、男の顔色は戻らない。
紅緒はすぐに傷口を両手で押さえた。
「止まって……!」
血はさほど出ていない。
杭による吸い上げも、抜いた時点で止まっている。
それでも。
「紅緒」
景真の声が低い。
男の身体から力が抜けていく。
「そんな……」
紅緒は傷口を押さえたまま、男の顔を見る。
男は苦しそうに顔を歪めてはいなかった。
むしろ、僅かに目を見開いていた。
驚いている。
自分の死ではなく、目の前で起きている現象に。
「……なるほど」
掠れた声が漏れる。
「何が、なるほどだ」
景真が吐き捨てる。
男は答えない。
自分の指を動かそうとして、動かないことを確かめる。
次に息を吸う。
その呼吸が浅くなっていることを確かめる。
最後まで、観察していた。
「人では……この速さか……」
紅緒の手が止まる。
男の視線が、どこでもない場所を向いた。
「いや……違うな」
微かな笑いが、その口元に浮かぶ。
「なら……蘇芳の方が……」
言葉は途切れた。
男の唇が、もう一度かすかに動く。
「結社に……報告を……」
「結社?」
紅緒が聞き返す。
「そう、だ……常夜……結社……」
小夜の右手が、僅かに止まった。
陽香は何も言わなかった。
男の身体から、完全に力が抜けた。
「……おい」
景真が呼びかける。
返事はない。
景真の顔が強張る。
今まで言葉を交わしていた人間が、自分の腕の中で動かなくなった。
紅緒が男の首元へ指を当てる。
しばらくして、静かに首を横へ振った。
森の中に、葉の擦れる音だけが戻ってきた。
紅緒は座り込んだまま、抜き取った杭を見つめていた。
黒い表面には、ほとんど変化がない。
これが父の命を奪った。
そして今、同じことをした男の命も奪った。
それなのに、杭は何もなかったように紅緒の手の中にある。
「……紅緒さん」
小夜の声がした。
紅緒はすぐには顔を上げられなかった。
怒りが消えたわけではない。
父を見殺しにした男が死んだ。
それで何かが戻ってくるわけでもなかった。
ただ、長い間知らなかった父の最期だけが、胸の中へ重く沈んでいた。
「大丈夫です」
ようやく、それだけ答える。
自分でも、大丈夫ではないことくらい分かっていた。
景真は何も言わなかった。
ただ紅緒の傍へしゃがみ、男の身体から少し離れた場所に残っていた布包みを拾う。
中には、残り二本の黒い杭があった。
紅緒が持つ一本を合わせて、三本。
すべて戻った。
「こいつが持ってたってことは……」
景真が小夜を見る。
小夜は静かに頷いた。
「少なくとも、私がここへ持ってきたものではありません」
「でも、それだけじゃ足りないわ」
陽香が言った。
紅緒が顔を上げる。
陽香は小夜のすぐ横に立ったまま、三本の杭を見ていた。
「この人が持っていたからって、小夜から受け取った可能性まで消えるわけじゃないでしょう?」
小夜が陽香を見る。
陽香は穏やかな声のまま続けた。
「疑われたままにはしたくないの」
短い言葉だった。
それだけで、小夜は何も返さなくなった。
景真が立ち上がる。
「なら、戻って確かめましょう」
紅緒も頷いた。
男の言葉だけではなく、事実で確かめる。
宗心なら、きっとそうする。
*
翌朝。
陰陽寮の一室には、宗心と紅緒、景真、小夜、陽香が揃っていた。
三本の黒い杭は、昨夜のうちに改めて封を施され、別の場所へ保管されている。
男の亡骸も調査のため幽京へ運ばれたが、身元を示すものは何ひとつ持っていなかった。
名は、最後まで分からない。
残ったのは、死の間際に口にした「常夜結社」という一つの言葉だけだった。
宗心が卓上の帳面を閉じる。
「確認が取れた」
小夜が顔を上げる。
「小神。お前が幽京を出たのは、夜番が交代する少し前だな」
「はい」
「東門の兵の証言と一致する」
昨日、東門で聞いた、顔までは見えなかった女の話。
あれはやはり、小夜だった。
宗心は続ける。
「その後、陰陽寮では夜番の引き継ぎが行われている。危険物を収めた夜は、その際に封と数を確認する。それが規則だ」
紅緒の胸が鳴る。
「杭は……?」
「あった」
宗心は即答した。
「三本ともだ。保管役二名が現物を確認し、帳面にも記している」
部屋が静かになった。
小夜が幽京を出た。
その後も、杭は陰陽寮にあった。
ならば、少なくとも小夜自身が三本の杭を保管庫から持ち出し、そのまま蒼杜へ向かったという疑いは成り立たない。
「加えて、あの男自身が陰陽寮から持ち出したことを認めている」
宗心の声は淡々としている。
「男の言葉だけなら証拠としては足りん。だが、時刻と保管記録は別だ」
紅緒は小夜を見る。
小夜はいつもの糸目のまま、静かに宗心の言葉を聞いている。
宗心が小夜へ視線を向けた。
「疑うことと、断ずることは違う」
一拍置く。
「小神が杭を持ち出した事実はない。それが結論だ」
紅緒は息を吐いた。
胸の奥に残っていたものが、ようやく少しほどける。
「小夜さん」
「はい」
「……疑って、すみませんでした」
小夜は僅かに首を横へ振った。
「当然の疑いです。何も言わずに姿を消したのは私ですから」
「でも――」
「次からは、もう少し上手くやります」
「そこは、やらないでください」
思わず返すと、景真が小さく息を漏らした。
陽香だけは笑わなかった。
「次はないわ」
柔らかい声だった。
小夜が陽香を見る。
陽香はいつもの穏やかな顔へ戻っていた。
けれど、その一言だけは妙に重かった。
宗心が咳払いをする。
「話が終わっていない」
全員の視線が戻る。
「黒い杭については引き続き調べる。素材も術式も不明な点が多い。それと、『常夜結社』だ。今回の男だけで終わったと決めつけるな」
「はい」
紅緒は頷いた。
父の死の真相は分かった。
けれど、黒い杭そのものについては、まだ分からないことが残っている。
そして――。
「紅緒さん」
小夜に呼ばれ、紅緒は顔を向けた。
「何ですか?」
小夜は少しだけ黙った。
いつもの糸目の奥から、紅緒をまっすぐ見ている。
「蘇芳さんのことについて」
その声は静かだった。
「まだ、お話ししていないことがあります」




