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第二十話「見ていた」②

「研究材料……?」

 紅緒の声が低くなる。

 男は三本の杭を布の上へ並べた。

 黒い表面には、天蓋樹から引き抜いた時についたものだろう、乾いた樹液と土が薄くこびりついている。

「そうだ。まさか、あれをわざわざ陰陽寮まで持ち帰るとは思わなかった」

 景真が一歩前へ出た。

「じゃあ、陰陽寮からこれを持ち出したのはお前か」

 男は首を傾げる。

「持ち出した? 返してもらっただけだが」

「勝手に入って盗んだなら、それを持ち出したって言うんだよ」

「そういう呼び方に興味はない」

 まるで話が噛み合わない。

 景真が眉をひそめる横で、小夜は三本の杭をじっと見ていた。

「あなたが、これを作ったんですか」

「作った、というのは少し違う」

 男は杭の一本を持ち上げる。

「素材そのものは私が見つけたものではない。加工し、術式を与え、使える形にしたのは私だ」

「何のために?」

 紅緒が問う。

 男の視線が、ようやく紅緒へ向いた。

「調べるためだよ」

「何を」

「生命が、どのように巡っているのかを」

 男は天蓋樹を見上げた。

 巨大な枝葉の向こうから、細かな木漏れ日が落ちてくる。

「この樹は面白い。一本の幹でありながら、森のずっと遠くまで根を伸ばし、そこにある草木へ気を分けている。吸い上げ、送り、また戻す。まるで巨大な一つの身体だ」

 紅緒の頭に、コダマの言葉が蘇る。

 行き、巡り、戻る。

 それが天蓋樹の本来の姿だった。

「だから、止めたんですか」

 小夜が静かに言った。

 男が小夜を見る。

「止めた?」

「杭を打ち込み、戻るはずの気を奪った。どこまで流れが滞れば、どの範囲へ影響するのか。それを見ていたんでしょう」

 男はしばらく小夜を見つめた。

 やがて、僅かに口元を上げる。

「よく分かったね」

 褒めるような声だった。

 小夜の表情は変わらない。

「古い記録に、根から枯れた草の報告がありました。水も土も悪くないのに、生気だけが抜けたように枯れていったと」

「記録が残っていたのか」

 男は、そちらの方に興味を示した。

「残した者は観察が足りないな。あれは枯死そのものが目的ではない」

「目的じゃなければ、何をしてもいいんですか」

 紅緒の声が強くなる。

 男は瞬きをした。

「何の話だ?」

「周りの草が枯れたんでしょう。天蓋樹だって傷ついた。それを分かっていて続けたんじゃないんですか」

「もちろん続けた」

 あまりにも平然とした返事だった。

「影響が出なければ、何も分からないからね」

 紅緒は言葉を失った。

 景真の顔からも、わずかに表情が消える。

 男は気にした様子もなく、杭を指先で転がした。

「一本目は浅く。二本目は距離を置いて。三本目はさらに太い根へ。位置と深さを変えれば、吸い上げられる量も、周囲への影響も変わる。予想通りだった部分もあれば、違った部分もあった」

「……三本だけではありませんね」

 小夜が言った。

 男の指が止まる。

「昔も、同じことをした」

「そうだ」

 否定はなかった。

 紅緒の胸が強く鳴る。

「昔って……いつですか」

 男は紅緒を見る。

「正確な年は記録を見れば分かる。覚えておく必要はない」

「蘇芳という人を知っていますか」

 その名を口にした瞬間。

 男の目に、初めてはっきりとした反応が浮かんだ。

 驚きではない。

 懐かしいものを思い出したような、純粋な興味だった。

「ああ」

 男は小さく頷く。

「蘇芳か」

 紅緒の指先が冷たくなる。

「知ってるんですね」

「知っているとも」

 男は、少しだけ楽しそうに笑った。

「あれは興味深かった」

 景真の視線が鋭くなる。

 紅緒は一歩、男へ近づいた。

「父に、何をしたんですか」

「父?」

 男が紅緒の顔をまじまじと見る。

「君は蘇芳の娘か」

「答えてください」

 男は紅緒の問いを急かされたとも思っていないらしい。

 むしろ新しい情報を得たことに満足したように、何度か頷いた。

「なるほど。似ている、と言えば似ているのかもしれないな」

「あなたが、昔ここで杭を使っていたんですか」

「そうだ」

「父は、それを見つけた」

「見つけただけではない」

 男は天蓋樹の根へ目を向けた。

「抜いて回った」

 紅緒の脳裏に、山吹の話が蘇る。

 父が一人で森へ入った、その後。

 新しく草が枯れることはなくなった。

 古い根に残っていた、杭ほどの傷。

 すべてが、一つにつながっていく。

「蘇芳は厄介だったよ」

 男は淡々と続ける。

「こちらが場所を変えても見つける。深く打っても掘り出す。せっかく経過を見ていたのに、途中で抜かれてしまえば最後まで経過を追えない」

「経過……?」

 紅緒の声が震えた。

 男は気づかない。

「どれほど吸えるか。どの程度で周囲へ影響が出るか。抜いた後、どれほどで巡りが戻るか。どれも時間をかけて見なければ分からない」

「そのために、父が邪魔だったんですか」

「邪魔だった」

 即答だった。

 景真が前へ出ようとする。

 紅緒は片手を上げて止めた。

 聞かなければならない。

「父は、あなたに何を言ったんですか」

 男は少し考える。

「覚えているよ。変わった男だったからね」

 遠い記憶を確かめるように、目を細める。

「森が死ぬ、と言った」

 紅緒は息を止めた。

「このまま続ければ、天蓋樹だけではない。ここで生きているものを巻き込む、と」

 男は杭へ視線を落とした。

「だからやめろ、と」

「それで、やめたんですか」

 聞くまでもないと分かっていた。

「なぜ?」

 男は本気で不思議そうに首を傾げた。

 紅緒の奥歯が噛み合う。

 陽香は何も言わない。

 ただ、小夜のすぐ傍に立ったまま、男を見ている。

 男は続けた。

「むしろ都合がよかった。蘇芳が杭を見つけられるなら、こちらの隠し方にも改善の余地がある。あれがどこまで見抜くのか、試す価値があった」

「人を、何だと思ってるんですか」

 紅緒の声が低くなる。

「人?」

 男はまた、意味の分からない問いを向けられた顔をした。

 その瞬間、紅緒には理解できた。

 男の顔には、怒りも、嘲りもなかった。

 ただ、本当に問いの意味が分からないという色だけがあった。

 そのことの方が、紅緒には恐ろしかった。

「それで」

 紅緒は拳を握り締めた。

「父は、どうなったんですか」

 男が黙る。

 ほんの少しだけ、視線が杭へ落ちた。

「あの日、最後の一本を巡って、蘇芳と争った」

 紅緒の胸が大きく鳴る。

「あなたが、父を殺したんですか」

 森が静まり返った。

 男はすぐには答えなかった。

 やがて、記憶の中の出来事を正確に言い直すように口を開く。

「殺すつもりはなかった」

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