第二十話「見ていた」①
「小夜!」
陽香の声が、森の静けさを裂いた。
木々の間を抜けた先。天蓋樹の太い根が幾重にも重なる場所に、一人の女がしゃがみ込んでいた。
呼び声に振り返った顔。糸のように細い目は、いつものままだった。
「……陽香?」
小夜だった。
左腕の袖は、肘から先が邪魔にならないよう短く留められている。右手には、土を払うために使っていたらしい細い刷毛が握られていた。
陽香は足を止めなかった。
「小夜……!」
そのまま小夜の前まで駆け寄り、両肩を掴む。
「怪我は? どこか痛いところはない? 何もされてない?」
「え、ええ。私は何ともありませんが……」
いつもの穏やかな調子を崩した陽香に、小夜の方が戸惑っていた。
少し遅れて紅緒も追いつく。
息を整えながら二人へ近づき、まず小夜が無事であることに胸を撫で下ろした。
けれど、すぐに別の疑問が浮かぶ。
小夜の周囲に、黒い杭は見当たらない。
「小夜さん」
紅緒が呼ぶ。
小夜がこちらを向いた。
「黒い杭は、どこですか?」
「……杭?」
小夜の表情が止まった。
「三本とも、陰陽寮の保管庫からなくなったんです」
その瞬間だった。
いつもは糸のように細められている小夜の目が、僅かに開く。
「なくなった……?」
「今朝、確認した時にはもうなかったそうです」
紅緒は小夜の顔を見つめた。
驚きは、作っているようには見えなかった。
だが、それだけで疑いが消えるわけではない。
「小夜さんがいなくなったのも、今朝分かりました」
「……そうですか」
小夜は短く答え、それから陽香を見る。
陽香はまだ、小夜の肩から手を離していなかった。
「陽香。私は大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ」
即答だった。
「何も言わずにいなくなって、それで大丈夫なわけないでしょう」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいんじゃないの」
陽香の声は優しい。
それなのに、普段よりずっと強かった。
小夜はしばらく黙り、やがて小さく息を吐く。
「……心配をかけました」
その言葉を聞いて、ようやく陽香の指から少しだけ力が抜けた。
紅緒は二人のやり取りを見守ってから、もう一度尋ねる。
「小夜さん。杭を持ってきたんじゃないんですね?」
「持ってきていません。そもそも、保管庫から消えたこと自体、今初めて知りました」
紅緒は胸の奥にあった固いものが、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
だが、疑問は残る。
「では、どうして蒼杜に?」
小夜の視線が、紅緒の背後へ向いた。
天蓋樹の根。
その表面には、長い年月を経て塞がった古い傷が残っている。
「昨日、あの杭を見た時に、気になることがありました」
「気になること?」
「見覚えがあった……というのは正確ではありません」
小夜は根元へしゃがみ直し、右手で古い傷の縁を示した。
「以前、似た形状のものについて記された古い記録を読んだことがあります」
紅緒の心臓が強く鳴る。
「どこでですか」
「陰陽寮の古い記録です。蒼杜で起きた異変について調べられたものの中に、黒い異物の記述がありました」
「それって……」
紅緒の脳裏に、父の名が浮かぶ。
小夜はそれを察したように、一度言葉を止めた。
「時期は、蘇芳さんが亡くなる少し前です」
森の音が遠のいた気がした。
紅緒は無意識に手を握る。
「父のことを、知っていたんですか」
「すべてではありません」
小夜は首を横に振った。
「記録には欠けている部分が多く、当時何が起きたのかまでは分かりませんでした。ただ、昨日あなたたちから聞いた話と、あの杭を見て……無関係とは思えなくなったんです」
「だから、一人でここへ?」
「確かめたかったんです」
「私たちに言わずに?」
紅緒の声が少しだけ強くなる。
小夜は答えなかった。
その沈黙だけで、紅緒には分かった。
「昨日、私たちを調査から遠ざけようとしたのも……」
小夜は古い傷へ視線を落としたまま答える。
「あなたたちが、これ以上関わる必要はないと思ったからです」
「それは――」
「小夜!」
陽香が遮った。
怒鳴ったわけではない。
それでも、小夜が僅かに肩を揺らした。
「一人で来たら、あなたが代わりに危ない目に遭うでしょう」
「……陽香」
「それで何かあったら、意味がないの」
声が震えていた。
紅緒は、陽香が小夜本人へこれほど剥き出しの感情をぶつける姿を初めて見た。
小夜も同じだったのかもしれない。
いつもの糸目のまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、森の奥から枝を踏む音がした。
「紅緒!」
景真の声だった。
三人が同時に振り返る。
木々の間から景真が駆けてくる。
「景真?」
「まだ誰かいる!」
紅緒の背筋が強張った。
景真は三人の傍まで来ると、息を整える間も惜しむように続ける。
「コダマさんが気づいた。小夜さんとは別に、もう一人いる」
小夜の表情が変わった。
「別に……?」
「ああ。かなり気配を消してるらしい」
景真が周囲を見回す。
「先に見つけた小夜さんより、ずっと――」
「ほう」
知らない声がした。
四人の動きが止まる。
声は、少し離れた木々の陰から聞こえた。
「そこまで拾うのか。あの木霊は、思っていたより感覚が鋭いらしい」
一人の男が、ゆっくりと姿を現した。
見覚えはない。
年齢すら、一目では判じにくかった。
男は足元の根を避け、草を踏まない場所だけを選ぶように歩いてくる。
その動きには無駄がなく、森へ余計な気配を残さないことに慣れているのが分かった。
景真が紅緒たちの前へ出る。
「お前は誰だ」
男は足を止めた。
そして、不思議そうに景真を見る。
「誰?」
本当に、質問の意味が分からないような顔だった。
「名を聞いてどうする」
「どうするって……」
「君たちが知りたいのは、私の名ではないだろう」
男はそう言って、手にしていた布包みを持ち上げた。
ほどけた布の隙間から、黒い先端が覗く。
一本。
二本。
三本。
紅緒は息を呑んだ。
「その杭……!」
男の口元が、僅かに緩む。
「これか」
まるで、ようやく話が本題に入ったとでも言うように。
「取り戻しただけだ」
男は三本の黒い杭を見下ろした。
「もともと、私の研究材料だからね」




