第十九話「消えた人、消えた杭」④
蒼杜へ着いた時、日はまだ高かった。
三人は集落へ入ると、そのまま山吹の薬舗へ向かった。
戸口の前では、すでに山吹が待っていた。
「早かったね」
「文をありがとうございました」
紅緒が頭を下げる。
山吹は三人の顔を順に見た。最後に陽香へ視線を止め、僅かに眉を上げる。
「ずいぶん急いできたみたいだね」
「その人を見た場所へ案内してもらえる?」
陽香がすぐに尋ねた。
声は柔らかい。けれど、挨拶を交わす余裕さえ惜しんでいるのが分かった。
山吹は何も聞かず、薬舗の脇へ置いていた籠を持ち上げる。
「こっちだよ」
三人は山吹の後を追い、森へ入った。
先日何度も歩いた道だった。
それなのに、紅緒には景色がまるで違って見えた。
あの時は、天蓋樹の異変を探していた。
今は、小夜を探している。
そして、消えた三本の杭も。
しばらく進んだところで、山吹が足を止めた。
「見たのはこの辺りさ」
街道から外れ、禁樹域へ続く細い道の手前だった。
「朝、向こうの薬草を見に行ってね。戻る途中で、ここから森へ入っていく人影を見た」
山吹が木々の奥を指す。
「顔は?」
景真が尋ねた。
「見えなかったよ。何度か後ろを振り返ってたけど、あたしに気づいてたかどうかも分からない」
「片腕だったかは?」
「そこまでは見えなかったね」
景真は小さく頷いた。
やはり、小夜だと断定できる材料はない。
陽香はすでに森の奥を見ていた。
「行きましょう」
「待ちな」
山吹が止める。
陽香が振り返った。
「禁樹域だよ。昨日の異変が収まったばかりなんだ。勝手に踏み込むより、先にあの子を呼んだ方がいい」
紅緒も頷く。
「コダマさんですね」
山吹は森へ向かって声を張った。
「コダマ! いるなら出ておいで!」
返事はない。
風が梢を揺らした。
少し遅れて、一本の木の根元に淡い光が集まり始める。
輪郭が人の形を取り、小さな少女の姿になった。
「騒がしいのう」
コダマは眠たげに目を細めた。
「昨日帰ったばかりではないか」
「すみません。また調べたいことができたんです」
紅緒が事情を簡単に話した。
小夜がいなくなったこと。
黒い杭が三本とも消えたこと。
そして今朝、山吹が禁樹域へ向かう人影を見たこと。
話を聞き終えると、コダマは陽香を見上げた。
陽香は何も言わなかった。
ただ、返事を待っていた。
「人が入ったか、分かりませんか?」
紅緒が尋ねる。
「さてな」
コダマは森へ顔を向けた。
「人が歩いたからとて、そのすべてをわしらが見ておるわけではない」
「でも、木々の気の揺れみたいなものから探せませんか?」
景真が聞く。
コダマは少し考えた。
「普通に歩いておるならば、枝へ触れ、根を踏み、草木の気を揺らす。探れば分かることもあろう」
「お願いします」
陽香が言った。
それまで抑えていたものが、声の端に滲んだ。
「お願い。探して」
山吹は陽香の横顔を一度見てから、来た道へ目をやった。
「あたしは薬舗へ戻るよ。薬を待ってる者もいるからね。何か分かったら知らせな」
そう言い残すと、山吹は一人、来た道を戻っていった。
コダマは陽香をじっと見たあと、静かに目を閉じた。
少女の輪郭が淡く揺れる。
同時に、森の奥から葉擦れの音が広がった。
風ではない。
近くの木から遠くの木へ、何かが伝わっていくように枝葉が震えていく。
紅緒は息を潜めた。
しばらくして、コダマが目を開く。
「……分からぬ」
陽香の表情が強張った。
「いないの?」
「そうとは言うておらぬ。人の気配は薄い。昨日から森もまだ落ち着ききってはおらぬからの」
「もう一度、お願いできない?」
陽香が一歩近づく。
コダマの眉が僅かに寄った。
「急かすでない」
「ごめんなさい。でも――」
陽香の声が詰まる。
紅緒は初めて、彼女が言葉を失うところを見た。
コダマは小さく息を吐いた。
「よい。もう少し深く探る」
再び目を閉じる。
先ほどより長い沈黙が続いた。
木々がざわめく。
天蓋樹の方角から、遠く低い響きが返ってくる。
コダマの顔から、眠たげな表情が消えた。
「……おる」
陽香が息を呑む。
「どこ?」
「奥じゃ。大樹の根が重なる辺りに、一人。じゃが妙じゃ。人にしては、木々の気をほとんど乱しておらぬ」
「小夜!」
陽香はそれだけ叫ぶと、森の奥へ駆け出した。
「陽香さん!」
紅緒も反射的に追う。
「待ってください!」
景真も地面を蹴った。
「待て!」
背後から、コダマの鋭い声が飛んだ。
景真は反射的に足を止め、振り返る。
「何ですか。二人が――」
「静かにせよ」
いつになく鋭い声だった。
景真は口を閉じる。
陽香と紅緒の背中は、すでに木々の向こうへ消えかけている。
「コダマさん?」
「妙じゃ」
少女は二人が走っていった方角ではなく、少し外れた森の奥を見ていた。
「今の一人とは別に、何かが引っかかった」
景真の背筋に冷たいものが走る。
「別に……?」
「先ほどは分からなんだ。先の者よりさらに薄い。木々へ触れぬよう、気配まで殺しておる」
コダマはもう一度目を閉じた。
周囲の木々が、今度はほとんど音も立てずに震える。
長い沈黙。
やがて、コダマの目がゆっくり開いた。
「……もう一人、おる」
景真は、息を止めた。




