第十九話「消えた人、消えた杭」③
陰陽寮を出た三人は、まず幽京の中を回った。
小夜が普段立ち寄る場所。陰陽寮と行き来のある者。昨夜遅くまで人の出入りを見ていた者。
紅緒と景真が一つずつ確かめ、陽香もそのたびに相手の顔を覗き込むようにして尋ねた。
だが、返ってくる答えはどれも同じだった。
「小神博士ですか? 昨日は見ましたが……」
「夜になってからは、見ていませんね」
「今朝もこちらには来ていません」
誰も、小夜がどこへ向かったのか知らない。
置き手紙もない。誰かに行き先を告げた様子もない。
まるで、最初から誰にも気づかれないように消えるつもりだったかのようだった。
「次はどこ?」
陽香が尋ねる。
陰陽寮を出てから、何度目か分からない問いだった。
景真が周囲を見回しながら答える。
「東の門はまだです。あと、御伽衆の方にも念のため聞いてみます」
「分かったわ。行きましょう」
陽香はすぐに歩き出した。
その足取りは、普段の彼女からは想像できないほど速い。
紅緒は景真と顔を見合わせ、その後を追った。
東の門では、一つだけ曖昧な証言が得られた。
夜明け前、夜番が交代する少し前に、一人で門を出た女を見たという兵がいた。ただ、辺りはまだ暗く、顔までは確かめられなかったらしい。
背格好もはっきりせず、小夜だったと断言できるほどではなかった。
景真は御伽衆の知り合いにも声をかけた。
昨夜から今朝にかけて、片腕の女性を見ていないか。
細身で、陰陽師風の装束をした女が一人で歩いていなかったか。
だが、こちらも空振りだった。
「……見つからないな」
景真が低く呟く。
紅緒も頷いた。
幽京は広い。人一人を探すには、あまりに広い。
それでも、小夜ほど目立つ人物なら、どこかで誰かが見ていてもおかしくないと思っていた。
とりわけ、肘から先のない左腕は人目を引く。
それなのに、はっきり小夜を見たという者がいない。
「まだ調べていないところは?」
陽香がまた尋ねた。
息は乱れていない。
けれど、声には朝よりも明らかな焦りが混じっていた。
「陽香さん」
紅緒が呼ぶと、陽香が振り返る。
「少しだけ――」
「平気よ」
言い終わる前に返された。
陽香はすぐに柔らかく言い直す。
「ごめんなさい。でも、今は止まりたくないの」
その笑顔は、やはりいつもの形には戻っていなかった。
紅緒は何も言えず、小さく頷いた。
日が高くなり始めても、小夜の足取りは掴めなかった。
陰陽寮へ一度戻るべきか。
それとも、さらに範囲を広げるべきか。
三人が東の大路を歩きながら考えていた、その時だった。
「大月紅緒さん!」
背後から呼ばれ、紅緒が足を止める。
一人の使いが、人混みを縫うように走ってきた。
肩で息をしながら、懐から折り畳まれた文を取り出す。
「蒼杜からの早使いです。伏原山吹殿より」
「山吹さんから?」
紅緒は驚きながら文を受け取った。
封を切る。
景真と陽香も、自然とその傍へ寄った。
文は短かった。
今朝方、山吹が薬草を見に森の外れへ出た時、見慣れない人影が一人、禁樹域の方角へ入っていくのを見たという。
顔までは見えなかった。
背格好も、女か男か断言できるほどではない。
ただ、蒼杜の者ではなく、何度か周囲を確かめるように振り返りながら森へ入っていったことだけは確かだと書かれていた。
昨日、天蓋樹から黒い杭を抜いたばかりだ。
だから念のため知らせる。
最後には、そう添えられていた。
紅緒は文を持つ手に力を込めた。
「禁樹域……」
景真も険しい顔で文を見る。
「小夜さんだと決まったわけじゃない」
「分かってる。でも……」
紅緒の頭には、朝からずっと一つの考えがあった。
小夜がいない。
黒い杭もない。
そして今、見慣れない誰かが禁樹域へ向かったという。
「もし、小夜さんが杭を持って出たんだとしたら」
口にした途端、陽香の表情が強張った。
紅緒は続ける。
「向かう理由があるとすれば、天蓋樹なんじゃないかしら」
「杭を戻すために?」
景真はそう口にしてから、すぐに眉を寄せた。
「いや、まだ小夜さんが持っていると決まったわけじゃない」
「分かってる。でも、可能性はあるわ」
紅緒はそう答えたものの、その可能性を口にするだけで胸が重くなった。
「小夜は、そんなことしないわ」
陽香が言った。
今度は叫ばなかった。
静かな声だった。
それでも、その言葉には迷いがなかった。
紅緒が陽香を見る。
「……陽香さん」
「小夜は、天蓋樹を傷つけるようなことはしない」
陽香はそれだけ言うと、文から視線を上げた。
「でも、そこにいる可能性があるなら行くわ」
景真が頷く。
「俺もそう思います。誰だったとしても、昨日の今日で禁樹域へ入った奴がいるなら、確かめた方がいい」
紅緒も頷いた。
「行きましょう」
三人はその場で踵を返した。
東門へ向かう足取りが、自然と速くなる。
昨日までなら、蒼杜へ戻ることになるとは思ってもいなかった。
天蓋樹の異変は収まり、黒い杭も持ち帰った。
少なくとも、ひとまずは終わったはずだった。
けれど今、その杭は消えた。
小夜も消えた。
そして、禁樹域へ向かった正体不明の人影がいる。
紅緒は胸の奥に残る嫌な予感を振り払えないまま、東へ続く街道へ出た。少し先を行く陽香に、いつもの柔らかな笑みはない。ただ前だけを見ている。三人は、再び蒼杜を目指した。




