第十九話「消えた人、消えた杭」②
翌朝、紅緒と景真が陰陽寮へ呼び戻された時、東の空にはまだ朝の白さが残っていた。
昨夜提出した書面について、何か確認でもあるのだろう。そう思っていた紅緒は、案内された部屋へ入った瞬間、足を止めた。
宗心がいる。その前には陽香が立っていた。
いつもなら穏やかに微笑んでいるはずの顔から、笑みが消えている。整えている髪も一筋だけ頬へかかり、そのまま直した様子もなかった。
「何かあったんですか?」
紅緒が尋ねると、陽香がこちらを向いた。口を開きかける。けれど、すぐには言葉が出てこない。
代わりに宗心が告げた。
「小神がいない」
「……え?」
「今朝の勤めに姿を見せなかった。自室にもいない」
紅緒は思わず陽香を見る。陽香の指が、袖口を強く握っていた。
「私も探したの」
いつもの柔らかな声だった。だが、僅かに震えている。
「部屋も、書庫も、庭も。小夜が行きそうなところは見たわ。でも、どこにもいないの」
「昨夜は?」
景真が聞いた。
「少なくとも、夕刻までは陰陽寮にいた。俺が話を終えた後もな」
宗心が答える。
紅緒の脳裏に、昨日の小夜の姿が浮かんだ。
黒い杭を見た瞬間、ほんの僅かに開いた目。蘇芳の名を聞いた時、宙で止まった右手。
これ以上は関わらないでください。
そう言った声。胸の奥に、嫌な予感が広がる。
その嫌な予感を肯定するように、宗心が間を置いて続けた。
「もう一つある」
その声だけで、紅緒の背筋が強張った。
「昨日預かった黒い杭が、三本とも消えた」
「――え?」
景真の声が低くなる。
「三本とも、ですか」
「ああ。昨夜、保管庫へ収めた時点では確かにあった。今朝確認した時にはなくなっていた」
部屋が静まり返った。
小夜がいない。黒い杭もない。
昨日、小夜は杭を見て、何かを感じ取ったように見えた。そして、紅緒たちを調査から遠ざけようとした。
考えたくなくても、一つの可能性が形を取ってしまう。紅緒は唇を開いた。
その隣で、景真は何も言わず、僅かに眉を寄せていた。
「小夜さんが……持っていったんでしょうか」
「違う」
陽香の声が、紅緒の言葉に重なった。あまりに早い否定だった。
紅緒が顔を上げる。
陽香は、こちらを見ていなかった。どこか遠くを見るように、虚空へ視線を向けている。
「小夜じゃない……」
呟く声が震える。
「小夜のはずがないの……!」
顔を上げた陽香の瞳には、普段の穏やかさとはかけ離れた、異常な光が宿っていた。
紅緒は息を呑んだ。こんな陽香を見たことがない。
いつも人を安心させるように笑い、多少のことなら「大丈夫よ」と受け止めてしまう人だと思っていた。
その陽香が今は、何かに縋るように同じ言葉を繰り返している。景真も驚いたように陽香を見ていた。
「真砂」
宗心の低い声が落ちる。
「落ち着け」
陽香の肩が僅かに揺れ、しばらくして強く握っていた袖から指が離れる。
「……ごめんなさい」
小さく息を吐く。
「でも、今は……無理みたい」
いつものように笑おうとしたのだろう。けれど、その表情は形になる前に消えた。
「小夜が、いないの」
その一言だけが、ひどく弱かった。
紅緒は何も返せなかった。昨日のやり取りを思い出せば、小夜を疑う理由はいくらでもある。
それでも、陽香がここまで強く否定する姿を見ると、簡単に口にはできなかった。
景真が宗心へ向き直る。
「杭がなくなったことと、小夜さんがいないことは、まだ同じ理由だと決まったわけじゃないんですよね」
宗心が頷き、眉間の皺を深くしたまま二人を見る。
「疑うことと、断ずることは違う。事実を確かめてから判断する。それが規則だ」
そこで一度言葉を切る。
「小神を見つけ、連れ戻せ。何があったのかは本人に確かめる」
「分かりました」
紅緒は頷いた。景真も短く返事をする。
「私も探しに行くわ」
陽香が言った。
宗心が視線を向ける。
「真砂」
「止めても行くわ」
声音は柔らかい。けれど、そこに普段の余裕はなかった。
宗心はしばらく陽香を見ていたが、やがて深く息を吐いた。
「勝手をするな。大月、東春と行動しろ」
「ええ」
陽香はすぐに頷き、紅緒と景真へ向き直る。
「お願い。小夜を探すのを手伝って」
今度の声には、取り繕うような笑みすらなかった。
紅緒は一瞬だけ迷い、それからまっすぐ頷く。
「もちろんです」
「俺も」
景真も続いた。
陽香は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
三人はすぐに部屋を出た。
小夜がどこへ行ったのか。黒い杭を誰が持ち去ったのか。二つが同じ答えへつながっているのかさえ、まだ分からない。
それでも紅緒の胸には、昨日から消えない違和感が残っていた。
小夜は、何かを知っている。そして今、その小夜がいない。




