第十九話「消えた人、消えた杭」①
三本の黒い杭は、厚い布の上へ並べられていた。
蒼杜から戻った翌日。
紅緒と景真は陰陽寮の一室で、宗心、小夜、陽香と向かい合っていた。
山吹が何重にも布を巻いてくれた杭は、一本ずつ解かれ、今は全体が見える状態になっている。親指ほどの太さ。木とも金属ともつかない黒い表面。そして、細く刻み込まれた見覚えのない術式。
「これが、天蓋樹の根に刺さっていたものです」
紅緒が言った。
宗心は腕を組んだまま、杭を見下ろしている。
「三本、すべて同じものか」
「見た限りでは。刻まれている術式も、ほぼ同じでした」
「材質は?」
「分かりません。山吹さんにも判断できませんでした」
宗心の眉間の皺が、僅かに深くなった。
その横で、小夜は黙って杭を見つめていた。いつも糸のように細められている目が、ほんの僅かに開く。だが、それも一瞬だった。
紅緒は説明を続ける。
「杭は天蓋樹の気を少しずつ奪っていました。しかも、奪った気を自分の周りへ纏わせて、木そのものに紛れていたんです。そのせいで、木霊も長い間気づけなかったみたいです」
「ずいぶん悪趣味な仕掛けねえ」
陽香が困ったように眉を下げた。
いつもの柔らかな声だった。けれど、その視線は杭から離れない。
景真が続けた。
「同じような異変が、昔にも蒼杜で起きてたらしいんです。蘇芳さんが亡くなる少し前に」
その瞬間だった。
小夜の指先が、止まった。
ほんの一瞬。
杭へ伸ばしかけていた右手が宙で止まり、すぐに膝の上へ戻る。
他の者なら見落としていたかもしれない。
けれど、紅緒は見ていた。
「小夜さん?」
小夜が顔を上げる。
「何でしょう」
声はいつもと変わらない。
「……いえ」
紅緒は一度言葉を飲み込み、それでも問い直した。
「この杭を、ご存じなんですか?」
室内が静かになった。
小夜はすぐには答えなかった。
視線だけが、もう一度黒い杭へ落ちる。
「小夜?」
陽香が優しく呼ぶ。
「大丈夫です、陽香」
小夜はそう答えると、紅緒へ向き直った。
「この杭は、陰陽寮で預かります」
「はい」
「そして紅緒さん。東春さんも」
小夜の声が、僅かに硬くなる。
「これ以上、この件には関わらないでください」
紅緒は瞬きをした。
「……どうしてですか?」
「あなたたちが関わる必要はありません」
「あります」
思ったより強い声が出た。
紅緒は自分でも驚いたが、引く気にはなれなかった。
「昔の異変が父の死と関係しているかもしれません。父が何を調べていたのか、私は知りたいです」
「まだ、関係があると決まったわけではありません」
「だから調べたいんです」
小夜の口元から、僅かに柔らかさが消えた。
紅緒はその視線を正面から受けた。
「小夜さんは、何か知っているんじゃないんですか?」
「紅緒」
景真が低く名前を呼ぶ。
責める声ではない。ただ、少し強くなりすぎていると気づかせるような呼び方だった。
紅緒は一度息を吸う。
「……すみません。でも、教えてください。この杭を見た時、小夜さん、何かに気づきましたよね」
小夜は黙っていた。
その沈黙が、紅緒には何よりの答えに思えた。
やがて小夜が、ゆっくり口を開く。
「あなたのお父上が関わっているかもしれないからこそです」
「え?」
「これ以上は、関わらないでください」
先ほどより、はっきりとした声だった。
紅緒の胸の奥に、冷たいものが落ちる。
何かを知っている。
そうとしか思えなかった。
「小神」
宗心が口を開いた。
「伏せることと、何も話さぬことは違う。話せる範囲を説明する。それが規則だ」
小夜が宗心を見る。
「……分かっています」
「ならば、話せる範囲で話せ」
しばらくの沈黙。
だが小夜は、首を横に振った。
「今は、まだ」
宗心の眉間の皺がさらに深くなった。
陽香は二人の間を見ながら、静かに息を吐く。
「小夜。無理をしていない?」
「していません」
「本当に?」
「はい。陽香こそ、心配しすぎです」
いつもの小夜らしい返しだった。
陽香も小さく笑う。
けれど紅緒には、その場の空気が元へ戻ったようには思えなかった。
黒い杭が三本、布の上へ並んでいる。
父の死の前に起きた、同じような異変。
そして、それを見た小夜の一瞬の動揺。
「この杭は、こちらで調べる」
宗心が言った。
「大月、東春。蒼杜で確認したことは、もう一度書面にまとめて提出しろ」
「分かりました」
「はい」
紅緒と景真が答える。
「それから――」
宗心は小夜を見る。
「小神。お前も残れ」
「……承知しました」
紅緒は立ち上がりながら、もう一度だけ小夜を見た。
小夜が、紅緒へ顔を向ける。
小夜は何も言わなかった。
いつもの細い目の奥に何があるのか、紅緒には読み取れなかった。
*
夜も更けた頃。
陰陽寮の廊下には、人の気配がほとんどなくなっていた。
灯りの落ちた部屋が並ぶ中、一つの戸が音もなく開く。
小夜が出てきた。
昼間と同じ装束ではない。旅に向くよう右の袖口を括り、肘から先のない左腕側も、余った袖が邪魔にならぬよう短く留めている。肩には小さな荷を背負っていた。
戸を閉めると、しばらくその場に立っていた。
振り返れば、暗い廊下の向こうに陰陽寮の奥が続いている。
紅緒の顔が浮かんだ。
父が何を見つけたのか知りたい。
昼間の言葉が耳に残っている。
小夜は目を伏せた。
「……だから、駄目なんです」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
それから顔を上げた。
迷いを振り切るように歩き出す。
見回りの足音が近づけば物陰で待ち、遠ざかればまた進む。
やがて陰陽寮を出た小夜は、眠る幽京の通りへ紛れ込んだ。
月は雲に隠れ、城壁の内側にも深い影が落ちている。
小夜は一度も振り返らなかった。
誰にも行き先を告げないまま、夜の幽京を歩いていった。




