第十八話「巡り、戻る」④
「……戻っておる」
コダマの言葉を聞いた瞬間、紅緒はようやく肩の力を抜いた。
景真もその場へ座り込みそうになりながら、大きく息を吐く。
「終わった……のか?」
「杭による歪みは、な」
コダマは天蓋樹へ触れたまま答えた。
「じゃが、長く奪われておったものが、すぐ元へ戻るわけではない。傷ついた根もある。大樹が立ち直るには、まだ時が要る」
「そりゃそうだろうね」
山吹は最後の杭が抜けた穴へ膝をついた。
「人だって、刺さったものを抜けばその場で治るわけじゃない。木も同じさ」
薬籠から小さな容器を取り出す。
中には、濃い琥珀色をした粘り気のある薬が入っていた。
「山吹さん、それは?」
「樹皮の傷を保護する薬だよ。薬師が人の傷しか診ないと思ったかい?」
「いえ、そこまでは」
景真が曖昧に笑う。
山吹は細いへらで薬を取り、杭の跡へ薄く塗っていった。
根そのものを元通りにはできない。けれど、傷口が乾きすぎたり、そこから病が入ったりするのを防ぐことはできるらしい。
「景真。掘った土を戻すよ。根へ強く押しつけるんじゃないよ」
「はい」
景真は山吹の指示に従い、周囲へ寄せていた土を少しずつ戻した。
紅緒も裂けた札や残った紙片を拾い集める。
自分たちが来たことで、これ以上森へ余計なものを残したくなかった。
応急処置を済ませた一か所目と二か所目も、改めて状態を確かめて回った。
山吹は傷口へ保護薬を重ね、景真が土や苔を元へ戻す。
最後まで終える頃には、日はだいぶ傾いていた。
「これでいいだろう」
山吹が腰を伸ばす。
「後は大樹自身に任せるしかないね」
「うむ」
コダマは頷いた。
「巡りは戻った。これ以上、あの異物に奪われることもあるまい」
紅緒は少し離れた布の上へ目を向けた。
三本の黒い杭が並べられている。
根から抜かれてなお、その表面には細かな術式が残っていた。だが、先ほどまでのように鈍く光ることはない。
「コダマさん」
「何じゃ」
「この杭を、幽京へ持ち帰ってもいいでしょうか」
コダマが黒い杭を見る。
「調べるのか」
「はい。誰が、何のために作ったものなのか。陰陽寮なら何か分かるかもしれません」
しばらくして、コダマは杭から視線を外した。
「大樹を害したものじゃ。ここへ残しておく理由はない。好きにせよ」
「ありがとうございます」
紅緒は頭を下げた。
山吹が布の端を持ち上げる。
「三本ともそのまま持つのは危ないね。あたしのところで包み直してやるよ。術が止まってても、何でできてるかすら分からないんだろう?」
「お願いします」
「そうしな。調べ物は、生きて帰ってからするものだよ」
その言葉に、紅緒は小さく笑った。
*
禁樹域を出る前に、四人は命灯草が枯れていた場所へ立ち寄った。
景色はまだ、昨日とほとんど変わっていない。
黒く脆くなった根が残り、地面の一部は乾いている。失われた命灯草が、一日で戻るはずもなかった。
それでも、コダマは地面へ手を触れると、静かに目を閉じた。
「ここにも、戻ってきておる」
紅緒は足元を見る。
見た目では分からない。
けれど、この土の下を天蓋樹の気が再び巡っているのだ。
「じゃあ、命灯草もまた生えてきますか?」
景真が尋ねる。
「すぐにとはいかぬ」
コダマは答えた。
「死んだものは戻らぬ。じゃが、巡りが正しければ、新たなものが育つ余地はある」
「来年には、また増えてるといいけどね」
山吹が周囲を見回す。
「少なくとも、何も分からないまま枯れていくのを見てるよりはずっといいさ」
紅緒も頷いた。
命灯草を一本求めて来ただけだった。
それが、気づけば天蓋樹の根に打ち込まれた杭を探し回り、父の過去まで辿ることになった。
紅緒は森の一角へ視線を向けた。
かつて蘇芳が一人で入っていったという場所。
苔の下には、今も古い傷が残っている。
「……父も、同じものを見つけたのかしら」
思わず口から漏れた。
山吹は答えなかった。
答えられないのだろう。
コダマが、ゆっくりと紅緒を見る。
「蘇芳という男が、大樹へ害をなすために来たとは思うておらぬ」
紅緒は目を瞬いた。
「父を覚えているんですか?」
「うむ。あの頃、大樹の巡りが乱れた折に、何度もこの地を歩いておった」
コダマは遠いものを見るように目を細めた。
「あの男が森へ入った後、乱れは静まった。それ以上のことを、わしらは知らぬ」
それだけだった。
父が杭を抜いたのか。
誰かと会ったのか。
その後、何が起きたのか。
何一つ分からない。
少なくとも、コダマは父を大樹へ害をなす者とは見ていなかった。
今は、その言葉だけで十分だった。
「ありがとうございます」
紅緒は小さく頭を下げた。
景真が隣に立つ。
何も言わない。
今は、それがありがたかった。
山吹が薬籠を背負い直す。
「さあ、戻るよ。今日はもう十分森の中を歩いた」
「そうですね」
紅緒は最後にもう一度、天蓋樹を見上げた。
風が梢を渡る。
葉擦れの音は、もう苦しげには聞こえなかった。
その夜は山吹の薬舗へ戻り、三本の杭を厳重に包み直した。
翌朝、二人は山吹に礼を告げて蒼杜を発った。
*
その日のうちに、景真と紅緒は幽京へ戻った。
蒼杜から持ち帰った黒い杭は、山吹が用意してくれた箱に収まっている。三本とも陰陽寮へ持ち込むつもりだったが、その前に二人には寄る場所があった。
依頼を受けた薬師の店である。
戸を開けると、奥から薬師が駆け出してきた。
「お二人とも!」
その顔を見ただけで、紅緒は少しだけ胸を撫で下ろした。
命灯草が間に合わなかった顔ではない。
「患者さんは?」
紅緒が尋ねる。
薬師は何度も頷いた。
「命灯草は間に合いました。伏原殿が根をきちんと処置してくださっていたおかげです。薬にして飲ませた後も一晩は熱が下がらなかったんですが、翌朝から少しずつ下がり始めまして」
「熱が?」
「ええ。まだ起き上がれるほどではありません。でも、今では自分で少し粥を口にできるところまで戻りました」
景真が、はっきりと息を吐いた。
「よかった……」
紅緒も笑みがこぼれるのを止められなかった。
絶対に助かるとは言えない。
山吹はそう言っていた。
今も、完全に危険を脱したとは言い切れないのだろう。
それでも、命灯草は確かに一人の命をつないだ。
「ありがとうございました」
薬師が深々と頭を下げる。
紅緒は慌てて首を振った。
「私たちだけで採ったわけではありません。蒼杜の山吹さんや、木霊たちにも助けてもらいましたから」
「それでもです。お二人が行ってくださらなければ、間に合いませんでした」
景真が照れたように頭を掻く。
「じゃあ、元気になったら本人にそう言ってください。もう無茶して熱出すなって」
「熱は本人のせいじゃないでしょ」
紅緒が横から言うと、景真が「あ、そうか」と真顔になる。
薬師が思わず笑った。
張り詰めていたものが、ようやくほどけた気がした。
店を出る。
幽京の通りは、蒼杜の森とはまるで違って騒がしい。
人の声。荷車の音。店先から漂う食べ物の匂い。
ほんの数日離れていただけなのに、妙に懐かしく感じた。
景真が紅緒の抱えた箱を見る。
「それ、このまま陰陽寮に持っていくんだろ?」
「ええ。小夜さんにも見てもらうつもり」
「何か分かるといいな」
「そうね」
紅緒は箱へ視線を落とした。
今の杭について調べれば、昔の杭についても何か分かるかもしれない。
そうすれば、父が蒼杜で何を見つけたのかにも近づける。
「父のことも……いつか、ちゃんと調べたい」
景真は前を向いたまま答えた。
「なら、その時は手伝うよ」
紅緒は隣を見る。
「まだ頼んでないけど」
「そのうち頼むだろ」
「ずいぶん自信があるのね」
「今回だって、最初は薬草を取りに行くだけだったじゃないか」
言われて、紅緒は思わず笑った。
確かに、その通りだった。
天蓋樹の巡りは戻り、蒼杜を蝕んでいた異変はひとまず収まった。
けれど、箱の中には三本の黒い杭がある。
そして、その向こうには、自分の知らない父の足跡が続いている。
紅緒は箱を抱え直した。
答えはまだ遠い。
それでも今は、確かに一つ、手掛かりを持ち帰ることができた。




