↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
73/81

第十八話「巡り、戻る」④

「……戻っておる」

 コダマの言葉を聞いた瞬間、紅緒はようやく肩の力を抜いた。

 景真もその場へ座り込みそうになりながら、大きく息を吐く。

「終わった……のか?」

「杭による歪みは、な」

 コダマは天蓋樹へ触れたまま答えた。

「じゃが、長く奪われておったものが、すぐ元へ戻るわけではない。傷ついた根もある。大樹が立ち直るには、まだ時が要る」

「そりゃそうだろうね」

 山吹は最後の杭が抜けた穴へ膝をついた。

「人だって、刺さったものを抜けばその場で治るわけじゃない。木も同じさ」

 薬籠から小さな容器を取り出す。

 中には、濃い琥珀色をした粘り気のある薬が入っていた。

「山吹さん、それは?」

「樹皮の傷を保護する薬だよ。薬師が人の傷しか診ないと思ったかい?」

「いえ、そこまでは」

 景真が曖昧に笑う。

 山吹は細いへらで薬を取り、杭の跡へ薄く塗っていった。

 根そのものを元通りにはできない。けれど、傷口が乾きすぎたり、そこから病が入ったりするのを防ぐことはできるらしい。

「景真。掘った土を戻すよ。根へ強く押しつけるんじゃないよ」

「はい」

 景真は山吹の指示に従い、周囲へ寄せていた土を少しずつ戻した。

 紅緒も裂けた札や残った紙片を拾い集める。

 自分たちが来たことで、これ以上森へ余計なものを残したくなかった。

 応急処置を済ませた一か所目と二か所目も、改めて状態を確かめて回った。

 山吹は傷口へ保護薬を重ね、景真が土や苔を元へ戻す。

 最後まで終える頃には、日はだいぶ傾いていた。

「これでいいだろう」

 山吹が腰を伸ばす。

「後は大樹自身に任せるしかないね」

「うむ」

 コダマは頷いた。

「巡りは戻った。これ以上、あの異物に奪われることもあるまい」

 紅緒は少し離れた布の上へ目を向けた。

 三本の黒い杭が並べられている。

 根から抜かれてなお、その表面には細かな術式が残っていた。だが、先ほどまでのように鈍く光ることはない。

「コダマさん」

「何じゃ」

「この杭を、幽京へ持ち帰ってもいいでしょうか」

 コダマが黒い杭を見る。

「調べるのか」

「はい。誰が、何のために作ったものなのか。陰陽寮なら何か分かるかもしれません」

 しばらくして、コダマは杭から視線を外した。

「大樹を害したものじゃ。ここへ残しておく理由はない。好きにせよ」

「ありがとうございます」

 紅緒は頭を下げた。

 山吹が布の端を持ち上げる。

「三本ともそのまま持つのは危ないね。あたしのところで包み直してやるよ。術が止まってても、何でできてるかすら分からないんだろう?」

「お願いします」

「そうしな。調べ物は、生きて帰ってからするものだよ」

 その言葉に、紅緒は小さく笑った。


   *


 禁樹域を出る前に、四人は命灯草が枯れていた場所へ立ち寄った。

 景色はまだ、昨日とほとんど変わっていない。

 黒く脆くなった根が残り、地面の一部は乾いている。失われた命灯草が、一日で戻るはずもなかった。

 それでも、コダマは地面へ手を触れると、静かに目を閉じた。

「ここにも、戻ってきておる」

 紅緒は足元を見る。

 見た目では分からない。

 けれど、この土の下を天蓋樹の気が再び巡っているのだ。

「じゃあ、命灯草もまた生えてきますか?」

 景真が尋ねる。

「すぐにとはいかぬ」

 コダマは答えた。

「死んだものは戻らぬ。じゃが、巡りが正しければ、新たなものが育つ余地はある」

「来年には、また増えてるといいけどね」

 山吹が周囲を見回す。

「少なくとも、何も分からないまま枯れていくのを見てるよりはずっといいさ」

 紅緒も頷いた。

 命灯草を一本求めて来ただけだった。

 それが、気づけば天蓋樹の根に打ち込まれた杭を探し回り、父の過去まで辿ることになった。

 紅緒は森の一角へ視線を向けた。

 かつて蘇芳が一人で入っていったという場所。

 苔の下には、今も古い傷が残っている。

「……父も、同じものを見つけたのかしら」

 思わず口から漏れた。

 山吹は答えなかった。

 答えられないのだろう。

 コダマが、ゆっくりと紅緒を見る。

「蘇芳という男が、大樹へ害をなすために来たとは思うておらぬ」

 紅緒は目を瞬いた。

「父を覚えているんですか?」

「うむ。あの頃、大樹の巡りが乱れた折に、何度もこの地を歩いておった」

 コダマは遠いものを見るように目を細めた。

「あの男が森へ入った後、乱れは静まった。それ以上のことを、わしらは知らぬ」

 それだけだった。

 父が杭を抜いたのか。

 誰かと会ったのか。

 その後、何が起きたのか。

 何一つ分からない。

 少なくとも、コダマは父を大樹へ害をなす者とは見ていなかった。

 今は、その言葉だけで十分だった。

「ありがとうございます」

 紅緒は小さく頭を下げた。

 景真が隣に立つ。

 何も言わない。

 今は、それがありがたかった。

 山吹が薬籠を背負い直す。

「さあ、戻るよ。今日はもう十分森の中を歩いた」

「そうですね」

 紅緒は最後にもう一度、天蓋樹を見上げた。

 風が梢を渡る。

 葉擦れの音は、もう苦しげには聞こえなかった。

 その夜は山吹の薬舗へ戻り、三本の杭を厳重に包み直した。

 翌朝、二人は山吹に礼を告げて蒼杜を発った。


   *


 その日のうちに、景真と紅緒は幽京へ戻った。

 蒼杜から持ち帰った黒い杭は、山吹が用意してくれた箱に収まっている。三本とも陰陽寮へ持ち込むつもりだったが、その前に二人には寄る場所があった。

 依頼を受けた薬師の店である。

 戸を開けると、奥から薬師が駆け出してきた。

「お二人とも!」

 その顔を見ただけで、紅緒は少しだけ胸を撫で下ろした。

 命灯草が間に合わなかった顔ではない。

「患者さんは?」

 紅緒が尋ねる。

 薬師は何度も頷いた。

「命灯草は間に合いました。伏原殿が根をきちんと処置してくださっていたおかげです。薬にして飲ませた後も一晩は熱が下がらなかったんですが、翌朝から少しずつ下がり始めまして」

「熱が?」

「ええ。まだ起き上がれるほどではありません。でも、今では自分で少し粥を口にできるところまで戻りました」

 景真が、はっきりと息を吐いた。

「よかった……」

 紅緒も笑みがこぼれるのを止められなかった。

 絶対に助かるとは言えない。

 山吹はそう言っていた。

 今も、完全に危険を脱したとは言い切れないのだろう。

 それでも、命灯草は確かに一人の命をつないだ。

「ありがとうございました」

 薬師が深々と頭を下げる。

 紅緒は慌てて首を振った。

「私たちだけで採ったわけではありません。蒼杜の山吹さんや、木霊たちにも助けてもらいましたから」

「それでもです。お二人が行ってくださらなければ、間に合いませんでした」

 景真が照れたように頭を掻く。

「じゃあ、元気になったら本人にそう言ってください。もう無茶して熱出すなって」

「熱は本人のせいじゃないでしょ」

 紅緒が横から言うと、景真が「あ、そうか」と真顔になる。

 薬師が思わず笑った。

 張り詰めていたものが、ようやくほどけた気がした。

 店を出る。

 幽京の通りは、蒼杜の森とはまるで違って騒がしい。

 人の声。荷車の音。店先から漂う食べ物の匂い。

 ほんの数日離れていただけなのに、妙に懐かしく感じた。

 景真が紅緒の抱えた箱を見る。

「それ、このまま陰陽寮に持っていくんだろ?」

「ええ。小夜さんにも見てもらうつもり」

「何か分かるといいな」

「そうね」

 紅緒は箱へ視線を落とした。

 今の杭について調べれば、昔の杭についても何か分かるかもしれない。

 そうすれば、父が蒼杜で何を見つけたのかにも近づける。

「父のことも……いつか、ちゃんと調べたい」

 景真は前を向いたまま答えた。

「なら、その時は手伝うよ」

 紅緒は隣を見る。

「まだ頼んでないけど」

「そのうち頼むだろ」

「ずいぶん自信があるのね」

「今回だって、最初は薬草を取りに行くだけだったじゃないか」

 言われて、紅緒は思わず笑った。

 確かに、その通りだった。

 天蓋樹の巡りは戻り、蒼杜を蝕んでいた異変はひとまず収まった。

 けれど、箱の中には三本の黒い杭がある。

 そして、その向こうには、自分の知らない父の足跡が続いている。

 紅緒は箱を抱え直した。

 答えはまだ遠い。

 それでも今は、確かに一つ、手掛かりを持ち帰ることができた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。