第十八話「巡り、戻る」③
「では、始めるぞ」
コダマの声と同時に、足元の太い根がかすかに震えた。
少女の両手が根へ触れる。天蓋樹の奥深くを流れていた気が、三本の杭へ向かう根筋だけで僅かに緩んでいく。
紅緒は手元の札を両手で挟み、息を整えた。
三か所に置いた札の位置を頭の中で思い浮かべる。一本目。二本目。そして地中深くへ埋まった三本目。どれも同じ印でつながっている。
「今です」
札へ霊力を通した。
淡い光が指の間から走る。
目の前の杭を囲む札が一斉に立ち上がり、それと同時に、離れた二か所でも同じ結界が起こったのが分かった。
黒い杭の表面に刻まれた術式が、一瞬だけ鈍く光る。
だが、紅緒が杭へ霊力を触れさせた時のような激しい反応は起きなかった。
「止まった……?」
景真が杭を見る。
「完全に止まったとは言えない。でも、入っていく気はかなり弱くなってる」
紅緒は札から手を離さず答えた。
「今のうちよ」
「分かった」
景真が杭の前へ膝をつく。
山吹はすでに細いへらを手にしていた。根と杭の境目へ顔を寄せ、樹皮の状態を確かめる。
「そのまま引くんじゃないよ。ここは樹皮が巻き込んでる。生きてるところまで剥がしたら駄目だ」
「どこまでなら?」
「黒く乾いてるところだけ。あたしが外す」
山吹は杭の周囲にこびりついた土を払い、すでに死んでいる樹皮だけを少しずつ取り除いた。刃先が生きた部分へ近づくたび、手を止めて確かめる。
急がなければならない。
だが、急げない。
景真は待った。
やがて山吹が短く頷く。
「いいよ。真っ直ぐ。捻るんじゃない」
景真は杭の露出した部分を両手で掴んだ。
ゆっくりと力をかける。
動かない。
さらに少し。
根の奥で、ぎ、と低い音がした。
「止めて」
山吹の声に、景真はすぐ力を抜いた。
「根ですか?」
「いや。杭と巻き込んだ樹皮が擦れただけだ。もう少しだけ周りを開ける」
山吹がへらを差し入れる。
紅緒はその間も札を維持していた。
手のひらがじわりと熱い。三つの結界を同時につないでいるせいか、一つだけ張る時より霊力の減りが早い。
「紅緒」
景真が横目でこちらを見る。
「大丈夫。続けて」
「強がるでないぞ」
コダマの声も飛んできた。
少女の輪郭は先ほどより淡い。三本の根へ流れる気を同時に緩める負担は、コダマにもかかっている。
「コダマさんこそ」
「わしらのことはよい。そなたはそなたの役目をせよ」
「……はい」
山吹が手を引いた。
「今度こそ、ゆっくりだよ」
景真がもう一度杭を掴む。
今度は、ほんの僅かに動いた。
土の中から、黒い杭が少しずつ姿を現す。
一寸。さらに一寸。
最後に小さな抵抗があり――抜けた。
景真が後ろへよろめく。
「抜けた!」
景真は杭を根から離した布へ置く。紅緒とコダマは一本目への抑えを解いた。
根には細い穴が残っていた。
山吹は景真から杭を受け取るより先に、傷口へ向かった。薬籠から柔らかな薬泥を取り出し、裂けていないことを確かめながら穴の周囲へ薄く塗っていく。
「こっちは任せな。次へ行きな!」
紅緒は札を握ったままコダマを見る。
「ほかの二本は?」
「まだ抑えられておる。じゃが長くは持たぬ」
「景真!」
「行こう!」
二人は二本目の杭へ向かって駆け出した。
*
二本目は、一本目より樹皮の巻き込みが浅かった。
その分、作業は早い。
山吹が追いつく頃には、景真はすでに杭へ手をかけられる状態まで周囲を確かめていた。
「勝手に抜くんじゃないよ」
「待ってました」
「口だけは元気だね」
山吹は息を整える暇もなく、杭の根元を見る。
「こっちはいい。真っ直ぐ引きな」
景真が頷いた。
一本目より軽い。
黒い杭が、湿った土を引きずりながら抜けていく。
だが半ばまで抜けたところで、紅緒の手元の札が震えた。
「っ……」
札の端が、じり、と茶色く焦げる。
「紅緒?」
「止めないで!」
紅緒は札へ霊力を重ねた。
残る二本を遮っている結界のうち、三本目の方から強い圧が返ってきている。
「コダマさん!」
「分かっておる!」
遠くで木々の葉が激しく揺れた。
一本目の杭がなくなったことで、天蓋樹の巡りが別の道を探している。結界で塞いでいても、行き場を失った気が残る二本へ寄ろうとしているのだ。
「早うせよ。二つの流れを抑えたままでは、大樹にも長くはよくない」
「景真!」
「分かってる!」
景真は焦りを押し殺し、力を真っ直ぐかけ続けた。
乱暴に引けば根が裂ける。
急がなければ結界が持たない。
やがて二本目の杭が、するりと根から抜けた。
「二本目!」
景真は二本目の杭も布へ置く。紅緒とコダマは二本目への抑えを解いた。
「傷はあたしが見る! 三本目へ!」
山吹の声を背に、紅緒と景真は再び走った。
三本目へ近づくにつれ、紅緒の札の震えが強くなる。
嫌な予感がした。
地中の根が見える場所まで戻った時、それはすぐ現実になった。
杭を囲む札の一枚が、端から黒く焦げていた。
「まずい……」
「結界、切れそうなのか?」
「まだ切れてない。でも、ここにかかる圧が強すぎる」
一本目、二本目へ向かっていたはずの流れが、残った最後の杭へ寄ろうとしている。
しかも三本目は、最も深く根へ取り込まれている。
地面の傍ら、根元へ淡い光が集まり、コダマの少女の姿を結んだ。
輪郭が薄い。向こう側の景色が透けそうなほどだった。
「急げ」
声にも、これまでにない弱さがある。
「もう長くは緩めておれぬ」
景真は三本目の杭の前へ膝をついた。
だが、すぐに顔をしかめる。
「一本目より、ずっと食い込んでる」
杭の頭以外のほとんどが、盛り上がった樹皮の中に呑み込まれている。
山吹も追いつき、息を切らしながらしゃがみ込んだ。
「見れば分かるよ。だから手を出すんじゃない」
へらを入れる。
一か所。二か所。
生きた樹皮を避けながら、長い年月で杭へ巻きついた部分だけを少しずつ外す。
紅緒の手元で、二枚目の札が震えた。
「山吹さん……!」
「分かってる!」
いつもの軽い調子はなかった。
山吹の指が止まる。
「景真。ここから先は、ゆっくり引きながらだ。あたしが根を見る」
「はい」
「紅緒、あとどれくらい?」
「分からない。でも――」
起点札の端にも焦げ目が広がっていた。
「長くはない」
「十分だ」
景真が杭を掴んだ。
ゆっくり引く。
びくともしない。
もう一度、少しだけ力を強める。
杭の周囲で樹皮が軋んだ。
「そこまで!」
山吹がへらを差し込み、絡んだ部分を一つ外す。
「もう一度!」
景真が引く。
黒い杭が、ほんの僅かに動いた。
その瞬間だった。
紅緒の周囲で、ぱちん、と乾いた音がした。
杭を囲む札の一枚が裂けた。
結界の一角が崩れた。
まだ切れてはいない。だが、崩れた一角から天蓋樹の気が杭へ流れ込もうとしている。
黒い杭の術式が、鈍く光った。
「まずい!」
紅緒は反射的に起点札へ両手を重ねる。
紅緒は霊力を重ね、欠けた一角を無理やりつなぎ止める。
手のひらが焼けるように熱い。
頭上で天蓋樹の葉が一斉にざわめいた。
以前のような痛みに震える音。
「紅緒!」
「こっちは持たせる! 景真、抜いて!」
「でも――」
「抜かなきゃ、もっと悪くなる!」
景真の表情が変わる。
山吹が根元へ指を当てたまま叫んだ。
「真っ直ぐだ! 今ならいける!」
景真が息を吸い、両腕へ力を込めた。
一気には引かない。
少しずつ。
それでも止まらず。
杭が根の中から姿を現していく。
半分。
あと少し。
紅緒の札に走る焦げ目が中央へ届く。
コダマの姿が大きく揺らいだ。
「景真!」
最後の抵抗が抜けた。
黒い杭が、根から離れる。
景真はそのまま後ろへ倒れ込み、杭を抱えたまま地面へ尻をついた。
同時に、紅緒の結界が消えた。
静寂が落ちた。
誰も動かなかった。
紅緒は息を切らしながら、天蓋樹を見上げる。
何も起こらない。
葉は揺れない。
根も動かない。
「……コダマさん?」
返事がない。
胸の奥が冷えた、その時。
ざあ、と。
森の奥から風が渡った。
いや、風ではない。
天蓋樹の葉が、幹に近いところから外へ向かって順番に鳴っている。
大きな波が枝から枝へ、根から森へと広がっていくようだった。
足元の土の下を、温かなものが通り過ぎる。
紅緒は息を止めた。
先ほどまで薄れていたコダマの姿が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
少女は目を閉じたまま、長い間何かを確かめていた。
やがて、その口元がほんの僅かに緩む。
「……戻っておる」
景真が顔を上げた。
「何が?」
コダマは天蓋樹へ手を添えた。
「大樹の気じゃ」
もう一度、葉が鳴る。
今度の音は、苦しげではなかった。
「行き、巡り――戻っておる」




