第十八話「巡り、戻る」②
「抜く前に、もう一つ確かめたい」
紅緒は三本目の杭を見下ろしたまま言った。
「何を?」
景真が尋ねる。
「一本に流れ込む気が減った時、残りの二本に何が起きるかよ」
山吹が眉を寄せた。
「一本ずつ抜くのが危ないってことかい?」
「まだ分からない。でも、三本とも同じ大樹から気を奪ってる。一本だけ流れを変えたら、ほかに影響が出るかもしれない」
紅緒はコダマを見る。
「杭には触れずに、この根へ流れる気だけを少し弱めることはできますか?」
コダマはすぐには答えなかった。足元の根へ手を添え、しばらく目を閉じる。
「大きく変えることはできぬ。大樹の巡りは、大樹自身のものじゃ。じゃが、枝分かれした先へ流れる気を僅かに緩める程度ならばできよう」
「それで十分です」
「また大樹を痛ませることにはならない?」
景真の問いに、コダマは首を横に振った。
「ほんの僅かな間ならばな。異変があれば、すぐ戻す」
杭そのものには触れない。紅緒も札を出さず、少し離れた場所から三本目の杭を見守る。
コダマが根へ両手を添えた。
少女の輪郭が淡く揺れる。
やがて、足元を這う根の奥で、何かがゆっくりと遠のいていくような感覚があった。紅緒にも、根を巡る気が僅かに弱まったのが分かる。
「今じゃ」
コダマが短く告げる。
何も起こらない。
目の前の杭は静かなままだった。
「こっちは……大丈夫そうね」
紅緒が息を吐きかけた、その時だった。
コダマの顔が上がる。
「待て」
「どうしたんですか?」
「別のところが強うなった」
紅緒と景真が顔を見合わせる。
「別の杭?」
「うむ。残る二つのうち、一つ。大樹の気が奪われる歪みが、僅かに強まっておる」
コダマはすぐに根の流れを元へ戻した。
数呼吸ほどして、少女の表情から険しさが薄れる。
「戻った。三つの歪みも、先ほどと同じじゃ」
山吹が腕を組んだ。
「なるほどねえ。一つの口を塞いだら、余った分が別の口へ流れたってわけかい」
「たぶん、そういうことだと思います」
紅緒は三本の位置を頭の中で並べた。
別々の根へ打ち込まれ、少しずつ気を奪う杭。一本に流れ込む気だけを弱めれば、その分の一部が、まだ働いている杭へ寄る可能性がある。
「だったら、一本ずつ抜くのはまずいわね」
「抜いてる間に、残りが余計に吸うかもしれないってことか」
「ええ。一本だけ止めれば、今と同じように残りへ負担が寄る可能性が高い。それに、抜く時の刺激で術が強く反応したら、もっとひどくなるかもしれない」
景真が三本の杭のある方角を順に見た。
「じゃあ、三本まとめて抜くしかない?」
紅緒は少し考えてから首を振った。
「一度に抜くのは無理よ。場所が離れすぎてる」
「それもそうか」
「でも――三本とも同じ瞬間に止められれば、抜くのは一本ずつでもいいかもしれない」
*
紅緒は三本目の杭の前で、懐から札を何枚か取り出した。
「まず、三か所全部に札だけ置いて回ります」
「札だけ?」
景真が覗き込む。
「ええ。今は術を起こさない。杭の周りへ置くだけ」
紅緒は杭へ直接触れないよう、少し離れた地面へ札を並べていく。
妖怪を封じるための強い札ではない。気の流れを一時的に隔てるための結界札だった。
「杭そのものを封じるんじゃないのか?」
「直接触れたら、また反応するかもしれないでしょう?」
紅緒は杭を囲む位置へ最後の札を置く。
「根から杭へ流れ込む気だけを、外側から一時的に遮るの。三本とも札を置いてから、一度に結界を起こす」
山吹が目を細めた。
「一度に、ねえ。そんなことできるのかい?」
「三か所の札に同じ印を入れておけば、手元の札を起点にまとめて動かせます。長く保たせる術じゃないですけど」
「なるほどの」
コダマが紅緒の手元を見る。
「できぬことはない。じゃが、三つ同時では長くは保たぬ。その僅かな間だけ、三つの根へ流れる気を緩めればよいのじゃな」
紅緒は頷いた。
「お願いします。長く保たないなら、なおさら杭へ入る気が弱まった瞬間に結界を起こした方がいい。反応も抑えられると思います」
「思う、か」
山吹が苦笑する。
「ずいぶん綱渡りだねえ」
「他に安全そうな方法が思いつかないんです」
「責めてるわけじゃないよ。今まで誰も見たことのない代物なんだ。確実なやり方なんて、ある方がおかしいさ」
山吹は杭の周囲へ目をやった。
「で、三本とも止めた後は?」
「結界が保っている間に、一本ずつ抜きます」
紅緒は景真を見る。
「抜く役は、お願いしてもいい?」
「もちろん」
「無理に引っ張らないでね。少しでも根が裂けそうなら止めること」
「分かってるよ」
山吹が鼻を鳴らす。
「そこはあたしも見る。根の状態を見ながら、必要なら周りを少しずつ剥がすよ。抜いた後の傷も、そのままにはできないからね」
「お願いします」
景真がコダマを見る。
「コダマさんは、三本全部の流れを見ててもらう感じですか?」
「うむ。結界を起こす時は三つの流れを緩める。その後も、残る杭や大樹に異変があればすぐ知らせよう」
役割が決まっていく。
コダマが大樹の巡りを見張り、紅緒が三本の杭への気をまとめて遮る。景真が杭を抜き、山吹が根を守る。
ただし、一つ問題が残っていた。
「結界は、どれくらい保つんだ?」
景真に聞かれ、紅緒は手元の札を見下ろした。
「分からない」
「分からないのか」
「相手が普通の術なら、もっと言えるわよ。でもこれは、天蓋樹の気を長い間吸ってる杭なの。こっちの術がどれだけ持つかなんて、やってみないと分からない」
紅緒は一枚の札を握り直した。
「だから、結界を起こしたら、すぐ一本目から抜き始める。時間はかけられない」
山吹が大きく息を吐く。
「結局、急がなきゃならないのに、急いじゃいけない仕事ってわけだ」
「一番嫌なやつだな」
景真が苦笑した。
紅緒も笑いかけたが、すぐに表情を引き締める。
目の前の杭は、今も天蓋樹から気を奪い続けている。
失敗すれば、大樹を傷つける。
だからといって、放っておくこともできない。
「やりましょう」
紅緒はまず、目の前の三本目の杭の周囲へ札を並べ始めた。
杭そのものには触れず、根から杭へ気が流れ込む道を囲うように、一枚ずつ位置を確かめていく。最後の一枚を置くと、紅緒は小さく頷いた。
「ここはこれでいいわ。次へ行きましょう」
四人は二本目の杭へ移り、同じように札を配置した。そこでも杭には触れない。山吹とコダマが根の状態を確かめる間に、紅緒が慎重に札の位置を決めていく。
そして最後に、最初に見つけた一本目の杭へ戻った。
紅緒が最後の札を地面へ置く。三か所に残してきた札には、すべて同じ印が入っている。手元の起点となる札へ霊力を通せば、三つの結界が同時に立ち上がる仕掛けだ。
山吹は杭の根元へしゃがみ込み、樹皮の巻き込み方をもう一度確かめる。景真もすぐ手を伸ばせる位置へ腰を落とした。
コダマは太い根へ両手を添える。少女の輪郭が、淡く揺れた。
「準備はできたわ」
「では、始めるぞ」




