第十七話「戻らぬもの」④
「今も、動いてる」
紅緒の言葉に、誰もすぐには返さなかった。
黒い杭は、何事もなかったかのように天蓋樹の根へ食い込んでいる。先ほどまでの揺れも収まり、頭上の葉も再び静けさを取り戻していた。
けれど、その内側では今も大樹の気が奪われ続けている。
「なら、なおさら下手に触れない方がいいな」
景真が杭から少し距離を取った。
「ええ。今みたいに反応するなら、抜こうとしてもっと強く刺激した時に何が起こるか分からないわ」
「根ごと傷めでもしたら、本末転倒だね」
山吹も渋い顔で頷く。
コダマは杭の前へしゃがみ込み、しばらく黙って根へ手を添えていた。
「……今は触れるでない」
「コダマさんにも、止め方は分からないんですか?」
景真が尋ねる。
「分からぬ。そもそも、このようなものが大樹に入り込んでおると知ったのも今が初めてじゃ」
コダマは悔しげに杭を見下ろした。
「じゃが、異なるものと知った以上、ここを見失うことはない。この姿が離れようとも、大樹に在るわしらが見ておる」
「お願いします」
紅緒は頭を下げた。
その横で、景真が何かを確かめるように杭を眺めている。
「……なあ」
「どうしたの?」
「さっき見つけた、昔の根の傷」
景真は親指ほどの太さの杭を指した。
「これと、似てなかったか?」
紅緒は息を止めた。
苔の下に残っていた、細い棒状のものを突き刺したような古い傷跡。今目の前にある杭を見た後なら、その形が別の意味を持って見える。
「……確かめましょう」
紅緒が立ち上がる。
山吹も薬籠を背負い直した。
「そうだね。似てる気がする、だけじゃ話にならない。もう一度見ておこう」
コダマは一度だけ杭を振り返り、それから三人の後を追った。
*
昔、草が枯れた場所へ戻ると、景真は真っ先にあの根へ向かった。
景真は、先ほど確認を終えたあと元へ戻しておいた苔の前へしゃがみ込んだ。
「コダマさん、もう一度見てもいいですか?」
「よい」
景真は小さく頷き、苔を傷めないよう端からそっとめくった。露わになった樹皮には、古い傷跡が残っている。
「やっぱり……」
景真が現在の杭を思い浮かべるように、傷へ目を凝らす。
「太さも、だいたい同じくらいじゃないか?」
「そう見えるわね」
紅緒も隣へしゃがみ込んだ。
傷は長い年月の間に塞がり、輪郭も僅かに歪んでいる。今の杭と寸分違わず同じだとまでは言えない。
それでも、偶然できた傷として片づけるには似すぎていた。
「昔も、ここに何か刺さってたってことかい」
山吹の声から、いつもの軽さが消える。
「同じ杭だったかどうかは、まだ分かりません」
紅緒は慎重に言った。
「でも、昔にも根から生気を失う枯れ方が起きていて、その近くにこういう傷が残っている。今の異変との関係は疑った方がいいと思います」
「うむ」
コダマが傷の前へ立つ。
小さな手を根へ当てると、しばらく目を閉じた。
「ここには、今は何もない」
「何も?」
「先ほどの杭のように、大樹の気へ紛れておるものは感じぬ。もし同じものが在ったのなら、すでにここから失われておる」
紅緒の胸が、強く鳴った。
山吹も同じことを考えたのだろう。古い傷を見つめたまま、低く呟く。
「……あの日だ」
「山吹さん?」
「蘇芳殿が一人でこの辺りへ入った日。その後から、新しく草が枯れるのが止まった」
昨日、薬舗で聞いた言葉だった。
けれど、目の前に古い傷があり、現在の森で実際に杭を見つけた後では、その意味がまるで違って聞こえた。
「父が……これを見つけたんでしょうか」
紅緒が尋ねる。
山吹はすぐには頷かなかった。
「分からないよ」
静かな答えだった。
「あたしは、蘇芳殿が森で何を見たのか知らない。これを抜いたところを見たわけでもない。昔ここに刺さってたものが、今の杭と同じだったって証拠もない」
山吹はそこで一度言葉を切り、古い傷へ目を戻す。
「ただ……無関係だと言い切るには、重なりすぎてるね」
紅緒は返事をしなかった。
父の声も、笑った顔も覚えている。
けれど、自分の知らないところで父がこの森を歩き、何かを追っていた。その先に、今目の前にあるものと同じ杭があったのかもしれない。
そして、その後に父は死んだ。
考えれば考えるほど、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。
「紅緒」
景真の声に、紅緒は顔を上げた。
「……大丈夫よ」
「そうか?」
「ええ」
紅緒はもう一度、古い傷を見る。
「怖くないわけじゃない。でも、知りたいの。父がここで何を見つけたのか」
景真は少しだけ黙り、それから頷いた。
「なら、調べよう」
それだけだった。
妙に励ますでもなく、止めるでもない。その短い言葉が、今はありがたかった。
紅緒が小さく頷いた、その時。
「……待て」
コダマが不意に声を上げた。
少女の姿が、古い根へ手を触れたまま動かなくなる。
「どうしました?」
「先ほどのものを知った今ならば……見えるやもしれぬ」
「何がですか?」
紅緒が尋ねる。
コダマは答えず、目を閉じた。
次の瞬間、森のあちこちで葉がざわめいた。
一本の木だけではない。遠く、さらにその奥へと、波が広がるように枝葉が揺れていく。
紅緒たちは息を潜めた。
コダマが天蓋樹を巡る気を、これまでとは違う目で追っている。
今までは大樹自身のものだと思っていた気。その中に紛れ込む、僅かな違和感を探しているのだ。
しばらくして、コダマの眉が寄った。
「……ある」
「何が?」
景真が聞き返す。
「同じように、大樹の気へ紛れながら、巡りが失われておるところじゃ」
コダマが森の奥へ顔を向けた。
「先ほどの場所だけではない」
山吹が顔をしかめる。
「まさか、他にも杭があるっていうのかい」
「杭かどうかまでは分からぬ。じゃが、同じような歪みは他にもある」
「いくつですか?」
「数までは定かでない。地の下深くまで根が広がっておるゆえな」
コダマはゆっくりと目を開いた。
「じゃが――一つではない」
沈黙が落ちた。
目の前の一本だけでも、その周囲の根から生気を奪っていた。
それが、まだ森のどこかにある。
「まず全部見つけましょう」
紅緒が言った。
「抜き方を考えるにしても、どこにいくつあるのか分からないままじゃ危険だわ」
「そうだな。一本ずつ適当に触って、また大樹を痛めるわけにもいかない」
景真も頷く。
山吹は大きく息を吐いた。
「命灯草一本取りに来ただけだったはずなんだけどねえ」
「俺たちも、そのつもりだったんですけど」
景真が苦笑する。
「まったく。あんたたちが来ると、話が大きくなるのかい?」
「俺に聞かれても困ります」
ほんの僅かに、張り詰めていた空気が緩んだ。
だが、コダマだけは森の奥を見たままだった。
「案内しよう」
三人がコダマを見る。
「今ならば、以前より細かく巡りを追える。歪みのある方角までは追えるが、根のどこに何があるかまでは分からぬ。そなたらの目も借りたい」
人の命を自分たちとは関わりのないものと言い切った木霊が、自ら協力を求めている。
それだけ、天蓋樹に起きていることは深刻なのだ。
「分かりました」
紅緒は頷いた。
そして、木々のさらに奥へ目を向ける。
父がここで何を見つけたのかは、まだ分からない。
昔の異変と父の死が、本当に結びついているのかも分からない。
けれど、答えへ続くものがこの森の中にある。
今は、そう思えた。
「行きましょう」
紅緒の言葉に、景真と山吹が頷く。
四人は、まだ見えない異変の痕跡を追って、禁樹域のさらに奥へ歩き出した。




