第十七話「戻らぬもの」③
「これじゃないか?」
景真が指で土を払う。
根が地中へ沈み込む、その境目。湿った土の間から、黒いものがほんの僅かに頭を覗かせていた。
「ちょっと待ちな」
山吹が景真の手を止める。
「引っ張るんじゃないよ。何が埋まってるか、まだ分からないんだからね」
「分かりました」
景真が手を引くと、山吹は薬籠から細いへらを取り出した。
天蓋樹の根へ刃先を当てないよう、周囲の土だけを少しずつ崩していく。紅緒も隣へしゃがみ、その手元を見守った。
やがて、黒いものの輪郭が少しずつ露わになる。
細い。親指ほどの太さしかない。けれど、地上へ見えている部分から想像するより、ずっと深く根へ食い込んでいた。
「……杭?」
紅緒が呟く。
黒い杭だった。木にも見えるが、表面には金属のような鈍い光沢もある。土に埋もれていたはずなのに、腐った様子はない。
何より不自然なのは、天蓋樹の根の方だった。
杭の周囲を包み込むように樹皮が盛り上がり、長い時間をかけて異物を呑み込もうとしたように癒着している。
「昨日今日、刺されたものじゃないね」
山吹が低い声で言った。
「見な。樹皮がここまで巻いてる。しばらく前から、この中にある」
景真は昨日まで何度も見ていた根を見つめた。
「こんなものが刺さってたのに、外からじゃほとんど分からなかったのか」
コダマがゆっくりと近づいてくる。
少女の姿が、杭の前で止まった。
「……知らぬ」
その声は小さかった。
「わしらは、このようなものが大樹に在るとは知らなんだ」
コダマが根へ手を添える。
遠くで天蓋樹の葉がざわめいた。
「今なら、分かるんですか?」
紅緒が尋ねる。
「そこに異なるものがある、と知った上で探ればな」
コダマの眉が僅かに寄る。
「じゃが妙じゃ。異物であるはずなのに、大樹の気がまとわりついておる」
「天蓋樹の気が?」
景真が聞き返した。
紅緒は杭へ顔を近づける。
土を落とした表面に、細い線が刻まれていることに気づいた。泥に隠れていたため、初めは木目のように見えたものだ。
「待って。これ……術式だわ」
紅緒は杭へ触れず、刻まれた線を目で追った。
幾つもの細い文様が絡まり、根へ埋まっている方へ続いている。見覚えのある術ではない。それでも、何者かの手で組まれた術式だということだけは分かった。
「誰かが作ったものなのか?」
「ええ。少なくとも、自然にできたものじゃないわ」
紅緒の答えに、山吹の顔から完全に笑みが消えた。
「じゃあ、誰かがわざわざ禁樹域まで入って、天蓋樹の根にこいつを刺したってことかい」
誰もすぐには答えなかった。
風が梢を抜ける。
昨日まで原因の分からなかった異変が、急に別の顔を見せ始めていた。
病でもない。虫でもない。
もし、この杭が枯死の原因なら。
誰かが意図して、天蓋樹へ何かをしている。
「山吹さん」
紅緒が呼ぶと、山吹はすでに杭の周囲を見ていた。
「分かってるよ」
山吹はさらに少しだけ土を払い、杭のそばを走る細い根を露出させた。
杭から離れた場所では、根は白みを帯び、張りがある。
だが近づくにつれ色がくすみ、杭のすぐ傍では黒く乾いていた。
「……昨日の命灯草と同じだ」
「根から生気が抜けている?」
「そう見えるね」
山吹は黒ずんだ部分を指先で軽く押した。
乾いた根の表面が、かすかな音を立てて崩れる。
「腐ってない。虫もいない。ただ、こいつの近くほど死んでる」
景真が杭と根を交互に見る。
「じゃあ、天蓋樹の気が戻ってこなかったのは……」
コダマが杭を見下ろした。
「これが奪っておった、ということか」
声に、僅かな険しさが混じる。
紅緒はもう一度、杭の術式へ目を向けた。
「でも、それだけじゃないと思います」
三人の視線が集まる。
「これだけ長く刺さっていて、ずっと天蓋樹の気を奪っていたなら、コダマさんたちが今まで気づかなかったのはおかしいです」
コダマは黙ったまま、紅緒の言葉を待った。
「さっき、大樹の気が杭にまとわりついているとおっしゃいましたよね」
「うむ」
「たぶん、この術は奪った気の一部を自分の表へ巡らせているんです」
紅緒は根と杭の境目を指す。
「天蓋樹から気を吸いながら、その気を纏って、根の一部みたいに紛れている。だから、外から気の流れを追っても見つけにくかった」
コダマが目を閉じる。
少しの間、少女の輪郭が淡く揺れた。
「……なるほどの」
目を開いたコダマは、先ほどより鋭く杭を見た。
「今ならば、僅かに分かる。大樹のものと同じ気を纏うておるゆえ、そこに在っても異物として捉えにくい」
「そんなことができるのか」
景真が呟く。
「簡単な術じゃないわ」
紅緒は首を振った。
「それに……たぶんだけど、この術式、最初から強く働くようには組まれていないみたい」
「どういうことだ?」
景真が隣から覗き込む。
「見えている範囲だけじゃ断言できないけど、外から内へ段階を踏むように術が組まれてる。刺した直後から一気に奪うんじゃなくて――」
紅緒は根に巻き込まれた杭の下部を見る。
「天蓋樹の気を受けながら、時間をかけて馴染んでいく仕掛けなのかもしれない」
山吹が樹皮の盛り上がりへ目をやった。
「木の方も、長い間こいつを抱え込んじまってる」
杭は、ただ隠されていたわけではないのかもしれない。
天蓋樹の中へ少しずつ入り込み、天蓋樹自身の気を纏って、その一部のように紛れている。
そう考えれば、木霊が今まで見つけられなかったことにも説明がつく。
そして、気づかれないまま少しずつ気を奪い続けていた可能性もある。
「……嫌な仕掛けね」
紅緒が吐き捨てるように言った。
何のためにこんなことをするのか。
それはまだ分からない。
だが、偶然ここに刺さったものではない。それだけはもう疑いようがなかった。
*
「なら、抜けば止まるんじゃないか?」
景真が杭を見ながら言った。
「待って」
紅緒はすぐに制した。
「たぶん、今抜くのは危ない」
「どうして?」
「もう根と術が馴染みすぎてるからよ」
紅緒は杭の周囲を指した。
「これだけ樹皮に巻き込まれてる。術の方も、天蓋樹の気をずっと取り込んでる。無理に引き剥がしたら、どんな流れになるか分からない」
山吹も頷いた。
「根ごと裂けたら、それこそ洒落にならないね」
景真は伸ばしかけていた手を膝へ戻した。
「じゃあ、どうやって止めるんだ?」
「まず、この術がどう動いているのか確かめないと」
紅緒は懐から札を一枚取り出した。
杭へ直接触れないよう、刻まれた術式の近くへ札を寄せる。
「紅緒、何する気だ?」
「ほんの少しだけ霊力を触れさせる。反応を見るだけよ」
コダマが紅緒を見た。
「大樹を傷つけぬであろうな」
「はい。少しでもおかしければ、すぐ止めます」
紅緒は息を整えた。
札の先へ、ごく細く霊力を通す。
それを、杭の表面へ刻まれた術式へそっと触れさせた。
次の瞬間。
足元の地面が、一度だけ大きく脈打った。
地の底で、巨大な何かの鼓動が鳴ったようだった。
「っ!」
紅緒が反射的に札を引く。
風はない。
それなのに、頭上の葉が一斉にざわめいた。
天蓋樹だけではない。周囲の木々まで、何かに怯えるように枝を震わせる。
杭のすぐ傍に生えていた細い草が、みるみるうちに頭を垂れた。
「紅緒!」
景真が肩を掴む。
「大丈夫。もう止めた」
紅緒は答えながら、杭から目を離さなかった。
コダマの姿が、僅かに揺らいでいる。
「コダマさん?」
「……大樹が、痛んだ」
低い声だった。
山吹が萎れた草を見下ろし、顔をしかめる。
「ほんの少し触っただけで、これかい」
紅緒は札を握り締める。
術式へ流した霊力は本当に僅かだった。
それでも杭は即座に反応し、天蓋樹の気を大きく揺らした。
「今ので、吸う力が強くなったのか?」
景真の問いに、紅緒は萎れた草へ目を落とした。
「たぶん。外から違う気が入ったせいで、一瞬だけ流れが乱れたの。普段は少しずつ吸っていても、刺激を受ければ反応が強まるのかもしれない」
紅緒は札を握り締め直し、黒い杭へ視線を戻した。
「……止まってない」
景真が紅緒を見る。
「え?」
「この杭。ただ刺さったまま残ってるだけじゃないわ」
紅緒は黒い杭を見つめた。
「今も、動いてる」




