第十七話「戻らぬもの」②
翌日の昼前、景真と紅緒は山吹の後を追っていた。
「昔、草が枯れていた場所までは遠いんですか?」
景真が尋ねる。
「そうでもないよ。昨日の場所から少し外れたところだ」
山吹は足を止めずに答えた。
「ただ、昔とは森の様子も変わってる。足元はよく見ておきな」
「はい」
紅緒は返事をしながら、周囲へ視線を巡らせた。
昨日と同じ禁樹域。けれど今日は、父もかつてこの森を歩いたと思うだけで、何気ない木の根や苔まで違って見えた。
やがて前方の木立の間に、淡い光が集まった。
それは少女の輪郭を取り、見慣れ始めたコダマの姿になる。
「来たか」
「おはようございます、コダマさん」
紅緒が頭を下げる。
「うむ。昨日よりは早いの」
「陽が高くなってから、と言われましたから」
景真の返事に、コダマは僅かに目を細めた。
「言いつけを守るのはよいことじゃ」
山吹が横から口を挟む。
「今日は昔の場所を先に見るよ。あんたも来るかい?」
「昔の場所?」
コダマが山吹を見る。
「蘇芳殿が調べてたところさ。昨日の話をしたら、この二人も見たいってね」
コダマはしばらく黙っていた。
その背後で、天蓋樹の葉がかすかに揺れる。
「……あの頃のことか」
紅緒が顔を上げた。
「覚えていらっしゃるんですか?」
「忘れてはおらぬ。大樹の巡りが僅かに乱れたことがあった」
コダマは森の奥へ目を向ける。
「今ほどではなかったがの」
「その時も、原因は分からなかったんですか?」
「分からなんだ」
コダマはあっさりと認めた。
「わしらは大樹に在る。ゆえに、巡りが滞れば分かる。どちらで弱っておるかも、おおよそはな」
そう言って、足元を這う太い根へ目を落とす。
「じゃが、大樹の根は地の下まで幾重にも広がっておる。その一本一本を、わしらが目で見ておるわけではない」
「身体の具合が悪いことは分かっても、どこに小さな傷があるかまでは分からない……みたいなものですか?」
景真が尋ねると、コダマは少し考えてから頷いた。
「人の身に例えるならば、近いやもしれぬ」
紅緒は昨日の言葉を思い出す。
届いている。けれど、戻ってこない。
コダマたちは異変を感じていた。けれど、その正体までは掴めていなかったのだ。
「着いたよ」
山吹の声に、紅緒は顔を上げた。
そこは、昨日見た枯死地とはまるで違っていた。
地面には青々とした草が茂り、苔も厚い。細い木々の間からは若い芽が伸び、どこを見ても枯れているようには見えない。
「……ここなんですか?」
「ここだよ」
山吹は迷わず答えた。
「あの時は、この辺りの草がぽつぽつ死んでいった。今じゃ跡形もないけどね」
紅緒はしゃがみ込み、下草へ手を伸ばした。
葉には張りがあり、根元もしっかりしている。昨日の命灯草のような黒ずみはない。
「もう、完全に戻っているように見えます」
「長い年月が経ってるからね。草なんて何度も生え替わってるさ」
山吹も腰を落とし、土を指先で掘り返す。
「少なくとも、今ここに異変はないよ」
紅緒は少しだけ落胆した。
何か残っているかもしれない。どこかに父の見つけた答えがあるかもしれない。
そんな期待を、無意識に抱いていたのだろう。
「何も残ってないな」
景真も辺りを見回している。
「だから言ったろ。昔の話だって」
山吹が立ち上がる。
「場所が分かれば十分です。昨日の場所と比べられますから」
景真はそう答えたものの、その場を離れようとはしなかった。
下草。地面。木の幹。地上へ盛り上がった太い根。
一つずつ、ゆっくり視線を移していく。
紅緒はその姿を見て、昨夜聞いた山吹の話を思い出した。
草より先に地面ばかり見ていた父。
山吹も同じことを思ったのか、景真の横顔を見て僅かに眉を上げた。
「……妙なところを見るねえ」
「え?」
「いや。何でもないよ」
山吹はそれ以上言わなかった。
景真は首を傾げたものの、すぐにまた足元へ目を戻した。
「山吹さん。昔、蘇芳さんはこの辺のどこを特に見てたか覚えてます?」
「どこって言われてもねえ……」
山吹は周囲を見渡した。
「あちこち掘ってたよ。根を出して、土を触って。ああ、でも――」
少し考えてから、一本の太い根を指さす。
「あっちの方には長くいたね」
三人はその根へ近づいた。
大人の胴ほどもある根が、地面から半ば姿を出したまま奥へ伸びている。表面は古い苔に覆われ、一部には細い蔓まで絡んでいた。
景真はその周囲を歩き、一度通り過ぎる。
そして数歩進んだところで止まった。
「……ん?」
引き返し、根の側面へしゃがみ込む。
「どうしたの?」
「ここだけ、ちょっと変じゃないか?」
紅緒も隣へしゃがんだ。
景真が指した場所だけ、苔の盛り上がり方が僅かに違う。
言われなければ見過ごしてしまう程度の差だった。
「苔?」
「たぶん。コダマさん、これ、少し触っても大丈夫ですか?」
「傷つけぬなら構わぬ」
景真は頷くと、指先で苔を傷つけないよう、端からそっとめくった。
その下から現れた樹皮は、周囲より少しだけ窪んでいた。
細い棒状のものを突き刺したような、古い跡。
「これ……傷?」
紅緒が目を凝らす。
自然に裂けたにしては形が整いすぎている。獣が爪を立てた跡とも違う。
山吹もしゃがみ込み、指で周囲の樹皮をなぞった。
「古いね。ずいぶん前に塞がった傷だ」
「昔からあったものですか?」
「さあね。こんな小さな傷まで覚えちゃいないよ」
コダマも近づき、穴の跡へ手をかざした。
「今は何も感じぬ」
紅緒はその言葉を聞きながら、傷の形を見つめた。
何かが、ここへ刺さっていた。
そんな形に見える。
「昨日の場所にも、似た傷がないか見てみませんか?」
景真が立ち上がった。
「行ってみよう」
紅緒も頷く。
四人は再び森の奥へ向かった。
*
昨日、命灯草が枯れていた場所へ戻る。
景色そのものは何も変わっていない。
乾いた土。まばらな下草。地中に残る、黒く脆い根。
けれど、先ほどまでとは見る場所が違った。
今度は草ではなく、その下を走る天蓋樹の根を見る。
「この辺りから、大樹の気が薄くなっておる」
コダマが一本の根を示す。
「昨日は、その先で戻ってこないって言ってましたよね」
「うむ」
「なら、この根のどこかに、さっきと同じ傷があるかもしれない」
景真は根に沿って歩き始めた。
紅緒と山吹も手分けして、苔や落ち葉の隙間を確かめていく。
だが、すぐには何も見つからない。
根は太く、長い。その多くが途中から土の下へ潜り、また離れた場所で姿を現している。
「簡単には見つからないわね」
「そりゃそうさ。大樹一本に、どれだけ根があると思ってるんだい」
山吹がぼやく。
その横で、景真が急に足を止めた。
根が土へ沈み込む、その手前。
絡みついた蔓の奥を、じっと見ている。
「……紅緒」
「何?」
景真は返事の代わりにしゃがみ込み、蔓をそっと脇へ寄せた。
そして、その下の土を指で払う。黒い何かが、僅かに覗いた。
「これじゃないか?」




