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第十七話「戻らぬもの」①

「……お前さんの父親――蘇芳殿が亡くなる、少し前だよ」

 紅緒は、しばらく声を出せなかった。

 手の中に黒く枯れた根を載せたまま、山吹がこちらを見ている。

 聞き間違えるはずのない名前だった。

「父が亡くなる……少し前?」

「ああ」

 山吹は短く答えた。

「昔にもね、今と同じような枯れ方をする草が出たことがある。規模はずっと小さかったけど、腐ったわけでも、虫にやられたわけでもない。根の先から、生気だけ抜けたみたいに枯れていった」

 紅緒は足元へ目を落とした。

 土の上には、先ほど山吹が調べるために掘り起こした、枯れた根の残骸が残っている。黒く、乾き、触れれば崩れてしまいそうな姿は、山吹の話す昔の異変と重なった。

「蘇芳さんも、そのことを知ってたんですか?」

 景真が尋ねる。

「知ってたよ。それどころか、あの人は自分で調べてた」

「父が……」

 胸の奥が、またざわついた。

 自分の知らないところで、父がこの森を歩いていた。

「詳しい話はするよ。ただ、ここでする話じゃないね」

 山吹が木々の向こうへ目をやる。

「もう日が落ちる。続きは戻ってからだ」

 紅緒はまだ聞きたいことがあった。

 けれど、木々の隙間から差す夕日はすでに赤く、森の奥には薄い影が溜まり始めている。

「今日は、もう戻れ」

 コダマが静かに言った。

「この先はさらに根が入り組んでおる。陽が落ちてから、人の足で歩く場所ではない」

「……分かりました」

 紅緒は森の奥へ一度だけ目を向け、それから頷いた。

「明日、また来ます」

「うむ」

 コダマは天蓋樹の方へ顔を向けた。

「明日も来るなら、陽が高くなってからにせよ」

 風もないのに葉が揺れ、その輪郭が淡い光へほどけていく。

 やがて少女の姿は、森の中へ溶けるように消えた。


   *


 集落へ戻る頃には、辺りはすっかり薄暗くなっていた。

 山吹の薬舗へ入ると、昼間に漂っていた薬草の匂いに、煮立てた湯の湿った匂いが混じっている。

 山吹は灯りを点けると、三人分の湯呑みを卓へ置いた。

「大したものじゃないけど、飲みな。森を歩き回った後は喉が渇くだろう」

「ありがとうございます」

 紅緒は湯呑みを受け取ったものの、口をつける前に山吹を見た。

「さっきの話、もう少し聞かせてもらえますか」

「そのつもりで戻ってきたんだろう?」

 山吹は苦笑して、自分の湯呑みを手に取った。

「昔の異変は、最初は本当に小さなものだった。薬草が何株か枯れた。それだけさ」

 だが、調べてみると枯れ方がおかしかった。

 葉からではなく、根から弱っていた。水が足りないわけでも、土が悪くなったわけでもない。

「そのうち、少し離れた場所でも同じものが見つかってね。あたしも病気を疑ったし、土も調べた。でも、何も出なかった」

「木霊は、その時も天蓋樹の異変に気づいていたんでしょうか」

 紅緒が尋ねる。

「今ほどじゃなかったみたいだけど、巡りが少しおかしいとは言ってたよ。けど、どこで何が起きてるのかまでは分からなかった」

 今と同じだ。

 天蓋樹の気は届いている。けれど、戻ってこない。

 原因は見えないまま、周囲の植物だけが根から死んでいく。

「それを蘇芳殿に話したら、次の日から調べ始めた」

 山吹は湯呑みを卓へ戻した。

「変な人だったよ。あたしが薬草を見てる横で、草より先に地面ばっかり見てるんだから」

「父が?」

「土を掘って、根を出して、また埋めて。木の幹や地面を這う根も、ずいぶん見て回ってた」

 山吹の口元に、ほんの少し懐かしそうな笑みが浮かぶ。

「あたしが『草が枯れてるんだから草を見な』って言ったら、『草が悪いなら、それでいいんだがな』って返されたよ」

 紅緒は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 父の声も、笑った顔も覚えている。

 十一歳だった紅緒にとって、父と過ごした時間は決して忘れてしまうほど遠いものではない。

 けれど、山吹の語る蘇芳は、自分の知らない父の姿だった。

 それでも、どこか父らしいと思えた。

「それで……どうなったんですか?」

 景真の問いに、山吹の表情から笑みが消える。

「先に言っておくよ」

 山吹は紅緒をまっすぐ見た。

「あの異変と蘇芳殿の死が関係していたかどうかは、あたしには分からない。今まで、それを結びつける証拠があったわけでもない」

「……はい」

 紅緒は小さく頷いた。

 頭の中で、別々だったものが勝手につながろうとしている。

 だからこそ、今ここで答えを決めつけてはいけない。

「ある日、蘇芳殿が一人で禁樹域へ入った」

「一人で?」

「ああ。何か確かめたいことがあるってね。あたしも行くと言ったんだけど、『今日はいい』って断られた」

 紅緒の指が、湯呑みを持つ手に僅かに力を込めた。

「その後、父はここへ戻ったんですか?」

 山吹は少し間を置いてから、首を横に振った。

「少なくとも、あたしのところには戻ってこなかった。だから、そのまま幽京へ帰ったんだと思ってた。その頃はね」

 室内が静かになる。

 薬草を煮る小さな音だけが、奥から聞こえていた。

「でもね、その日を境に、草が枯れるのは止まったんだよ」

 紅緒は顔を上げた。

「止まった?」

「新しく枯れる株が出なくなった。天蓋樹の巡りも、しばらくしたら落ち着いたと木霊が言ってた」

 山吹は一度、目を伏せた。

「そして後になって、蘇芳殿が亡くなったって聞いた」

 紅緒は何も言えなかった。

「だからって、今まで二つを結びつけて考えたことはなかったよ。あの時は異変も収まったし、蘇芳殿が何を見つけたのかも聞けなかったからね」

 けれど今、同じ枯れ方をする命灯草が再び現れた。

 偶然だと言い切るには、似すぎている。

「昔、草が枯れていた場所はまだ分かりますか?」

 景真が尋ねた。

 山吹はすぐに頷く。

「覚えてるよ。森の景色は変わったけど、場所を間違えるほど耄碌しちゃいない」

「なら、明日はそこから見てみませんか? 今の場所だけ調べるより、昔と同じところがないか比べた方が早い」

 紅緒は景真を見た。

 父の話を聞いてから、自分でも気づかないうちに視野が狭くなっていたらしい。

「……そうね」

 そして山吹へ向き直る。

「お願いします。明日、その場所へ連れて行ってください」

「構わないよ」

 山吹は頷いた。

 紅緒はようやく、冷めかけた湯を一口飲んだ。

 父は、あの森で何を見つけたのか。

 なぜ異変は、父が森へ入った後に止まったのか。

 答えはまだ何一つない。

 だからこそ、明日は自分の目で確かめる。

 蘇芳がかつて歩いた場所を。

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