第十六話「命を灯す草」①
恋白を巡る騒ぎから、さらに数日が過ぎた。
宮中で広がった噂はまだ完全には収まっていなかったが、景真と紅緒の日々まで止まっているわけではない。
その日の昼前、二人は御伽館の一室で、一人の薬師と向かい合っていた。
年は四十を少し過ぎたくらいだろうか。灰色の髪を後ろで束ねた男は、膝の上で両手を強く握りしめている。
「お願いしたいのは、蒼杜に生える命灯草という薬草です」
薬師はそう言って、持参した小さな紙包みを開いた。
中に入っていたのは、乾燥して茶色く変色した細い葉だった。
「これが命灯草?」
景真が覗き込む。
「ええ。これは見分けるために残してある古い見本です。薬に使うのは、生きた株の根です。葉だけでは十分な薬効が得られません。根も乾かしてしまうと、効き目がほとんど失われます」
「それなら、蒼杜から普段から運んでおくことはできないのね」
紅緒が言うと、薬師は頷いた。
「保存が難しいのです。採取してすぐに適切な処置をすれば、しばらく薬効を保てますが……私にはその技術がありません」
「蒼杜にはできる人がいるんですか?」
「伏原山吹という薬師がいます。狐妖怪ですが、薬草の扱いではあの方の右に出る者は、蒼杜でもそう多くありません」
紅緒は少しだけ目を見開いた。
「狐妖怪……」
自分と同じ狐の血を持つ妖怪だと聞いて、わずかに気を引かれた。
薬師はそんな紅緒の様子には気づかず、話を続ける。
「命灯草は、蒼杜の奥にある天蓋樹の周辺にしか生えません。山吹殿なら、場所も採り方もご存じのはずです」
「天蓋樹?」
景真が聞き返す。
「蒼杜の奥に立つ大きな神木です。ただ……その周辺は禁樹域と呼ばれています。森の妖怪たち、とりわけ木霊の許しなく植物を採ることはできません」
「勝手に取ってくればいい、という話じゃないのね」
「ええ」
薬師の顔が曇った。
「それでも、どうしても必要なのです」
部屋の空気が少し変わる。
紅緒は姿勢を正した。
「患者さんは、どんな状態なんですか?」
「高い熱が何日も続いています。今の薬で、あと数日は持たせられると思います。ですが、それ以上は……。その間にまた強い発作が来れば、持たないかもしれません」
薬師は一度、唇を噛んだ。
「私にできることは、もうほとんど残っていない。命灯草の根を使えれば、熱を鎮めて体を立て直せる可能性があります」
「可能性、なんですね」
景真が静かに言った。
「絶対に助かるとは言えません。薬師ですから、そこを偽るわけにはいきません」
それでも、と男は続けた。
「何もしなければ、助からないでしょう」
紅緒は景真を見る。
景真もこちらを見ていた。
答えは、ほとんど決まっていた。
「分かりました」
紅緒は言った。
「まず蒼杜へ行って、伏原山吹さんに会います。その上で、命灯草を分けてもらえるか交渉してみます」
薬師の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「ありがとうございます」
「ただし、木霊が守っているものなら、無理に奪うことはできません」
「承知しています。それでも、頼める相手が他にいないのです」
深く頭を下げる薬師に、紅緒も小さく頷いた。
*
必要な支度を済ませ、景真と紅緒はその日のうちに幽京を発った。
東へ向かう街道を進むにつれて、景色は少しずつ変わっていく。
最初は畑や小さな集落が続いていた。
やがて道の両側に木々が増え、遠くに見えていた山の輪郭さえ、深い緑の向こうへ隠れていく。
湿り気を含んだ風が頬を撫でた。
玄嶺で感じた、肌を刺すような冷気とはまるで違う。
「東へ来ると、こんなに景色が変わるんだな」
景真が歩きながら周囲を見回す。
街道脇には、紅緒でも名前を知らない草花がいくつも生えていた。
太い幹へ蔓が絡み、枝からは長い苔が垂れている。
森の奥から聞こえてくる鳥の声も、幽京の近くで耳にするものとは違っていた。
「私も、ここまで東へ来ることはあまりないわ」
「玄嶺とは正反対だな」
「そうね。あっちは白ばかりだったけれど、こっちはどこを見ても緑ね」
景真がしばらく黙って森を眺める。
「なんか、薬草一本探すだけなら、今回は平和そうだな」
紅緒はすぐに景真を見る。
「そういうことを言うと、大抵ろくなことにならないのよ」
「いや、今回は本当に薬草を取って帰るだけだろ?」
「その薬草が、木霊の守っている場所にあるって聞いたばかりじゃない」
「ちゃんとお願いすれば、一本くらい――」
「その考え方で怒らせないでよ」
「まだ何もしてないだろ!」
景真が抗議する。
紅緒は小さく笑った。
ここしばらく、宮中の事件や噂のことばかり考えていた。
こうして幽京を離れ、知らない土地へ向かっているだけで、胸の奥にこびりついていた重さが少し薄れる気がした。
もちろん、遊びに来たわけではない。
幽京では今も、一人の患者が命灯草を待っている。
「急ぎましょう」
「ああ」
二人は再び歩調を速めた。
*
東へ向かう旅を続け、やがて蒼杜の地へ入ると、その変化はいよいよはっきりした。
森の密度が、それまでとはまるで違っていた。
見上げても、空は枝葉の隙間から細く覗くだけだ。
木漏れ日が幾重にも重なり、湿った地面には小さな草花や茸が隙間なく生えている。
それでも街道はきちんと整えられ、人の往来も少なくない。
背負籠いっぱいに薬草を積んだ老人。
切り出した木材を荷車で運ぶ男たち。
香りの強い木片を布で包み、丁寧に抱えて歩く商人。
人間だけではない。
枝のような角を持つ妖怪が道端の店で木の実を選び、その隣では獣耳の子どもが丸太の上を跳ねて遊んでいる。
さらに少し進むと、街道脇の大木の根元に小さな器が置かれていた。
中には木の実と、水らしきものが入っている。
「あれ、何?」
景真が尋ねる。
「木霊への供え物じゃないかしら」
「木霊って、その辺にもいるのか?」
「いるかもしれないし、いないかもしれないわね」
「分からないのかよ」
「姿を見せるとは限らないもの」
景真は供え物と大木を交互に見た。
結局、何となく大木へ軽く頭を下げてから歩き出す。
「何してるの?」
「いや。見られてたら失礼かなって」
紅緒は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「景真らしいわね」
「笑うことないだろ」
そんなことを言い合いながら、二人は教えられた集落を目指した。
森の奥へ続く道の先に、木々の間へ寄り添うように家々が見え始める。
そのさらに遥か向こう。
周囲の森から一段抜きん出る、巨大な樹冠が空を覆っていた。
遠目にも分かるほど大きい。
「……でか」
景真が思わず足を止めた。
「あれが……天蓋樹か」
「ええ、そうよ。……私も詳しくは知らないのだけれど」
紅緒も足を止め、その緑の巨影を見上げた。
命灯草。
狐妖怪の薬師、伏原山吹。
そして、森の奥に立つ神木。
その緑の巨影は、二人を待つように森の奥へそびえていた。




