第十六話「命を灯す草」②
集落へ入ると、森の中とは思えないほど人の気配が増えた。
太い木々の間を縫うように家々が並び、軒先には束ねた薬草や薄く削った木片が吊るされている。通りには乾いた葉と土、それにどこか甘い香木の匂いが混じっていた。
景真は歩きながら、右へ左へと忙しく目を動かしている。
「薬屋だけでも、ずいぶん多いな」
「蒼杜は薬草の産地だもの。幽京へ運ばれているものも多いわ」
「これだけあっても、命灯草は代わりが利かないのか」
「そうみたいね」
紅緒は、依頼の際に薬師から預かった古い葉の見本を思い出した。
幽京では、今も一人の患者が待っている。景色に目を奪われている場合ではない。
二人は道を尋ねながら、集落の奥へ進んだ。
やがて、小さな薬舗の前で足を止める。
戸口の脇には、乾燥させた草の束が何十本も吊るされていた。窓辺には見慣れない木の実や根が籠に分けられ、店の中からは煎じ薬らしい苦い匂いが漂ってくる。
「ここみたいだな」
景真が戸口を覗く。
「ごめんください」
紅緒が声をかけると、奥で何かを刻む音が止まった。
「はいはい。今行くよ」
返ってきたのは、少し気の抜けた女の声だった。
ほどなくして、奥から一人の狐妖怪が姿を現す。
見た目だけなら、紅緒より少し年上に見える程度だった。若い顔立ちに、狐の耳と尾。前掛けには細かな薬草の欠片がいくつも付いている。
女は二人を見比べた。
「見ない顔だね。薬かい? それとも怪我でもしたのかい?」
「伏原山吹さんでしょうか」
「そうだけど」
紅緒は胸元から、依頼を受けた薬師に預かった書状を取り出した。
「幽京から来ました。陰陽寮の大月紅緒です。こちらは御伽衆の東春景真です」
山吹が書状へ伸ばしかけた手を止めた。
「……大月?」
山吹の目が、紅緒の顔を確かめるように細められた。
先ほどまでの気軽な表情が消えていた。
「……あんた、綾緋の娘かい?」
今度は紅緒が固まった。
「母をご存じなんですか?」
「知ってるも何も、綾緋とは長い付き合いでね」
山吹は懐かしいものを見るように、紅緒の顔を眺めた。
「目元がよく似てるよ。いや、こうして見ると顔立ちも――」
そこまで言って、山吹はふっと口を閉じる。
「……立ち話で始める話でもないね」
紅緒の胸に、いくつもの疑問が一度に浮かんだ。
母とどこで知り合ったのか。どんな付き合いだったのか。自分の知らない母を、どれほど知っているのか。
だが、山吹は紅緒が尋ねるより早く書状を受け取った。
「まずはこっちだ。急ぎなんだろう?」
その一言で、紅緒も我に返った。
「……はい。重い熱病の方が、命灯草を待っています」
「なら昔話は後だね。病人は待ってくれないよ」
山吹は書状へ素早く目を通す。
読み終える頃には、その表情はすっかり薬師のものになっていた。
「症状を見る限り、確かに命灯草が効く見込みはあるね。ただ、根を採ってからの処置が難しい。あたしが一緒に行った方がいいだろう」
「お願いします」
紅緒が頭を下げる。
横で景真が、まだ山吹を不思議そうに見ていた。
「何だい?」
「いや……綾緋さんと長い付き合いだったってことは、山吹さんって――」
言いづらそうに口ごもる景真へ、山吹が片眉を上げる。
「歳かい?」
「そこまで直接は言ってません」
「あたしも五十は越えてるよ。狐を見た目で数えちゃいけないね」
景真が素直に目を丸くした。
「……全然見えない」
「褒めても薬は安くならないよ」
「別に買おうとしてないです」
紅緒は思わず小さく笑った。
山吹は景真の反応を楽しむように鼻で笑うと、店の奥へ引っ込んだ。
ほどなく、薬籠と小さな採取道具を抱えて戻ってくる。
「さあ、行くよ。のんびりしている暇はないからね」
*
山吹に案内され、三人は集落のさらに奥へ進んだ。
整えられていた道は次第に細くなり、やがて二人並んで歩くのがやっとの山道へ変わる。
それでも山吹の足取りに迷いはなかった。
「そこ、踏むんじゃないよ」
「え?」
景真が足を止める。
草履のすぐ先に、丸い葉を何枚も重ねた小さな草が生えていた。
「触るとしばらく皮膚が赤く腫れる。命には関わらないけど、ひどく痒いよ」
景真がそっと足を引いた。
「……薬草の土地って、毒草も多いんですね」
「薬になるか毒になるかなんて、量と使い方次第のものも多いさ」
山吹は何でもないことのように言い、先へ進む。
紅緒はその背中を追いながら、周囲を見回した。
森は集落の近くよりさらに深い。陽の光は葉に遮られ、地面へ届く頃には柔らかな緑色に染まっている。
その向こうには、先ほど遠くから見えた天蓋樹の樹冠が少しずつ大きくなっていた。
「命灯草は、天蓋樹のすぐ近くにあるんですか?」
紅緒が尋ねる。
「根が広がっている辺りだね。あの大樹から漏れる霊気を好む草だから、他所へ持っていって育てようとしてもうまく根づかない」
「それで、あそこにしか生えないのか」
景真が納得したように頷く。
山吹は返事をせず、少し先の地面へ目を落とした。
何かを探すように草むらを見つめている。
「山吹さん?」
「……いや」
山吹は歩き出したものの、先ほどまでより少しだけ表情が硬い。
「どうかしたんですか?」
「ここにも、前は命灯草が出てたんだよ」
「ここにも?」
「天蓋樹の根元ほどじゃないけどね。昔は今ほど探すのに苦労する草じゃなかった」
山吹は腰を屈め、地面に指を触れた。
「今年に入ってから、妙に数が減ってる」
紅緒と景真が顔を見合わせる。
「原因は分かっているんですか?」
「それが分かってりゃ、あたしも困ってないさ」
山吹は立ち上がり、手についた土を払った。
「天蓋樹の近くにはまだ残ってる。ただ、今年は木霊がうるさくてね。一本欲しいと言っても、簡単には首を縦に振らないだろうよ」
「命灯草が減っているから?」
「それもある」
山吹の答えが、少しだけ引っかかった。
紅緒が続きを尋ねようとした時、前方の木々が途切れた。
そこから先は、同じ森の中なのに空気が違っていた。
太い根が地面を這い、幾重にも絡み合いながら奥へ続いている。その向こうに立つ木々は、どれも先ほどまでより古く、大きい。
そしてさらに奥には、天蓋樹の巨大な幹が見えた。
遠くから見た時とは比べものにならない。
何人が腕を広げても囲めそうにない幹が天へ伸び、見上げても梢の先が分からない。
「……これが」
景真が思わず声を漏らす。
「天蓋樹だよ」
山吹が答えた。
紅緒も言葉を失っていた。知ってはいても、ここまで近くで見るのは初めてだった。
森そのものが一本の木を中心に息をしている。そんな錯覚すら覚える。
山吹が、その一歩手前で足を止めた。
「ここから先が禁樹域だ」
景真も足を止める。
「勝手に入らない方がいいんでしたよね」
「そういうこと。まず木霊に話を――」
山吹の言葉が終わるより先だった。
どこからともなく、少女のような声が響いた。
「――そこまでじゃ」
三人が同時に顔を上げる。
だが、周囲に人影はない。
風もないのに、天蓋樹へ続く木々の葉だけが、ざわりと揺れた。




