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第十五話「消されたもの、残されたもの」④

 人だかりは、少しずつ散り始めていた。

 ほどなく、騒ぎを聞いて駆けつけた母親が子どものもとへ飛び込んできた。

 事情を聞いた母親は、恋白の前で深く頭を下げた。

「息子を助けてくださって、ありがとうございました」

 恋白は少し驚いたように目を瞬いたあと、小さく頷いた。

 やがて母親に手を引かれ、泣き疲れた子どもは家へ帰っていった。

 何度も振り返っては恋白へ頭を下げ、そのたびにまた目元を拭っていた。

 恋白は、その小さな背中が路地の向こうへ消えるまで黙って見送っていた。

 先ほどまでの冷たい表情は、もう少しだけ和らいでいる。

 紅緒はそれを見て、胸の内で安堵した。

 あのまま人間すべてを嫌いになられていたら、さすがに後味が悪い。

「恋白」

 景真が声をかけた。

「怪我してないか?」

「私は大丈夫です」

 恋白は自分の擦れた手のひらを見た。

「この程度なら、すぐ治ります」

「そっか。よかった」

 景真がほっとしたように笑う。

 その顔を見た恋白は、しばらく何も言わなかった。

 やがて、静かに尋ねる。

「景真さま」

「ん?」

「私が、あの子を襲っていないと信じてくださっていたのですか?」

 景真は少し考えた。

「恋白がそんなことするとは思ってなかったよ」

 恋白の目が僅かに明るくなる。

「でも、それだけで最初から無実だって決めるのも違うと思った」

 恋白が瞬きをする。

「だから、何があったか確かめた。恋白だからやってないって決めるのも、雪女だからやったって決めるのも、たぶん同じだから」

 紅緒は景真を横目で見た。

 宮中を出た時に話していたことを、そのままやっただけなのだろう。

 本人にとっては、それほど大したことを言ったつもりもないらしい。

 けれど恋白は違った。

 桃色の瞳が、見る間に潤んでいく。

「……景真さまは、やはり景真さまなのですね」

「何だそれ」

 景真が笑う。

 恋白は胸元へ手を添えた。

「先ほど、私は……人間とは、とても醜いものなのかもしれないと思いました」

 紅緒の表情が僅かに曇る。

 責め立てられ、助けた子どもにまで嘘をつかれたのだ。

 そう思ってしまうのも無理はなかった。

「ですが、あの子は最後に本当のことを話してくれました。あの方も、間違いを認めました」

 恋白が一度、人のいなくなりつつある路地へ目を向ける。

「人間というものは、よく分かりません」

 少し間を置く。

「でも、景真さまのことは、もっと好きになりました」

「え?」

 次の瞬間、恋白が景真の腕へぎゅっと抱きついた。

「……やはり、景真さまは素晴らしい方です」

「ちょ、恋白!?」

 景真の顔が一気に赤くなった。

 腕にしがみつく恋白をどう扱えばいいのか分からないらしく、空いている方の手が行き場を失っている。

 紅緒はその様子を眺めた。

 何故だろう。

 急に、少しだけ面白くない。

 景真は恋白を振りほどこうともせず、ただ赤い顔で固まっている。

「……だらしない顔ね」

「してないだろ!」

「してるわよ」

「してません!」

 何故か敬語になった。

 恋白はそんな二人のやり取りなど気にした様子もなく、景真の腕を抱いたまま満足そうに目を細めている。

 紅緒はさらに半眼になった。


   *


「そういえば、恋白」

 ようやく景真が少し落ち着きを取り戻した頃、紅緒は気になっていたことを尋ねた。

「どうして幽京にいるの?」

 恋白は景真の腕から離れないまま答えた。

「景真さまにお会いするためです」

「……それだけ?」

「はい」

 迷いのない返事だった。

 景真が嫌な予感を覚えたような顔をする。

「紗白さんには言ったのか?」

 恋白が黙った。

 ほんの一瞬。

 だが、それで十分だった。

「言ってないのね」

 紅緒が呆れて言う。

「言えば止められる可能性がありましたので」

「だから黙って来たのか……」

 景真が頭を抱える。

 恋白は不思議そうに首を傾げた。

「ですが、もう幽京まで来られました。あとは景真さまのお部屋へ行くだけです」

「待て待て待て」

 景真が慌てて恋白を見る。

「なんで俺の部屋に来る話になってるんだ?」

「景真さまに会いに来たからです」

「会っただろ、もう!」

「まだお部屋には行っていません」

「そこは別に達成しなくていい!」

 紅緒は思わず額へ手を当てた。

 事件が解決したと思ったら、今度は別の面倒事が始まりそうだった。

 その時。

「――恋白」

 背後から、静かな声が落ちた。

 恋白の体がぴたりと止まる。

 景真の腕を抱いたまま、ゆっくりと振り返った。

 路地の入口に、一人の雪女が立っている。

 天谷紗白だった。

 いつもの落ち着いた顔。

 けれど、その目はまったく笑っていない。

「……姉さま」

「ようやく見つけたぞ」

 紗白は恋白の前まで来ると、呆れたように息を吐いた。

「里の者から、お前が幽京へ向かったと聞いた。景真殿を探すなら御伽館だろうと思って向かっていたところ、この騒ぎを耳にしてな」

 恋白が静かに景真の腕から手を離した。

 その動きだけは妙に素早かった。

「恋白。私に何も言わず、里を出たな」

「……はい」

「一人で幽京まで来たな」

「……はい」

「途中で何が起きるかも分からない。まして今は、幽京で妖怪への警戒が強まっている時だ。お前一人で出歩いてよい状況ではない」

 恋白が少し俯く。

「ごめんなさい、姉さま」

 紗白は小さく息を吐いた。

「まったく。一人で幽京まで来るとは、さすがに行き過ぎだ」

 そこで一拍。

「……雪女だけに、ゆき過ぎだな」

 沈黙。

 恋白は完全に無視し、神妙な顔のまま俯いている。

 景真は遠くを見た。

 紅緒も何も聞かなかったことにした。

「……ふっ」

 笑ったのは、紗白自身だった。

「ゆき過ぎ……雪女が……ふふっ」

 自分で口にした言葉を反芻するうちにツボへ入ったらしく、一人だけ肩を震わせている。

 恋白はなおも一切反応しなかった。

 やがて紗白はひとしきり笑い終えると、何事もなかったように表情を戻した。

「ともかく、勝手に里を出るのは感心しない」

 紅緒は、今の笑いは何だったのだろうと思ったが、口にはしなかった。

 紗白は景真と紅緒へ向き直る。

「景真殿、紅緒殿。恋白が迷惑をかけた。すまない」

「いえ。こちらは大丈夫です」

 紅緒が答える。

「むしろ、恋白が子どもを助けてくれたんです」

 紗白の眉が僅かに動いた。

 事情を簡単に説明すると、紗白は恋白を見た。

「そうか。助けたこと自体は立派だ」

 恋白が少しだけ顔を上げる。

「だが、それと勝手に里を抜けたことは別だ」

 すぐに下がった。

「帰るぞ」

「ですが姉さま、私はこれから景真さまのお部屋へ――」

「帰るぞ」

 二度目は、少しだけ低かった。

 恋白は口を閉ざした。

 紗白がその肩をしっかりと掴み、里へ連れて帰る態勢に入る。

 恋白は観念したように数歩進んだ。

 それでも最後に振り返る。

「景真さま」

「ん?」

「また参ります」

「次は紗白さんに言ってから来なさい」

 紅緒が先に言うと、恋白は真面目な顔で頷いた。

「分かりました」

 紗白も頷く。

「次は私に言ってからだ。来ること自体まで禁じるつもりはない」

「はい、姉さま」

 そう答える恋白の声は、ほんの少し嬉しそうだった。

 そして二人の雪女は、並んで路地の向こうへ歩いていった。

 途中で恋白が何度も景真を振り返り、そのたびに紗白が前を向かせていた。


   *


 二人の姿が見えなくなったあと、紅緒と景真は大路へ戻った。

 先ほどの騒ぎが嘘のように、人々はいつものように行き交っている。

 けれど、耳を澄ませれば、ところどころから宮中の事件について話す声が聞こえてきた。

 妖怪はやはり危ない。

 朝廷の役人が妖怪を操っていた。

 長田久光は何者かに消されたのではないか。

 どれも、すぐには消えてくれそうになかった。

「……噂って、厄介ね」

 紅緒が呟く。

「うん」

 景真も珍しく素直に頷いた。

 紅緒は先ほどの子どもを思い出した。

 最初は周囲に流されて嘘をついた。

 けれど最後には、自分から本当のことを話した。

 恋白を決めつけた男も、間違いを認めて頭を下げた。

 人は簡単に間違える。

 それでも、間違いに気づいたなら直すことはできる。

「景真」

「何?」

「さっき言っていたこと」

「さっき?」

「目の前の相手を見るしかないって話よ」

 景真が少し考え、やがて頷いた。

「ああ」

 紅緒は前を向いた。

「たぶん、それしかないのね」

 そう思ったところで、隣を歩く景真の顔が視界に入った。

 紅緒はふと、恋白に腕を抱かれて真っ赤になっていた顔を思い出す。

「……やっぱり、だらしない顔だったわね」

「まだ言うのかよ!」

 景真の抗議を聞きながら、紅緒は少しだけ笑った。

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