第十五話「消されたもの、残されたもの」③
大路から外れた裏手の一角へ近づくにつれて、人のざわめきが聞こえてきた。
紅緒と景真が細い路地を抜けると、古びた家々の間に十人ほどの人だかりができている。
その中心に、白い髪が見えた。
紅緒の嫌な予感は当たっていた。
「……恋白?」
景真が足を止める。
人垣の中にいた恋白が、ゆっくりとこちらを向いた。
いつもの、どこか眠たげで柔らかな表情ではなかった。
白い顔から感情が抜け落ちたように見える。
「景真さま」
それでも、景真の名を呼んだ瞬間だけ、その瞳が僅かに揺れた。
紅緒は恋白の姿を見回した。
袖と裾には土がつき、片方の手のひらも少し赤く擦れている。
そのすぐ近くでは、小さな男の子が地面に座り込んでいた。膝と腕に浅い擦り傷がある。
そして恋白と子どもの間へ割って入るように、一人の男が立っていた。
「大月さまですか!」
紅緒の装束を見た誰かが声を上げる。
「ちょうどよかった。この雪女が子どもを襲ったんです!」
最初の男が、待っていたと言わんばかりに訴えた。
周囲からも声が重なる。
「子ども本人も、やられたって言ってる」
「宮中でも妖怪が人を襲ったばかりだろう」
「早く捕まえた方がいい」
紅緒はすぐには答えなかった。
恋白を見る。
彼女は何も言わず、ただ人々を冷たい目で見ていた。
「恋白」
景真が呼ぶ。
「何があったんだ?」
男が眉を吊り上げた。
「何を聞く必要がある! 子どもがそう言ってるんだぞ!」
「あります」
紅緒は男へ向き直った。
思っていたより低い声が出た。
「何が起きたかを確認するために来ました。最初から答えを決めていては、確認になりません」
男は何か言い返しかけたが、紅緒の装束を見て口を噤んだ。
景真が恋白へ視線を戻す。
「恋白から聞かせてくれる?」
恋白はしばらく黙っていた。
やがて、あばら家の屋根を指す。
「あの子が、あそこから落ちました」
視線を子どもへ移す。
「落ちそうになったので、腕を掴みました。ですが、完全には受け止められず、一緒に地面へ転がりました」
「それだけ?」
「はい」
淡々とした答えだった。
けれど、その声にはいつもの柔らかさがなかった。
「嘘だ!」
男が口を挟む。
「子どもは、この雪女にやられたって認めてる!」
紅緒は男を見る。
「あなたは、恋白が子どもを襲うところを見たの?」
男の勢いが止まった。
「……いや。俺が来た時には、もう子どもが怪我をしていた」
「では、見たのは怪我をした子どもと、その傍にいた恋白だけね」
「だが、雪女だぞ!」
「雪女であることは、子どもを襲った証拠にはならないわ」
紅緒が言うと、周囲が少しざわついた。
自分が半妖だから庇っている。
そんな目を向ける者がいたことにも気づいた。
だが、紅緒は気にしなかった。
今見るべきものは、そこではない。
*
紅緒と景真は、まず子どもの怪我を確かめた。
膝の擦り傷と、腕の軽い打ち身。
どちらにも、凍傷のような痕跡はない。
もちろん、雪女だから必ず冷気で傷つけるとは限らない。
これだけで恋白が無実だとは言えなかった。
紅緒が顔を上げると、景真はすでにあばら家の方へ歩いていた。
「景真?」
「ちょっと見てくる」
崩れかけた家の前で足を止め、屋根を見上げる。
紅緒も後を追った。
屋根の一部が新しく割れている。
古びて黒ずんだ板の中で、折れた部分だけ木肌の色が新しい。
その周囲には、小さな足で踏んだような埃の乱れも残っていた。
「子どもが上にいたのは、本当みたいね」
「うん」
景真が今度は地面を見る。
割れた屋根板の真下から少しずれた場所では、土が一点だけでなく横へ大きく乱れていた。
一人が真っ直ぐ落ちただけの跡には見えない。
そのすぐ傍に、薄い色の布糸が一本落ちている。
紅緒が拾い、恋白の袖を見る。
端がほんの少しだけほつれていた。
「あそこで受け止めたのね」
恋白は小さく頷いた。
景真が子どもの方へ戻る。
男がまた何か言おうとしたが、紅緒が目で制した。
今度は口を挟ませない。
景真は子どもの前へしゃがみ込んだ。
目線を同じ高さまで落とす。
「痛い?」
子どもは小さく頷いた。
「そっか。でも、大きな怪我じゃなさそうでよかった」
責める声ではなかった。
恋白のことにもまだ触れない。
子どもは不安そうに景真を見た。
「一つだけ教えてほしいんだ」
景真は屋根を指した。
「何があったか、最初から教えてくれる?」
子どもの肩が僅かに震えた。
景真は急かさなかった。
紅緒も黙って待つ。
人垣の中も、少しずつ静かになった。
「……ぼく」
ようやく、小さな声が落ちた。
「あそこで、遊んでた」
子どもが屋根を見上げる。
「一人で?」
また頷く。
「それで?」
「屋根が……割れて」
声が震え始めた。
「落ちた」
最初の男の顔が強張る。
景真は変わらない声で尋ねた。
「それで、どうなったの?」
子どもの目が恋白へ向く。
恋白は何も言わない。
ただ、じっと子どもを見ていた。
「……助けてくれた」
か細い声だった。
周囲のざわめきが止まる。
「落ちるところを?」
「うん……」
子どもの目に、みるみる涙が溜まった。
唇を噛み、必死に堪えようとしている。
だが、一度こぼれた涙は止まらなかった。
「ぼく……勝手に屋根に上って……」
鼻をすすりながら、途切れ途切れに言葉を続ける。
「怒られると思って……おじさんが、このお姉ちゃんにやられたんだよなって言ったから……」
声が崩れた。
「うんって……言っちゃった……」
子どもはとうとう顔を両手で覆った。
「ごめんなさい……!」
大きな泣き声が路地に響く。
「お姉ちゃん、助けてくれたのに……ぼく、嘘ついて……ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
何度も同じ言葉を繰り返しながら、しゃくり上げる。
責め立てるような声は、もうどこからも上がらなかった。
最初の男も、青ざめた顔で立ち尽くしている。
恋白だけが、泣きじゃくる子どもをじっと見つめていた。
紅緒には、その横顔が少しだけ戸惑っているように見えた。
やがて恋白が、ゆっくりと子どもの前へしゃがむ。
「……もう構いません」
子どもが涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「本当のことを話してくれましたから」
恋白は少しだけ間を置いた。
「それに、大きな怪我がなくてよかったです」
子どもの顔がまた歪み、今度はさらに大きな声で泣いた。
恋白は困ったように瞬きをした。
その瞳にはまだ、人間たちへ向けていた冷たさが残っている。
けれど、先ほどまでとまったく同じではなかった。
紅緒はそれを見て、胸の奥で小さく息を吐いた。
*
事実が明らかになると、人垣の空気は一変した。
先ほどまで恋白を睨んでいた者たちは、互いに顔を見合わせる。
最初に声を上げた男は、しばらく黙り込んでいた。
やがて恋白の前へ出る。
「……悪かった」
恋白は男を見る。
「宮中の騒ぎを聞いて、それで……ちゃんと見てもいないのに、勝手に決めつけた」
深い謝罪ではなかった。
けれど、先ほどまで自分の考えを疑おうともしなかった男が、目を逸らさずに頭を下げた。
恋白は少しの間、何も言わなかった。
「……そうですね」
容赦のない返事だった。
男がさらに気まずそうな顔をする。
その様子を見て、紅緒は思わず小さく息を漏らした。
恋白らしいと言えば、恋白らしい。
ただし、その声音から先ほどの刺すような冷たさは少し薄れていた。
景真が立ち上がる。
「これで、恋白が襲ったわけじゃないって分かりましたね」
誰も反論しなかった。
紅緒は割れた屋根を見上げ、それから集まった人々へ視線を移した。
「妖怪だから怪しい。人間だから正しい。そんなふうに先に答えを決めてしまえば、目の前にあるものまで見えなくなります」
自分自身にも言い聞かせるように、静かに言った。
「今回は、この子が本当のことを話してくれたから分かりました。でも、いつもそうなるとは限りません」
誰かが気まずそうに目を伏せた。
紅緒はそれ以上責めなかった。
噂が人を不安にすることは分かる。
自分だって、恐れや先入観から完全に自由なわけではない。
だからこそ、確かめなければならないのだ。
紅緒が横を見る。
恋白は景真を見つめていた。
先ほどまで人々へ向けていたものとは、まるで違う眼差しだった。
景真はそのことに気づいていないらしく、泣いている子どもの怪我をもう一度確かめている。
紅緒は何となく、嫌な予感がした。




