第十五話「消されたもの、残されたもの」②
幽京は、恋白が思っていたよりずっと広かった。
とはいえ、行く先がまったく分からないわけではない。
景真が陰陽寮や御伽衆と関わりがあることは知っている。ならば、まず御伽衆の拠点である御伽館へ行けば、景真の居場所も分かるだろう。
恋白はそう考え、門をくぐってから何人かに道を尋ねていた。
「すみません。御伽館はどちらでしょうか?」
尋ねられた男は、恋白の白い髪を一瞬だけ見たものの、すぐに通りの先を指した。
「御伽館なら、この大路をまっすぐ行っても着くよ。ただ、少し遠回りだな」
「近い道があるのですか?」
「この先を右へ入って、古い家の並ぶ裏道を抜ければ早い。道なりに進めば、また大きな通りへ出る」
「ありがとうございます」
恋白は素直に頭を下げた。
これで景真に会える。
そう思うと、足取りも自然と軽くなる。
姉さまには何も言っていない。
尋ねれば、どうして御伽館へ行きたいのかと聞かれる。
景真に会うためだと答えれば、幽京まで一人で行くことを止められる可能性が高い。
だから言わなかった。
非常に合理的な判断だった、と恋白は思っていた。
帰った後のことは、その時に考えればいい。
「景真さま。もう少しです」
本人に聞こえるはずもない独り言を呟き、恋白は教えられた裏道へ入った。
*
大通りから外れるにつれて、人の数は少なくなっていった。
店の並ぶ通りはいつの間にか終わり、古い家や物置が目立つようになる。
教えられた通りなら、この先を抜ければまた大きな通りへ出るはずだった。
恋白は周囲を気にするでもなく、そのまま歩いていく。
その時、乾いた木の軋む音が聞こえた。
恋白は顔を上げた。
少し先に、今にも崩れそうなあばら家がある。
屋根板はところどころ剥がれ、壁も傾いていた。人が住んでいる様子はない。
その屋根の上で、一人の子どもが遊んでいた。
十にも届いていないような男の子だった。
何が楽しいのか、屋根の上を端から端まで歩き、ときおり両腕を広げている。
恋白は少し眺めた。
危ないことをしている。
そうは思ったが、別に関わる理由もない。
子どもの親でもなければ、知り合いでもない。
恋白はそのまま通り過ぎようとした。
ぱきり。
背後で、嫌な音がした。
振り返る。
子どもの右足が、割れた屋根板を踏み抜いていた。
「あっ――」
小さな体が傾く。
屋根の縁に手をつこうとした指も空を掻いた。
考えるより先に、恋白の体が動いていた。
地面を蹴る。
落ちてきた子どもの腕を掴み、そのまま自分の方へ引き寄せる。
完全に勢いを殺すことはできなかった。
二人は地面へ転がり、恋白の袖と裾に土がついた。
それでも、子どもの頭が地面へ叩きつけられることだけは避けられた。
恋白はすぐに身を起こした。
「大丈夫ですか?」
子どもは呆然とした顔で恋白を見ている。
額や頭に目立った傷はない。
ただ、落ちた時に擦ったのか、片膝から少し血が滲んでいた。腕にも軽く擦った跡がある。
大怪我ではない。
恋白は小さく息を吐いた。
「立てますか?」
手を差し伸べようとした、その時だった。
「おい!」
荒い声が飛んできた。
道の向こうから、一人の男が駆けてくる。
男はまず地面に座り込んだ子どもを見た。
血の滲んだ膝。
汚れた衣。
それから、すぐ傍らにいる恋白へ目を移す。
白い髪。
透けるように白い肌。
玄嶺の里では珍しくもない姿だったが、男の目が明らかに強張った。
「あんた……もしかして、雪女か?」
恋白は首を傾げた。
「はい。そうですが」
隠すようなことでもない。
だが、その答えを聞いた途端、男は一歩後ろへ下がった。
「やっぱり……」
何が「やっぱり」なのか、恋白には分からなかった。
「その子に何をした」
「何もしていません」
恋白は屋根を指した。
「その子があそこから落ちそうになったので、助けようとしただけです」
「助けた?」
男の声には、最初から信じる気がないようだった。
その時、別の通行人が足を止めた。
「どうしたんだ?」
最初の男は、恋白から目を離さないまま答えた。
「雪女だ。この雪女が子どもを襲ってたんだ」
恋白は瞬きをした。
「違います」
もう一度言う。
「私はその子を助けようとしただけです」
「だったら、なんで怪我してるんだ」
「落ちたからです」
「雪女に襲われて逃げようとしたんじゃないのか?」
「違います」
話が噛み合わない。
恋白は少し不思議に思った。
見ていなかったのなら、分からないはずだ。
なのに男は、恋白が子どもを襲ったと決めている。
その気になれば、ここから立ち去ることは難しくない。
けれど恋白は動かなかった。
誤解しているだけなら、きちんと説明すれば分かってもらえる。
その時の恋白は、まだそう思っていた。
さらに二人、三人と人が集まり始めた。
「雪女だって?」
「最近、宮中でも妖怪が人を襲ったらしいぞ」
「子どもまで狙うのか」
「待てよ。本人の話も聞いた方がいいんじゃないか?」
後から来た一人がそう言った。
だが、最初の男はすぐに声を張り上げた。
「子どもが怪我してるんだぞ! こんなところに雪女がいて、他に何がある!」
慎重な声は、それきり周囲のざわめきに呑まれた。
ひそひそと交わされる言葉が耳に入る。
どうやら、恋白が知らない何かが幽京では起きているらしい。
だが、それと自分がこの子どもを助けたことに、何の関係があるのだろう。
「この方は嘘を言っています」
恋白が最初の男を指す。
男の眉が跳ね上がった。
「なんだと?」
「あなたは、私がこの子を襲ったところを見ていません。それなのに、見たように話しています」
事実を述べただけだった。
けれど、その言葉は男をさらに苛立たせたらしい。
「だったら本人に聞けばいい!」
男が子どもの前へしゃがみ込む。
子どもは、いつの間にか青ざめた顔で周囲を見回していた。
その目が一度、崩れかけたあばら家の屋根へ向く。
勝手に屋根へ上って遊んでいたことが知られれば、大人に叱られる。
そのことを思い出したのか、子どもの顔がさらに強張った。
「なあ。こいつにやられたんだよな?」
強い声だった。
問いかけというより、答えを決めているような言い方だった。
子どもの目が男から恋白へ移る。
その周りでは、大人たちがじっと返事を待っている。
怒られるのが怖い。
目の前の大人は、都合のいい答えをすでに差し出している。
子どもの唇が震えた。
恋白は黙って待った。
助けたのは自分だ。
なら、この子がそう言えば終わる。
そう思っていた。
「……うん」
小さな声だった。
恋白は、すぐには意味を理解できなかった。
「ほら見ろ!」
男が勝ち誇ったように立ち上がる。
「やっぱりこいつがやったんだ!」
周囲がざわめいた。
その中で、誰かが声を上げる。
「妖怪絡みなら、陰陽寮へ知らせた方がいい。誰か呼んでこい!」
一人の若い男が頷き、人垣を抜けて走っていった。
恋白はその背中を見たが、特に気には留めなかった。
それよりも、目の前の子どもの方が理解できなかった。
子どもは恋白と目を合わせなかった。
俯いたまま、小さく震えている。
恋白の胸の奥に、今まで感じたことのないものが生まれた。
怒りとは少し違う。
悲しみとも違う。
ただ、ひどく冷たいものだった。
玄嶺の里では、人間を警戒する者も少なくない。
恋白自身は、それを深く考えたことがなかった。
人間であろうと妖怪であろうと、興味がなければ同じだった。
景真だけは別だった。
景真は優しく、面白く、見ているだけで胸が温かくなる。
だから、人間というものに悪い印象はなかった。
けれど。
目の前の者たちは、何も見ていない。
何も聞こうとしない。
中には話を聞こうとする者もいた。
それでも、その声は大きな決めつけに押し流された。
自分たちで答えを作り、その答えに子どもまで従わせた。
そして、助けたはずの子どもまで、自分に襲われたと言った。
恋白は周囲の人間たちを静かに見回した。
先ほどまで景真へ会えることだけを考えて歩いていた町とは、まるで違う場所にいるような気がした。
人間とは。
こんなにも、自分の見たいものだけを見る生き物なのだろうか。
こんなにも簡単に、知らない相手を悪と決められるのだろうか。
恋白の瞳から、いつものぼんやりとした柔らかさが消えていく。
胸の奥で、冷たい考えが形になった。
――人間とは、こんなに醜悪なものなのでしょうか。




