第十五話「消されたもの、残されたもの」①
長田久光の死から、数日が過ぎた。
その後の調査状況を聞くため、景真と紅緒は再び宮中を訪れていた。
宮中の騒ぎは、表向きにはひとまず収まっている。
鎌鼬は陰陽寮の管理下に置かれ、左少弁の籠池も、たんこぶ以外に大きな怪我はなかった。久光が怪異に関わっていたことも、朝廷の中ではすでに知られ始めている。
それでも、一度広がった噂まで消えてくれるわけではなかった。
紅緒は尚陽の隣を歩きながら、渡殿の向こうで話す官人たちの声に耳を澄ませていた。
「宮中へ妖怪が入り込んだそうだ」
「左少弁さままで襲われたとか」
「だが、妖怪を操っていたのは朝廷の役人だったんだろう?」
「その役人も、捕まった翌日に死んだらしいぞ」
声を潜めてはいるが、話の内容までは隠れていない。
紅緒たちが近づくと、官人たちは気まずそうに口を閉ざした。
そのうち一人の視線が、ほんの一瞬だけ紅緒の髪から目元へ滑る。
半妖だと知っている目だった。
紅緒が視線を返すより先に、その官人は何事もなかったように顔を逸らした。
通り過ぎて少しすると、背後でまた小さな話し声が始まる。
紅緒は何も言わなかった。
見慣れた視線だった。
露骨に嫌悪されるわけではない。
けれど、昨日までと同じでもない。
その程度の違いが、かえって分かりやすいこともある。
「……やっぱり広まってるんですね」
景真が小声で言った。
「ああ」
尚陽が苦い顔をする。
「宮中の中だけで済む話でもないからな。出入りの商人もいるし、下働きの者だっている。口を全部塞ぐなんて無理だ」
「でも、本当のことはどこまで伝わってるんですか?」
「そこが厄介なんだ」
尚陽は歩きながら、頭を掻いた。
「長田殿が怪異に関わっていたことは、朝廷内では調べが進んでる。だが、誰がどこまで関わったかはまだ分からんし、外へ向けて何でもかんでも話せるわけじゃない」
「背後にいた人たちのこともありますものね」
紅緒が言うと、尚陽は頷いた。
「そういうことだ。下手に詳しく出せば、そいつらにこちらの手の内まで教えることになる」
その理屈は紅緒にも分かる。
けれど、明らかにできない部分があるほど、その隙間には人それぞれの憶測が入り込む。
「町では、どんなふうに広まってるんですか?」
「大きくは二つだな。『妖怪が宮中で暴れて左少弁を襲った』って話と、『朝廷の役人がその妖怪を操っていた』って話だ」
「どちらも広まっているんですね」
紅緒が尋ねると、尚陽は渋い顔で頷いた。
「ああ。厄介なのは、どっちも間違いじゃないってことだ」
景真が尚陽を見る。
「妖怪が暴れた方を聞いた人は?」
「『やっぱり妖怪は油断ならん』だ。逆に、役人が操ってた方を聞いた奴は、『朝廷の中で何が起きてるんだ』になる」
尚陽は溜息をついた。
「おまけに長田殿が捕まった翌日に死んだ話まで漏れてる。そこから先は、もう好き放題だ。口封じされたんじゃないか、朝廷の中にまだ仲間がいるんじゃないか、妖怪の祟りじゃないか――とな」
「否定できないんですか?」
「全部まとめて『違う』と言えりゃ楽なんだがな。事実まで隠したように見えたら、今度は本当に朝廷そのものが信用されなくなる」
紅緒は黙って渡殿の先へ目を向けた。
妖怪への疑い。
朝廷への疑い。
久光が残したものは、一つではなかった。
「長田さまが狙っていたものは、全部なくなったわけじゃないのね」
紅緒が呟く。
景真がこちらを見る。
「どういうこと?」
「籠池さまを殺すことも、妖怪だけの仕業にすることも失敗した。でも、妖怪への不安は残った。それに、今度は朝廷そのものまで疑われ始めている」
自分で口にして、胸の奥が重くなる。
久光が死んだからといって、人々の中に芽生えた疑念まで一緒に消えるわけではない。
「……嫌な置き土産だな」
景真が眉を寄せた。
「本当にね」
*
宮中を出ると、空気は少しだけ軽くなった。
もっとも、紅緒の気分まで晴れたわけではない。
大路を行き交う人々の中には、妖怪の姿も混じっている。
角の生えた男が荷車を引き、獣耳の女が店先で野菜を選び、小さな一つ目の妖怪が主人らしい老人の後ろをついて歩いている。
いつもなら、それだけの光景だった。
だが今日は、人々の視線の向きが少し気になった。
妖怪が通るたびに、ちらりと見る。
すぐ目を逸らす者もいる。
何も変わっていないようで、ほんの少しだけ違う。
先ほど宮中で自分へ向けられた視線と、どこか似ていた。
「紅緒」
景真に呼ばれ、紅緒は顔を上げた。
「何?」
「さっきから難しい顔してる」
「考え事をしていただけよ」
「あの噂のこと?」
紅緒は少し迷ってから頷いた。
「……ええ」
景真は前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、人の流れを避けながらぽつりと言う。
「結局、目の前の相手を見るしかないんじゃないか」
紅緒は景真を見る。
「簡単に言うのね」
「簡単じゃないのは分かってる。でも、最初から決めつけるよりはいいだろ」
あまりにも素朴な言い方だった。
幽世で生まれ育っていないからこそ言えるのかもしれない。
あるいは、ただ単純なだけなのかもしれない。
けれど今は、その単純さが少しだけありがたかった。
「……そうね」
紅緒が答えると、景真は少し意外そうな顔をした。
「素直だ」
「何よ、その言い方」
「いや、別に」
景真が笑う。
紅緒が睨み返そうとした、その時だった。
前方から、陰陽寮の装束を着た若い男がこちらへ駆けてくる。
「大月さま! 東春さま!」
男は二人の前まで来ると、息を整える間もなく頭を下げた。
「小神博士から、急ぎの伝言です」
紅緒の表情が引き締まる。
「何があったの?」
「幽京の町外れで、人間と妖怪の間にいざこざがあったそうです。近くにいた者たちが妖怪を取り囲み、今にも騒ぎが大きくなりそうだと」
「怪我人は?」
「子どもが一人。軽い怪我だと聞いています」
子ども。
その一言に、紅緒の胸がざわついた。
「妖怪の方は?」
使いの男が一瞬だけ言葉を選ぶ。
「詳しいことはまだ。ただ――白い髪の女で、雪女らしいと」
紅緒と景真は、ほとんど同時に顔を見合わせた。
「……雪女?」
景真が呟く。
紅緒の脳裏にも、玄嶺で出会った一人の少女の顔が浮かんだ。
まさか。
そう思いながらも、嫌な予感だけが消えない。
「場所を教えて」
紅緒はすぐに言った。
使いの男が頷く。
景真も、もう冗談を言う顔ではなかった。
二人は示された町外れへ向かって駆け出した。




