第十四話「闇の向こう側」④
その夜、久光は宮中の一室に置かれていた。
罪人として牢へ入れられたわけではない。だが、正式な取り調べが決まるまで外へ出ることは許されず、戸の向こうには二人の大舎人が見張りについている。
用意された灯明が、わずかな風に揺れていた。
久光は敷かれた座具の上で、何度目かも分からない溜息を吐いた。
あの場で口にしたことを思い返すたび、胸の内に焦りが広がる。
親札を奪われた。
鎌鼬のことも話した。
それでも、肝心なことは話していない。
あちらの名も、連絡を取る方法も。
まだ取り返せる。
久光はそう自分に言い聞かせた。
自分は朝廷の官人だ。これまで積み上げてきた地位もある。正式な裁きが下るまでには時間がかかる。
その間に、あちらが手を回してくれれば――。
ふいに、灯明の火が揺れた。
久光が顔を上げる。
戸は閉じたままだった。
戸の向こうからは、見張りの低い話し声が聞こえていた。
その話し声が、ふつりと途切れた。
「おい。どうした」
返事はない。
やがて戸が音もなく開き、かすかに甘い残り香が流れ込んだ。
暗い廊下から、一つの人影が滑り込む。
戸は、また静かに閉じられた。
灯明から離れた暗がりに、その人影は立っていた。
「……誰だ」
返事はない。
灯明の光はそこまで届かず、影の輪郭さえ曖昧だった。背丈も、顔も分からない。
「見張りに何をした」
久光の声が強張る。
人影は動かなかった。
その時、雲の切れ間から月が覗いた。
障子を透かした白い月明かりが、部屋の一角へ差し込む。
闇の中から、顔だけが浮かび上がった。
黒い狐面。
艶を抑えた漆黒の面に、血を思わせる赤い紋様が細く走っている。吊り上がった目の穴の奥は暗く、そこにいる者の素顔は少しも見えない。
久光の顔から、さっと血の気が引いた。
「その狐面は、まさか……!」
久光が後ずさる。
「私を殺すつもりか……!」
狐面の者は、答えるように僅かに顔を傾けた。
聞こえてきた声は低くも高くもない。男とも女とも判別できなかった。
「無能は、我々には必要ない」
*
翌朝。
景真と紅緒は、尚陽から届いた急な呼び出しを受け、再び宮中へ向かった。
案内されたのは、昨夜久光が置かれていた部屋だった。
廊下にはいつも以上に張り詰めた空気が漂っている。尚陽は戸の前に立ち、普段の気安い表情を完全に消していた。
「尚陽さん。何があったんですか?」
景真が尋ねる。
尚陽は一度だけ目を伏せた。
「長田殿が死んだ」
景真は言葉を失った。
紅緒も目を見開く。
「……昨夜、ですか?」
「ああ」
尚陽が戸を開ける。
室内には数人の官人がいた。
その中に、小夜の姿もある。
久光は奥に敷かれた寝具の上に横たえられていた。顔は青白く、すでに息はない。
目につくような傷はなかった。
血の跡もない。
景真は無意識に部屋を見回した。
「見張りは?」
「二人とも、夜半に妙に甘い香りを嗅いだあと、急な眠気に襲われたそうだ」
尚陽が答える。
「二人とも、ですか?」
「ああ。どれくらい眠っていたのか、二人とも分からないそうだ。目を覚ました時には戸は閉じたままで、出入りした者も見ていない」
「眠り香……」
「その可能性が高いわね」
景真の眉が寄る。
久光は外へ出られなかった。
だが、見張りが眠っていた間のことは誰にも分からない。
誰かがその隙に出入りしたとしても、不思議ではなかった。
「……殺されたのでしょうか」
紅緒が久光の方を見ながら呟いた。
「まだ決めるな」
部屋の奥から低い声がした。
宗心だった。
「見張りが眠らされたことと、長田が殺されたことは別だ。死因が分かるまで、推測を事実にするな」
「……はい」
紅緒が頷く。
宗心は尚陽へ視線を向けた。
「昨夜の見張りから、もう一度話を聞け。交代した時刻も、香りのことも含めて一刻ごとに洗え」
「承知しました」
尚陽が頭を下げる。
景真は、久光のそばに膝をついている小夜へ目を向けた。
小夜は何かを探すように、久光の周囲へ静かに視線を巡らせている。
「小夜さん」
呼ばれて、小夜が顔を上げた。
「どうしてここに?」
ほんの僅かな間があった。
「少し、気になることがありまして」
「気になること?」
景真が聞き返す。
小夜は久光の亡骸へ一度視線を戻した。
「昨夜、札の解析を続けているうちに、背後にいる者が長田さまをそのままにしておかない可能性に気づきました。夜半になってからのことです。念のため、すぐ宮中へ向かいました」
「じゃあ、こうなるかもしれないって思ってたんですか?」
「可能性としては。ですが、私がここへ着いた時には、もう……」
小夜の声は静かだった。
「ただ……間に合いませんでした」
その言葉に、景真は何となく引っかかった。
何に間に合わなかったのか。
久光を守ることなのか。
それとも――別の何かなのか。
「何か分かったことはありますか?」
「今のところ、強い術の痕跡は見つかっていません」
小夜はそう答えると、立ち上がった。
「死因については、きちんと検める必要があります」
それ以上は何も言わなかった。
*
部屋を出たあと、景真と紅緒は尚陽と廊下を歩いた。
朝の宮中には人の気配が戻り始めている。
けれど三人の間には、重い沈黙が落ちていた。
「……結局、聞けなかったな」
尚陽がぽつりと言った。
「相手のことですか?」
「ああ。長田殿が誰とつながってたのか。どうやって会ってたのか。何も分からんままだ」
尚陽は悔しそうに眉を寄せる。
自分の上司を疑い、証拠を見つけ、最後には監視を任された。
それでも守れなかった。
「尚陽さんのせいじゃないですよ」
「そういう話じゃない」
尚陽は短く答えた。
そして少しだけ間を置く。
「俺が見張りを任された。だったら、何が起きたか突き止めるのも俺の仕事だ」
景真はそれ以上慰めるのをやめた。
代わりに、久光が最後まで口を閉ざした時の顔を思い出す。
「もし……殺されたんだとしたら」
紅緒が景真を見る。
「長田さんに喋られたら困る相手がいるってことだよな」
「そうなるわね」
紅緒の表情が険しくなる。
「それも、見張りを眠らせて入り込めるような相手」
「札を作った陰陽師と同じ人かもしれないし、違う人かもしれない」
「……ええ」
分からない。
分からないことばかりだった。
けれど、昨日までより一つだけ確かなことがある。
久光の向こう側には、何者かがいる。
一人なのか、それ以上なのか。
その姿は、まだ見えない。
景真はふと、先ほどの小夜の言葉を思い出した。
――間に合いませんでした。
小夜は、どこまで知っているのだろう。
景真は隣を歩く紅緒を見た。
だが、その疑問を口にはしなかった。
*
光のほとんど届かない、どこかの一室。
黒い狐面の者が、闇の中に立っていた。
その正面にも、もう一つ人影がある。
顔は見えない。
「長田久光は?」
「処理しました」
淡々とした返答。
「何か話したか」
「我々へ直接つながるものは、何も」
僅かな沈黙。
「ただ、親札を一枚失いました」
向かいの人影が、小さく息を吐いた。
「……余計なことをしたものだ」
狐面の者は答えない。
「理念を理解せず、与えられた力を己の欲に利用した。その結果がこれだ」
静かな声には、怒りすらなかった。
ただ、不要になったものについて話しているだけのようだった。
狐面の者が身を翻す。
闇の奥へ消えようとした、その背中へ。
「――夜は必ず明ける」
狐面の者の足が止まった。
振り返らないまま、短く答える。
「その暁まで」
そして、黒い狐面は闇の中へ消えた。




