第十四話「闇の向こう側」③
久光の執務室から見つかった御札は、その場で紙に包まれ、誰の手にも触れさせないまま保管された。
ほどなくして、大舎人寮の一室に宗心と小夜が呼ばれた。
室内には景真、紅緒、尚陽。そして、険しい顔で座る久光がいる。扉の外には大舎人が二人控えていた。
机の上には二枚の札。
一枚は、鎌鼬の体から剥がされた子札。
もう一枚は、久光の文箱から見つかった親札と思われる御札だった。
「小神」
「はい」
宗心に促され、小夜が二枚の前へ座る。
まずは親札らしき方を眺め、それから子札へ指を移した。
「紅緒さん。少し霊気を流してもらえますか」
「はい」
紅緒が親札へ指を添え、ごく微かに霊気を流す。
次の瞬間、二枚の札に書かれた墨の一部が淡く光った。
親札の線を追うように光が走り、それに呼応して子札の文字が脈打つ。
ほんの数息で光は消えた。
だが、見間違えようはなかった。
「……間違いありません」
小夜が静かに告げる。
「この二枚は、一組の術式として作られています」
尚陽の顔が強張った。
景真は久光を見る。
久光は黙ったまま、机の上の札を睨んでいた。
「長田」
宗心の低い声が響く。
「説明しろ」
「……何を説明しろというのだ」
「この札が、なぜお前の部屋にあった」
「知らぬ」
久光は顔を上げた。
「誰かが私を陥れるために置いたのだろう。部屋に札が一枚あった。それだけで私が犯人になるとでも?」
宗心の表情は動かない。
「ならば、それも含めて調べる」
尚陽が一歩前へ出た。
「長田殿。失礼いたします」
手にしていた書付を机へ置く。
「鎌鼬が隠されていた倉の警備変更です。長田殿の承認があります」
「職務上の命令だ」
「倉の鍵も、同じ頃から大舎人頭預かりになっています」
「だから何だ。大舎人頭が大舎人寮の倉を管理して、何がおかしい」
久光の声には、まだ力があった。
尚陽はもう一枚の書付を出す。
「怪異が起きた日の人員配置も確認しました。鎌鼬が動いた時間帯、その倉から籠池殿が通る渡殿まで、巡回の間が空くよう変更されています」
「偶然だ」
「そうかもしれません」
尚陽は即座に否定しなかった。
「ですが、親札まで長田殿の部屋から出てきた。私は、これを全部偶然として片づけることはできません」
久光が尚陽を睨む。
「蓮宮。誰に向かって物を言っている」
尚陽は視線を逸らさなかった。
「私の上司です」
一拍置く。
「だからこそ、曖昧にはできません」
久光の頬が僅かに引きつった。
*
宗心は、しばらく久光を見つめていた。
それから景真へ視線を移す。
「東春」
「はい」
「お前が前に話した見立てを、もう一度言え」
景真は久光を見た。
本人を前にして口にするとなると、さすがに少し緊張する。
それでも、ここまで見つかったものを考えれば黙っている理由はなかった。
「……籠池さまを殺したかっただけじゃないですよね」
久光の眉が僅かに動く。
「何?」
「妖怪に殺させたかったんじゃないですか」
部屋が静まり返った。
景真は続ける。
「最初から籠池さまだけを狙えば、柱や御簾を切らせる必要はなかった。でも、その前に何度も怪異を起こした」
「何が言いたい」
「『宮中に妖怪が入り込んで暴れてる』って、みんなに思わせたかったんじゃないですか」
久光は答えない。
「物が切られる。次に人が怪我をする。そして最後に左少弁が殺される」
景真の頭に、昨日の光景が蘇る。
籠池の首があった場所を駆け抜けた、見えない風の刃。
「それで鎌鼬まで討ち取られてたら、話はそこで終わる」
「『妖怪が宮中に入り込んで、朝廷の偉い人を殺した』。それだけが残る」
久光の目が細くなる。
「妖怪を追い出せっていう人も、もっと増えてたかもしれない」
景真は一度言葉を切った。
「それに、籠池さまがいなくなれば、人事も動く」
久光の表情が初めて明確に歪んだ。
それを見た尚陽が、静かに口を開く。
「長田殿。籠池殿と折り合いが良くなかったことは、私も知っています」
久光が尚陽へ鋭い目を向ける。
「妖怪への対応だけではない。朝廷の人事や権限についても、何度か意見がぶつかっていましたね」
「それが何だ」
「籠池殿がいなくなれば、少なくとも今より長田殿にとって動きやすくなる」
久光の手が、膝の上で強く握られた。
「……黙れ」
その一言で、景真には十分だった。
久光は、もう「何も知らない人間」の顔をしていなかった。
*
「貴様らに何が分かる!」
「何が悪い!」
突然、久光が声を荒らげた。
張り詰めていたものが切れたようだった。
「妖怪は人の世に入り込むべきではない!」
紅緒の目が僅かに細くなる。
「奴らは人とは違う。人ならざる力を持ち、気まぐれ一つで人を傷つける! そのようなものを町へ入れ、官にまで置く今の有り様が間違っているのだ!」
久光の視線が紅緒へ向く。
「半妖などを退魔方に据える陰陽寮も同じだ!」
景真が一歩出かける。
だが、紅緒が小さく手を出して制した。
その顔は静かだった。
「それで、籠池さまを殺そうとしたのですか」
「あの男のような者がいるから、朝廷は決断できんのだ!」
「妖怪を一括りにして悪と決めるべきではない、と言ったから?」
「甘いのだ!」
久光が机を叩いた。
「奴らを排するには、朝廷そのものが目を覚まさねばならん。そのためには、相応の犠牲も――」
「大義と免罪符は違う。お前が何を正しいと信じていようと、人を殺そうとした事実は消えん。事実に基づいて裁く。それが規則だ」
低い声が、久光の言葉を断ち切った。
宗心だった。
久光が口を閉ざす。
宗心は冷たい目で見据えたまま続けた。
「それに、お前の話には一つ足りん」
机の上の親札を指す。
「これを作ったのは誰だ」
久光の顔から、怒りが消えた。
代わりに、警戒するような硬さが戻る。
「……何のことだ」
「お前は陰陽師ではない」
宗心は言い切った。
「この術式を自分で組めるとは思えん」
小夜が親札へ目を落とす。
「陰陽頭のおっしゃる通りです」
「親札の使い方だけ教われば、陰陽術を修めていない者でも扱うことはできます。ですが、この札そのものを作るのは別です」
小夜の指が、墨で描かれた線の上をなぞる。
「術式の構成も、親札と子札を結びつける処理も、素人にできるものではありません」
「誰かから受け取ったんですね?」
紅緒が問う。
久光は答えなかった。
「長田」
宗心の声がさらに低くなる。
「誰から受け取った」
沈黙。
やがて久光が、絞り出すように言った。
「……受け取った」
尚陽が息を呑む。
「誰からですか」
「知らん」
「知らない?」
「名は聞いていない」
宗心の眉間の皺が深くなる。
「顔は」
「まともには見ていない」
「では、どうやって接触した」
久光はそこで口を閉ざした。
先ほどまでの激情が嘘のように、頑なな沈黙だった。
「鎌鼬も、その者からか」
宗心が問う。
僅かな間。
「……同じ筋から用意された」
景真は紅緒を見る。
紅緒もこちらを見た。
それだけで、互いに同じことを考えていると分かった。
久光一人ではなかった。
鎌鼬を用意できる者。
高度な陰陽術を組んだ札を作れる者。
そして、それを久光へ渡した何者か。
どこまでが同じ人物なのかさえ、まだ分からない。
「相手について知っていることを、すべて話せ」
宗心が命じる。
「……それ以上は言えん」
久光が俯いた。
「何故だ」
返事はない。
親札の確認と久光の証言は、控えていた官人を通じて朝廷側にも報告された。
ほどなく、正式な取り調べまで久光の身柄を監視下に置く許しが下りた。
宗心はしばらく久光を見つめていたが、やがて尚陽へ視線を向けた。
「蓮宮」
「はい」
「長田の身柄を預ける。正式な取り調べが決まるまで、厳重に監視しろ。外へは出すな」
「承知しました」
尚陽が深く頭を下げる。
それから久光を見る。
「長田殿。こちらへ」
久光は立ち上がろうとしなかった。
尚陽も急かさず、ただ待つ。
やがて久光は重い腰を上げた。
扉の外へ連れられていく背中を、景真は黙って見送った。
宮中を騒がせた怪異の犯人には、ようやく辿り着いた。
けれど、事件が小さくなった気はしなかった。
むしろ逆だった。
久光の後ろに、今まで見えていなかった何かがいる。
その輪郭だけが、闇の中からゆっくり浮かび上がり始めていた。




