第十四話「闇の向こう側」②
宮中へ戻った三人は、人通りの少ない北寄りの一角へ向かった。
前に怪異の現場を回った時とは違い、今日は尚陽もほとんど雑談をしなかった。手にした書付を時折確かめながら、入り組んだ渡殿を進んでいく。
「この先です」
景真が思わず尚陽を見る。
「急に丁寧になりましたね」
「ん? ……ああ、近くに人がいるからな。宮中で仕事してる以上、ずっと好き勝手に喋ってるわけにもいかん」
「ちゃんと使い分けてるんですね」
「お前、俺を何だと思ってる」
少しだけいつもの調子が戻った。
だが、目的の倉が見えてくると、尚陽の顔から再び笑みが消えた。
それは宮中の端にひっそりと建つ、小さな板倉だった。扉は閉ざされ、周囲に人影はない。普段から使われていないという話の通り、軒下には薄く埃が積もっている。
「ここが、警備の配置を変えていた倉ですか?」
「ああ。怪異が始まる少し前から、ここを担当してた大舎人が別の持ち場へ回されてる」
「理由は?」
「記録には『倉内の整理に伴う立入制限』とある」
尚陽は眉を寄せた。
「だが、倉を整理した記録は残ってない」
「警備だけ外したってことですか?」
「結果だけ見ればな」
尚陽が鍵を開ける。
軋んだ音を立てて扉が開いた。
中は薄暗く、古い木と埃の匂いが鼻をつく。壊れた調度や使われなくなった箱が壁際に寄せられているだけで、一見したところ怪しいものは何もない。
「紅緒、どうだ?」
紅緒は返事をせず、静かに目を閉じた。
しばらくして、倉の奥へ顔を向ける。
「……残ってる」
「妖気が?」
「ええ。かなり薄いけど」
紅緒は足音を忍ばせ、奥へ進んだ。
積まれた木箱の陰へ回り込み、しゃがみ込む。
「これ」
景真と尚陽も近づいた。
床板に、細い引っかき傷が何本も残っている。人間の爪ではない。さらに柱の根元には、灰褐色の短い毛が数本絡みついていた。
「鎌鼬の毛か?」
「見たところは似てるわ」
紅緒は直接触れないよう紙へ毛を移し、妖気を確かめる。
「……鎌鼬の妖気ね。宮中で捕らえたあの子と同質だと思う」
尚陽が低く息を吐いた。
「本当にここにいたのか」
さらに調べると、木箱の裏から細い縄の切れ端が見つかった。床には、小さな器を置いていたような丸い跡もある。
景真は柱の傷を眺めた。
「ここでしばらく飼ってた……いや、閉じ込めてたってことですかね」
「可能性は高いわね」
紅緒が倉の中を見回す。
「ただ、何体いたかまでは分からないわ」
「三体全部いた可能性も?」
「ある。でも、一体だけだった可能性もある。残っているものだけでは決められないわ」
景真は頷いた。
分からないことを無理に決めつけるな。朝、宗心に言われた言葉が頭をよぎった。
今確かなのは一つ。
宮中を襲った鎌鼬は、偶然入り込んだのではない。
何者かがこの倉へ隠していた。
*
倉を出た三人は、大舎人寮へ戻って記録を洗い直した。
尚陽が机の上へ何冊もの帳面を積み上げる。
「倉の鍵、警備の変更、当日の人員配置。まずはこの三つだな」
「俺も見ていいんですか?」
「字が読めるならな」
「そこからですか」
景真は苦笑しながら帳面を覗き込んだ。
幽世の文字にもかなり慣れてきたとはいえ、官人が書く細かな記録はまだ読みづらい。紅緒にところどころ助けてもらいながら、日付と名前を追っていく。
やがて尚陽の手が止まった。
「……これか」
声の調子が変わった。
「何かありました?」
尚陽はすぐには答えなかった。
帳面の一箇所をもう一度読み、それから隣の記録も確かめる。
「倉周辺の警備を変えた命令は、大舎人頭の名で出てる」
景真はその役職を聞いた瞬間、誰のことか思い出した。
「……長田さん?」
「長田久光殿だ」
尚陽の声は静かだった。
紅緒も表情を引き締める。
「久光さまご本人の命令だと分かるんですか?」
「少なくとも、この書付には長田殿の承認がある」
尚陽は別の帳面を開いた。
「倉の鍵も、同じ頃に大舎人頭の預かりになってる。返されたのは、籠池殿が襲われた日の朝だ」
「それって……」
「待て」
景真が続きを言う前に、尚陽が制した。
「これだけで長田殿が犯人だと決まったわけじゃない」
「はい」
「大舎人頭なら、警備を変える権限もある。鍵を管理することだって不自然じゃない。部下に命じただけかもしれん」
それは自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。
尚陽にとって、久光は上司である。
普段どれほど考え方が合わなくても、今まで同じ役所で働いてきた相手だ。
「尚陽さん」
「ん?」
「大丈夫ですか?」
尚陽は一瞬きょとんとしたあと、鼻から息を吐いた。
「大丈夫も何もない。疑いたくないだけだ」
そして、帳面を閉じる。
「だからこそ、きっちり確かめる」
迷いのない声だった。
「長田殿じゃないなら、それを証明すりゃいい。長田殿なら――俺が上司だからって目をつぶるわけにはいかん」
景真は小さく頷いた。
一見すると適当で、言葉もざっくりしている。
だが、こういう時だけは不思議なくらい真っ直ぐだった。
*
尚陽は集めた記録をそのまま陰陽寮へ送った。
報告を受けた宗心は朝廷側へ掛け合い、久光の執務室を調べる正式な許しを取り付けた。
もちろん、久光が素直に受け入れるはずもない。
「私の部屋を調べるだと?」
大舎人寮の執務室で、久光の声が低く響いた。
景真と紅緒は尚陽の少し後ろに立っている。
「はい。倉の使用と警備変更について、確認したいことがあります」
尚陽はきちんと頭を下げた。口調にも普段の気安さはない。
「蓮宮。お前は私が今回の件に関わったと言いたいのか」
「そう申し上げているわけではありません」
「ならば何故だ」
「疑いを残したままにしないためです。長田殿に関係がないのであれば、それを確かめるためにも調べさせてください」
久光は尚陽を睨んだ。
やがて、鼻を鳴らす。
「……勝手にしろ」
久光がそれ以上拒まなかったため、三人は室内を調べ始めた。
几帳面な部屋だった。
文書は種類ごとにまとめられ、筆や硯も定位置に置かれている。棚の中も整然としており、怪しいものなど最初から存在しないと言わんばかりだった。
紅緒は術の気配を探り、尚陽は書付や箱の中身を確認する。
景真も邪魔にならない範囲で部屋を見回した。
何もない。
しばらくすると、そんな空気が漂い始める。
「……外れですかね」
景真が小声で言う。
「まだ全部見てないわ」
紅緒が答える。
久光は机の向こうで腕を組み、苛立たしげに三人を見ていた。
「気が済んだなら、そろそろ仕事に戻らせてもらいたいものだ」
「もう少しだけお願いします」
尚陽が棚の下段へ手を伸ばす。
その時だった。
景真は、久光の視線が一瞬だけ動いたのを見た。
尚陽ではない。
棚の端に置かれた、一つの文箱へ。
ほんの一瞬だった。
すぐに久光は視線を戻す。
それだけなら、たまたまだったのかもしれない。
だが景真は、もう一度わざと文箱の方へ目を向けた。
久光の指が、袖の下で僅かに動いた。
「……尚陽さん」
「どうした?」
「あの箱も、見てもらっていいですか?」
景真が指した先を見て、久光の顔が強張った。
一瞬。
今度は、見間違いではなかった。
「長田殿」
尚陽が久光を見る。
「確認させていただきます」
「……好きにしろ」
尚陽が文箱を取り出し、蓋を開ける。
中には数枚の書付と、小さな包みが入っていた。
紅緒が包みを見た途端、眉を寄せる。
「待って」
尚陽が手を止めた。
紅緒が慎重に包みを開く。
白い紙が現れる。
複雑な墨文字。
見覚えのある、独特な術式の組み方。
景真の胸がざわついた。
「これ……」
紅緒は御札を見つめたまま、静かに言った。
「小夜さまが話していた親札かもしれない」
室内の空気が凍りついた。
景真は久光を見る。
久光の顔からは、先ほどまでの苛立ちが消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、隠しきれない強張りだった。




