第十三話「宮中の闇」③
机の上に広げられた報告書を前に、景真はしばらく黙り込んでいた。
鎌鼬は操られていた。
それなら、これまでの怪異も偶然に起きたものではない。誰かが、何かの目的で起こしていた。
問題は、その目的だった。
「尚陽さん。一件目と二件目って、誰かを狙った感じはなかったんですよね?」
「ああ。柱と文箱、それから御簾だ。壊れたものはあるが、怪我人はいない」
「三件目だけ、人が怪我した」
「そうだな。しかも軽傷だ」
尚陽は報告書の一枚を指で叩いた。
「腕を切られた官人も、深手じゃない。仕事に戻ろうとして周りに止められたくらいだ」
景真は眉を寄せた。
最初は物。次に人。
そして今日、左少弁である籠池が狙われた。
一見すれば、宮中へ入り込んだ妖怪が少しずつ凶暴になっていったように見える。
だが、実際にはその妖怪を操っている者がいた。
「……おかしい」
「何が?」
紅緒が景真を見る。
「籠池さまを殺したいだけなら、最初の三件って必要ないよな」
尚陽の表情が変わった。
「どういうことだ?」
「だって、鎌鼬に籠池さまを襲わせられるなら、最初からそうすればいいじゃないですか。柱とか御簾とか、わざわざ切らせる意味がない」
紅緒が机の上へ視線を落とした。
「……確かにそうね」
「でも、そっちは無駄じゃなかった」
「無駄じゃない?」
「宮中に妖怪が入り込んで、あちこちで暴れてる。そう思わせるには必要だったんじゃないか?」
部屋が静まり返った。
尚陽がゆっくりと腕を組む。
「最初の三件は、今日の襲撃のための前振りってことか」
「たぶんです」
景真は報告書を順に指した。
「物が切られる。次は人が怪我する。それで最後に朝廷の偉い人が殺される。もし今日、籠池さまが亡くなってたら――」
言葉が途切れる。
その先を口にしたのは紅緒だった。
「『宮中で暴れていた妖怪が、ついに左少弁を殺した』……そう見えるわね」
「そういうことだと思う」
景真は頷いた。
単なる暗殺ではない。
暗殺そのものを、一つの物語の結末にしようとしていた。
宮中へ妖怪が忍び込んだ。
日に日に被害を大きくした。
そして最後には朝廷の要人を殺した。
そこまで出来上がっていれば、誰もが同じものを疑う。
妖怪を。
*
尚陽はしばらく何も言わなかった。
やがて、机の端に置かれた報告書を一枚持ち上げる。
「……もし本当に籠池殿が殺されていたら、かなり面倒なことになってたな」
「朝廷が、ですか?」
「朝廷だけじゃない」
尚陽は難しい顔で紙を戻した。
「宮中に妖怪が入り込んで、左少弁を殺した。そんな話が広まれば、妖怪をどうにかしろって声は強くなる。城門の出入りを締めろだの、町にいる妖怪を追い出せだの、言い出す奴は出るだろうな」
景真は無意識に紅緒を見た。
紅緒は何も言わず、机の上を見つめている。
「じゃあ、犯人はそれも狙ってた……?」
「断定はできないわ」
紅緒が静かに答える。
「でも、妖怪の仕業に見せかける必要があったのは確かね。籠池さまを殺すだけなら、別の方法はいくらでもあるもの」
「……だよな」
景真は顎に手を当てた。
ならば、犯人には二つの目的があったのかもしれない。
籠池を消すこと。
そして、その罪を妖怪に着せること。
そこまで考えたところで、もう一つの疑問が浮かんだ。
「尚陽さん」
「ん?」
「籠池さまがいなくなったら、誰か得するんですか?」
尚陽は一瞬だけ目を丸くした。
「ずいぶん嫌な聞き方するな、お前」
「すみません。でも、こういう時はそこを考えた方がいい気がして」
「いや。悪いって意味じゃない。必要な見方だ」
尚陽は頭を掻き、少し考えてから続けた。
「左少弁が空けば、当然、次の補任がある。誰がその座に就くかで、役所の力関係だって変わる」
「じゃあ、籠池さまが亡くなれば出世できる人がいる?」
「一人じゃない」
尚陽は即座に答えた。
「朝廷で上を目指してる奴なんて山ほどいる。直接その座を狙える者もいれば、別の役が空くことで得する者もいる。人事なんて、一人動けば何人も動くからな」
景真は小さく息を吐いた。
「それじゃ、絞れないか……」
「今の話だけじゃ無理だな」
尚陽は肩をすくめた。
「だが、少なくとも一つは言える」
「何ですか?」
「籠池殿の行動を知っていて、宮中に鎌鼬を入れられる奴だ。外の人間より、中の人間を疑う方が自然だろうな」
紅緒の表情がわずかに険しくなる。
「朝廷の中に、犯人がいるかもしれない……」
口にすると、その言葉は想像していたより重かった。
宮中を守る側にいる人間が、妖怪を使って宮中の要人を殺そうとした。
しかも、その罪を妖怪へ押しつけようとした。
ただの怪異より、よほど厄介だった。
*
三人はもう一度、捕らえた鎌鼬のいる部屋へ戻った。
鎌鼬は先ほどより落ち着いていた。紅緒の捕縛札に縛られてはいるものの、牙を剥くことも、暴れることもない。
紅緒がそばへ腰を下ろすと、小さな体がびくりと震えた。
「大丈夫。もう何もしないわ」
声を落として話しかけながら、紅緒は捕縛札の力をさらに緩めた。
鎌鼬は逃げようとはしなかった。
ただ、身を丸めるように伏せている。
「こいつも被害者なんだよな」
「ええ」
紅緒は静かに頷いた。
「人を襲ったことに変わりはない。でも、少なくともさっきの襲撃は、この子自身が望んでしたことではないと思う」
景真は剥がされた御札を見る。
薄い一枚の紙。
それだけで、一体の妖怪の意思を奪い、刃物のように使う。
そして用が済めば、犯人として残すつもりだったのかもしれない。
「……ひどいな」
思わず漏れた。
「妖怪が嫌われるようにするために、妖怪を使うなんて」
紅緒がわずかに目を見開いた。
「いや……もし、さっき考えた通りならさ」
景真は御札から目を離さない。
「犯人は妖怪が人を襲ったってことにしたかったんだろ。だったら、この鎌鼬が最後に討ち取られても困らない。むしろ、こいつが犯人だったって分かる方が都合がいい」
尚陽が息を呑んだ。
「……証拠まで置いていくつもりだったってことか」
「妖怪が犯人だっていう証拠を、です」
紅緒の視線が、鎌鼬から剥がした札へ移る。
「でも、札までは見つかると思っていなかった」
「たぶん」
景真は頷いた。
鎌鼬の毛に隠された札は、外から見ただけでは分からない。
もし襲撃の最中に鎌鼬が討ち取られていれば、その場で細かく体を調べられたかどうかも分からない。
妖怪が現れ、要人を殺し、討たれた。
それだけで話は完成する。
けれど、紅緒は鎌鼬を殺さず捕らえた。
そのために、隠されていたものが表へ出た。
「紅緒が殺さなくてよかったな」
「……そうね」
紅緒は少しだけ表情を和らげた。
尚陽は腕を組んだまま、深く息を吐く。
「妖怪退治だと思ってたら、朝廷の中の人間探しか。面倒な話になったな」
「妖怪退治だけで済む話じゃなさそうですね」
景真が冗談めかして言うと、尚陽は一瞬ぽかんとしたあと、鼻で笑った。
「ああ。まったくだ」
少しだけ空気が緩む。
だが、すぐに尚陽は真顔へ戻った。
「この札と報告は、陰陽寮に持ち帰った方がいい。ここから先は、俺たちだけで抱える話じゃない」
「そうね。小夜さまと陰陽頭へ報告しましょう」
紅緒が御札を紙に包み、慎重に懐へ収める。
宮中で起きた怪異の正体は、ようやく見え始めた。
だが、その向こうにいる人間の姿は、まだ影すら見えなかった。




