第十三話「宮中の闇②」
捕らえた鎌鼬は、尚陽の手配で人目につかない一室へ運ばれた。
宮中に妖怪が入り込んだというだけでも騒ぎになる。まして、左少弁が襲われたとなればなおさらだ。廊下の一件は近くにいた者たちへ口止めがなされ、籠池も念のため別室で休むことになった。
畳の上では、紅緒の札に縛られた鎌鼬が低く唸っている。
景真は少し離れたところから、その小さな体を眺めていた。
「やっぱり、他の二体はいないのか?」
「ええ。少なくとも、この近くにはいないわ」
紅緒は目を閉じ、しばらく周囲の妖気を探っていたが、やがて首を横に振った。
「この子以外の気配は感じない」
「三体で一組なのに、一体だけ宮中に来た……」
「絶対にありえない、とまでは言えないわ。でも、不自然なのは確かね」
尚陽が腕を組んで鎌鼬を覗き込む。
「仲違いでもしたか?」
「妖怪ですから、そういうこともないとは言い切れませんけど……」
紅緒は答えながら、鎌鼬の周囲をゆっくり回った。
その動きが、ふと止まる。
「……待って」
「どうした?」
紅緒が鎌鼬の脇腹へ手を伸ばす。
灰褐色の毛を指先で慎重にかき分けると、その奥に不自然な白が覗いた。
「札……?」
景真も腰を落として目を凝らす。
毛に隠すように、細長い御札が一枚、鎌鼬の体へ貼り付けられていた。表には複雑な墨文字が並び、端の一部は毛に絡んで見えにくくなっている。
「捕縛用の札とは違うのか?」
「違うわ。これは私のものじゃない」
紅緒の声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「剥がして大丈夫か?」
「たぶん。でも、念のため離れていて」
景真と尚陽が数歩下がる。
紅緒は左手で自分の札を構えたまま、右手の指先で鎌鼬に貼られた札の端を摘まんだ。
一気に引き剥がす。
その瞬間、鎌鼬の体がびくりと大きく跳ねた。
「紅緒!」
「大丈夫!」
暴れ出すかと思った。
しかし、鎌鼬は床へ伏せたまま、荒い息を繰り返しただけだった。先ほどまで剥き出しだった牙も、やがて力なく閉じられる。
紅緒が慎重に捕縛の力を少しだけ緩めた。
鎌鼬は飛びかかってこなかった。
むしろ身を縮め、紅緒から逃れるように顔を伏せた。
「……さっきまでと全然違うな」
「ええ」
紅緒は剥がした札を裏返し、しばらく黙って眺めた。
「何が書いてある?」
「細かいところまでは、ここでは分からない。でも……妖怪の意思を縛って、決められた行動を取らせる類いの術式だと思う」
「じゃあ、こいつは――」
「誰かに操られていた可能性が高いわ」
部屋の空気が重くなる。
尚陽も、今度は冗談を言わなかった。
「つまり、宮中に入り込んだんじゃない。誰かが入り込ませたってことか」
「その可能性があるわね」
景真は伏せた鎌鼬を見る。
本来なら三体で行動する妖怪。その一体だけを捕らえ、札を貼り、宮中へ送り込んだ者がいる――そう考えるのが自然だった。
自分たちへ襲いかかった時の、あの異様な動きが蘇る。
妖怪が勝手に暴れていたのではない。
誰かが、こいつに何かをさせていた。
*
一息ついたところで、尚陽は籠池の様子を見に向かった。
景真と紅緒も同行する。
別室では、籠池が額に布を当てながら茶をすすっていた。たんこぶは先ほどより少し大きくなっている。
「籠池殿、ご気分はいかがですか」
「頭は少々ずきずきしますが、首がつながっておりますからな。上々でしょう」
尚陽が苦笑する。
「それを上々と言えるのは籠池殿くらいですよ」
「そうでも思わねば、損でしょう」
籠池はそう言って笑った。
景真は改めて男の装束を見る。
肩口には、鎌鼬の一撃が掠めた跡が細く残っていた。紅緒が突き飛ばさなければ、あれが肩ではなく首を通っていたのだ。
「籠池さま。少しお聞きしてもいいですか?」
「もちろん」
「あの鎌鼬に、心当たりはありますか。妖怪に恨まれるようなこととか」
籠池は顎に手を添え、しばらく考えた。
「さて……仕事柄、人には恨まれておるかもしれませんが、妖怪となると心当たりはありませんな」
「お仕事というと?」
景真が尋ねると、籠池より先に尚陽が口を開いた。
「籠池殿は左少弁だ。太政官で、朝廷の文書や命令の取り次ぎなんかを担う弁官の一人だな。各役所から上がってくる話にも目を通すから、揉め事とは無縁じゃいられない」
「なるほど……」
朝廷の仕組みは景真にはまだ複雑だったが、少なくとも多くの役所や人間と関わる立場だということは分かった。
「とはいえ、誰かに命を狙われるほど立派な仕事をした覚えもありませんがな」
籠池は笑って肩をすくめる。
「妖怪を庇ったことで、誰かと揉めたことは?」
今度は紅緒が尋ねた。
「庇った、というほど大層なものではありません。ただ、何でも妖怪のせいにするのはよろしくない、と申し上げたことは何度かあります」
籠池は額の布を押さえ直す。
「人と妖怪が同じように暮らせるなどとは申しません。危険な妖怪がおることも承知しております。しかし、それと目の前の一体が悪いかどうかは別の話でしょう」
紅緒は少しだけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「……そうですね」
景真は二人を見比べた。
先ほど久光が紅緒へ向けた視線とは、正反対だった。
だからこそ、気になる。
あの鎌鼬は偶然ここを通りかかったわけではない。
誰かに操られていた。
そして、その鎌鼬が真っ直ぐ向かった先にいたのが籠池だった。
「……籠池さま」
「はい?」
「今日、あの廊下を通ることは、前から決まっていたんですか?」
「ええ。昼過ぎに中務省へ出向く予定がありましてな。あの渡殿を使うのはいつものことです」
景真は眉を寄せた。
「予定を知ってる人は?」
「さて。私の近くで働く者は知っておりますし、行き先にも先触れを出しております。珍しい予定でもありませんから、調べようと思えば難しくはないでしょう」
景真の胸の奥で、何かが一つ噛み合った。
まだ答えではない。
だが、さっきまで輪郭のなかった違和感が、少しだけはっきりした。
*
籠池の部屋を出たあと、三人はこれまでの怪異について改めて記録を確認することにした。
尚陽が、今回の調査のため大舎人寮に集めさせていた報告を、空いている部屋の机いっぱいに広げる。
「一件目が三日前。西の渡殿の柱と文箱。二件目が翌朝、北側の御簾。三件目が昨夜で、宿直の官人が腕を切られた」
尚陽が指で順に示していく。
「そして四件目が、さっきの籠池殿か」
「はい」
景真は紙の上の文字と、頭の中にある宮中の道筋を照らし合わせた。
最初に現場を回った時は、似た傷ばかりが気になった。
だが、鎌鼬が操られていたと分かった今では、見え方が違う。
「尚陽さん。この三か所って、離れてますか?」
「いや、そうでもない。歩けばどこもすぐだ」
「籠池さまは、この辺りをよく通ります?」
尚陽は少し考え、紙の一枚を持ち上げた。
「左少弁なら、この辺りの役所へ行き来することは多いな。……待てよ」
尚陽の表情が変わる。
「昨夜怪我をした官人、籠池殿のところへ文書を届ける途中だったはずだ」
紅緒も報告書を覗き込む。
「偶然……ではないのかしら」
「まだ分からない」
景真は答えながら、四つの事件を頭の中に並べ直した。
柱。文箱。御簾。官人。
一見すれば、気まぐれな妖怪があちこちを切り裂いているだけに見える。
けれど、本当にそうだろうか。
鎌鼬には札が貼られていた。
誰かが命令していた。
ならば、これまでの傷にも命令した誰かの意図があるはずだ。
「紅緒」
「何?」
「鎌鼬って、操られてなくても、ああやって一人だけを何度も狙うものなのか?」
紅緒は少し考えてから首を横に振った。
「個体差はあるけど、少なくともさっきの動きは普通じゃなかったわ。私たちより、籠池さまを優先していた」
「だよな」
あの時、鎌鼬は紅緒と景真を倒そうとしていたのではない。
邪魔だから避けようとし、その向こうにいる籠池へ向かっていた。
狙いが、正確すぎる。
景真は一枚の報告書を手に取った。
「これ……最初から、適当に暴れてたわけじゃないんじゃないですか?」
「どういうことだ?」
尚陽が訊き返す。
「まだ全部は分かりません。でも、誰かが鎌鼬を操ってたなら、何をさせるかも決めてたはずです」
景真は机の上の報告書を見渡した。
「だったら、この怪異にも――最初から狙いがあったんじゃないですか」
誰かが妖怪を捕らえた。
一体だけを仲間から引き離し、札で意思を縛った。
そして宮中へ放った。
何のために。
その問いだけが、机の上に残された。




