第十三話「宮中の闇」①
陰陽寮の一室に呼び出された景真は、正面に座る男を見て、背筋を少しだけ伸ばした。
大道宗心。陰陽寮を束ねる陰陽頭である。いつ見ても険しい眉間には深い皺が刻まれ、こちらを見据える目にも隙がない。隣に座る紅緒も、普段よりわずかに姿勢を正していた。
「大月、東春。二人に宮中へ行ってもらう」
前置きもなく告げられ、景真は目を瞬かせた。
「……宮中、ですか?」
「そうだ」
宗心は机上の報告書へ視線を落とした。
「三日前から、内裏で奇妙な傷害が続いている。最初は柱や戸、文書が切り裂かれた程度だった。だが昨夜、宿直の官人が腕を負傷した」
「刃物によるものですか?」
紅緒の問いに、宗心は一枚の紙を差し出した。
「傷は浅い。だが、刃物を持った者を見た者はいない。現場には微量ながら妖気が残っていた」
景真と紅緒が顔を見合わせる。
「では、妖怪の仕業と見ているのですか?」
「宮中では、そう考える者が多い」
宗心の返事は、肯定ではなかった。
「すでに、妖怪が内裏へ忍び込んだという噂まで走っている。だが、噂と事実は違う。証拠に基づいて判断する。それが規則だ」
低く、きっぱりとした声だった。
景真は、いかにも宗心らしいと思った。人の好き嫌いも、その場の空気も関係ない。確認できたものだけを判断の材料にする。その頑固さは息苦しくもあるが、こういう時には頼もしい。
「分かりました。調べてきます」
紅緒が頭を下げる。
「ただし、大月」
「はい」
「宮中だ。退魔だけを考えて動くな。騒ぎを広げれば、それだけで朝廷の威信に関わる」
「心得ています」
宗心は次に景真を見る。
「東春。お前についても、調査の補佐として入内の許しは取ってある。これまでの件で、お前の目が役に立ったことは認めている。だからこそ余計な真似はするな」
「はい。……そんなに信用ないですか、俺」
「ない」
即答だった。
紅緒が横で、ほんの少しだけ口元を緩めた。
*
幽京の中心に広がる宮城は、外から眺めるのと中へ入るのとでは、まるで別の場所だった。
朱塗りの門をくぐった途端、景真がまず感じたのは静けさだった。人がいないわけではない。むしろ官人や舎人、女官たちが絶えず行き交っている。それなのに、誰もが声を抑え、足音さえ周囲を気にしているように見えた。
御伽舘のような雑多な賑やかさはない。結界神社とも違う。目に見えない決まりごとが、建物から建物へ張り巡らされているようだった。
「なんか……息が詰まりそうだな」
「聞こえてるわよ、景真」
「小声だったのに」
「私には聞こえたわ」
紅緒に釘を刺され、景真は口を閉じた。
二人を門の内側で待っていたのは、三十ほどの男だった。格式ばった宮中には少し似つかわしくない、からりとした顔で片手を上げる。
「東春景真と大月紅緒だな。俺は蓮宮尚陽。大舎人助をやってる。今日は俺が案内する」
「よろしくお願いします、蓮宮殿」
「ああ。よろしく」
尚陽は二人を促して歩き出した。
「ところで、大舎人って、どんな仕事をするところなんですか?」
景真が尋ねると、尚陽は歩きながら振り返った。
「大舎人寮は、帝の近くに仕えたり、行幸のお供や宮中の警護をしたりする大舎人をまとめる役所だ。俺はその次官――まあ、副官みたいなもんだな」
「なるほど。だから宮中の案内もできるんですね」
「そういうことだ。もっとも、奥の古い殿舎は似た造りが多くてな。俺でもたまに迷う」
「それでも案内役、大丈夫なんですか?」
「ああ、今の言い方じゃ不安になるな。悪かった」
あっさり認める尚陽に、景真は思わず笑った。
最初の現場は、渡殿に面した柱だった。
人目を避けるためか、周囲には縄が張られ、官人の姿も少ない。柱の表面には細く鋭い傷が三本、斜めに走っていた。近くに置かれていた文箱の蓋も、同じように切り裂かれている。
紅緒が傷へ顔を近づけ、わずかに目を細めた。
「……妖気が残っています」
「今も分かるのか?」
「ええ。かなり薄くなっているけど」
景真は柱の傷を覗き込んだ。
「爪で引っかいた跡か?」
「それにしては細すぎるわね。それに、木を抉るというより……切っているわ」
紅緒は文箱の傷も確かめた。
「風を刃のように使う妖怪なら、似た痕跡を残すことがあるわ」
「例えば?」
「鎌鼬とかね。小柄で素早く、風とともに現れて人や物を切り裂く妖怪よ。格はそれほど高くないわ」
聞き覚えのある名前に、景真は反応した。現世でも知られている妖怪だ。
「こっちにも鎌鼬っているんだな」
「ええ。もちろん、傷だけで断定はできないけど」
景真はもう一度、柱の切り傷を見た。
確かに妖気は残っている。傷も、紅緒の知る妖怪の仕業と合うらしい。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
何がおかしいのか、自分でもまだ分からなかった。
次の現場へ移ろうとしたところで、廊下の向こうから数人の官人が歩いてきた。
尚陽がすっと姿勢を正した。
「あちらが大舎人頭の長田久光殿。俺の上司だ。今回、陰陽寮へ調査を求めたのも長田殿だ」
先頭を歩く男は四十を越えたほどに見えた。仕立てのよい装束を身につけ、いかにも宮中の役人らしい隙のない身なりをしている。
「蓮宮。調査は進んでいるのか」
「はい。まだ始めたばかりですが、いくつか現場を確認しております」
尚陽の口調が、景真たちに向けていたものからきれいに切り替わっていた。
久光の視線が紅緒へ移る。
「……その者が、陰陽寮から遣わされた退魔方か」
「陰陽得業生の大月紅緒です。本件の調査を命じられて参りました」
紅緒が礼をする。
久光は一拍置き、紅緒の姿を静かに見た。
「……半妖を寄越したのか」
景真の眉がわずかに動く。
紅緒は表情を変えなかった。
「陰陽頭より命を受けております。調査結果をもってお答えいたします」
「陰陽寮の人選に口を挟むつもりはない。宮中でこれ以上の被害が出ぬよう、結果だけは出してもらいたい」
「承知しました」
久光はそれ以上何も言わず、供の者を連れて通り過ぎていった。
その姿が十分に離れてから、景真は小声で言った。
「……感じ悪いな、あの人」
「景真」
「本人がいなくなってから言っただろ」
「そういう問題じゃないわ」
尚陽が困ったように頬を掻いた。
「悪いな。長田殿は、少し物言いがきつくてな」
「慣れています」
紅緒は淡々と言った。
その返事が、景真には少しだけ気に入らなかった。慣れているから平気だという話ではないだろう。
とはいえ、ここは宮中だ。宗心に釘を刺されたばかりでもある。景真は言いたいことを飲み込み、久光の背中から視線を外した。
*
その後も三人は、怪異が起きた場所をいくつか回った。
切り裂かれた御簾。裂けた装束。傷を負った官人が立っていたという廊下。どこにも、刃物でなぞったような細い傷が残っていた。
そして、いずれの場所にもごく薄い妖気があった。
妖怪が関わっている。
少なくとも、その可能性は高い。
それなのに、景真の胸にある引っかかりは消えなかった。
何か一つ、見落としている気がする。
けれど、まだそれが何なのかまでは掴めない。
最後の現場を離れたところで、廊下の向こうから恰幅のいい中年の官人が歩いてきた。
尚陽が軽く会釈する。
「左少弁の籠池殿だ」
籠池は四十ほど。丸みのある頬に穏やかな笑みを浮かべ、こちらへ気づくと自ら足を止めた。
「おお。陰陽寮から来られた方々ですかな」
「はい。大月紅緒と申します」
「東春景真です」
籠池は紅緒の姿を見ても、久光のような嫌悪を示さなかった。むしろ、ほっとしたように笑った。
「このところ、宮中が随分と物々しくなっておりましてな。妖怪の仕業だ、討ち滅ぼせと声を荒らげる者までいる。まだ何も分かっておらぬというのに」
紅緒がわずかに目を見開く。
「妖怪に対して、あまり悪い印象をお持ちではないのですね」
「人にも善人と悪人がおるでしょう。妖怪だけ一括りにして悪と決めるのは、少々乱暴というものです」
籠池は腹を揺らして笑った。
「もっとも、本当に襲われれば、私も腰を抜かすかもしれませんがな」
そう言って、籠池が三人に背を向ける。
その瞬間だった。
紅緒の表情が変わった。
「――籠池さま!」
鋭い声と同時に、紅緒が籠池の背を突き飛ばす。
「うおっ!?」
籠池の大きな体が廊下へ転がった。
次の瞬間、景真の頬を冷たい風が掠める。
シュッ、と細い音。
つい先ほどまで籠池の首があった高さを、見えない刃が駆け抜けた。背後の柱に、深い切れ目が走る。
「紅緒!」
「いるわ!」
紅緒が懐から札を抜き放つ。
景真の目には、最初は何も見えなかった。だが廊下の端で、空気が一瞬だけ歪む。
小さな影が跳ねた。
細長い獣の体。鋭い前肢。風をまとい、次の一撃を放とうとしている。
「鎌鼬――!」
紅緒が札を投じる。
白い紙片が風に煽られることなく真っ直ぐ飛び、鎌鼬の額へ張り付いた。
「縛!」
札から淡い光の筋が広がり、小さな体を幾重にも絡め取る。
鎌鼬は床へ落ち、甲高い声を上げながら身を捩った。
それでも逃れられない。
紅緒はすぐに距離を詰め、二枚目の札を重ねる。
「もう動けないわ。景真、籠池さまを!」
「分かった!」
景真は転がった籠池のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「う、うむ……どうやら、頭を打っただけのようですな」
起き上がった籠池の額には、早くも小さなたんこぶができ始めていた。
その後ろでは、柱に刻まれた切り傷が口を開けている。もし紅緒があと少し遅ければ、あれが籠池の首を裂いていた。
籠池もそれを見て、さすがに顔から笑みを消した。
しかし、すぐに苦笑する。
「いやはや……本当に腰を抜かすところでしたな」
「申し訳ありません。咄嗟でしたので、少し強く――」
「何をおっしゃる。命があっただけありがたい。たんこぶ一つで済んだのなら、安いものです」
紅緒はほっと息を吐いた。
景真も胸を撫で下ろし、床の鎌鼬へ目を向けた。
札に縛られた小さな妖怪が、一体。
紅緒はその姿を見つめたまま、わずかに眉を寄せた。
「……おかしい」
「何が?」
紅緒は周囲へ視線を巡らせる。
「鎌鼬は、本来三体で一組になって行動する妖怪よ」
景真も廊下の前後を見回した。
二体目も、三体目も現れない。
妖気の気配も、目の前の一体のものしかないらしい。
「……一体だけなのは、おかしいってことか」
「ええ。少なくとも、普通ではないわ」
宮中を騒がせていた妖怪は見つかった。
それなのに。
景真の胸にあった小さな引っかかりは、消えるどころか、形を持ち始めていた。




