第十二話「夕暮れの影踏み」④
小さな影は、影蛇の頭の下でじっとしていた。
夕日はもう屋根の向こうへ沈みかけている。広場に伸びていた影は少しずつ輪郭を失い、さっきまで子どもたちを引っ張っていた異様な気配も薄れていた。
紅緒は構えていた札を下ろしたが、まだ警戒を解いてはいない。
「本当に、もう大丈夫なの?」
「たぶん」
「また、たぶんなのね」
深影は気にした様子もなく、小さな影を見下ろした。
「少なくとも、裸足の跡は消えた。もうあの子たちの影を引っ張ってない」
景真が振り返る。
三人の子どもたちは、広場の端で自分の足元を何度も確かめていた。さっきまで勝手に先へ進んでいた影は、今では本人の動きにきちんと従っている。
「足、勝手に動かない?」
景真が訊くと、最初に相談へ来た少年が恐る恐る一歩踏み出した。
影も同じように一歩進む。
「……大丈夫です」
その声に、ようやく三人の肩から力が抜けた。
紅緒も小さく息を吐く。
「なら、先にこの子たちを御伽館へ戻しましょう。家族が待ってるわ」
「そうだな」
景真が頷く。
だが深影だけは、その場を動かなかった。
「深影?」
呼ばれても、小さな影を見つめたままだ。
「この子も連れていく」
「え?」
今度は景真と紅緒が同時に声を上げた。
「御伽館に?」
「うん」
「いや、待て。連れていくって、どうやって」
深影はしゃがみ込み、自分の影へ指先を触れた。
影蛇が一匹、小さな影の横へするりと伸びる。押さえつけるのではなく、まるでこちらへ来いと誘うように頭を揺らした。
小さな影はしばらく動かなかった。
やがて、ぴょこんと一度跳ねる。
そして影蛇のあとを追うように、深影の足元まで滑ってきた。
深影の影の端へ重なり、そこで丸く縮こまる。
「……入った?」
「くっついてるだけ」
「違いが分からない」
深影は立ち上がった。
「じゃあ帰ろう」
まるで迷子の猫でも拾ったような調子だった。
*
御伽館へ戻ると、待っていた家族たちが一斉に子どもへ駆け寄った。
母親に抱きしめられた少年は、照れたようにしながらも抵抗しなかった。別の子どもは何度も自分の影を踏んでみせ、もう引っ張られないことを確かめている。
事情を説明すると、家族たちは深影たちへ何度も頭を下げた。
「もう、あの影は来ないんでしょうか」
少年の母親が不安そうに訊く。
深影は少し考えた。
「来るかもしれない」
「深影」
紅緒が横からたしなめる。
「でも、同じことはさせない」
深影は続けた。
「遊びたかっただけみたいだから。ちゃんと遊び方を教える」
母親は戸惑った顔をした。
怖い目に遭ったばかりなのだから当然だ。
深影は受付台の横、夕暮れの光が長く伸びている床へ目を向けた。
自分の影の端から、小さな影がほんの少しだけ顔を出すように輪郭を伸ばしている。
「出ておいで」
深影が言う。
小さな影は動かない。
「今は誰の影も踏まない」
一拍置いて、影がそろそろと外へ出た。
家族たちが息を呑む。
小さな影もそれを察したのか、ぺたりと床へ縮こまった。
深影は自分の影蛇を一匹出し、その前へ置く。
「遊ぶなら、相手も遊びたい時だけ」
影蛇が小さな影の前を走る。
小さな影が追う。
けれど、影蛇がぴたりと止まると、深影も片手を上げた。
「ここで終わり」
影蛇が自分の影へ戻る。
小さな影は追いかけようとして――止まった。
その場で二度ほど揺れ、やがて深影の足元へ戻ってくる。
「そう。終わったら終わり」
景真はその様子を見て、少し笑った。
「本当に教えてるな」
「覚えないと、また同じことするから」
深影は小さな影へ視線を落とす。
「嫌がってる人を引っ張るのも駄目」
影が小さく縮んだ。
「分かった?」
返事はない。
代わりに、小さな影が一度だけ上下に揺れた。
「……分かったらしい」
「本当か?」
「たぶん」
「やっぱりたぶんなんだな」
少年が、母親の袖を握ったまま小さな影を見ていた。
しばらくして、おそるおそる言う。
「……今度は、ちゃんと遊べる?」
小さな影が少年の方を向く。
深影は答えず、少年を見る。
「遊びたい?」
少年は少し迷ってから頷いた。
「……怖くないなら」
「じゃあ、今度ね」
深影はそれだけ言った。
無理に仲良くさせるつもりはないらしい。
その態度に、母親の表情もほんの少しだけ和らいだ。
*
家族たちが帰ったあと、受付台の向こうから八重が深影をじっと見ていた。
深影はいつもの席へ戻っている。
その足元には、見慣れない小さな影が一つ増えていた。
「それで」
八重が低い声を出す。
「そのちっこいのを、連れて帰ってきたのかい」
「ついてきた」
「同じことだよ」
深影は机へ頬杖をついた。
「追い払った方がよかった?」
八重はすぐには答えなかった。
「あんたは、どう思ったんだい」
「悪いことはした」
深影が答える。
「でも、悪いことをしたかったわけじゃなかった」
「だから?」
「終わり方を教えれば、もうしないかもしれない」
八重はしばらく深影の顔を見ていた。
それから、小さく鼻を鳴らす。
「なら、その後まで面倒見な」
「え」
「拾ってきて、教えました、はい終わり。そんな仕事じゃないよ」
八重は受付台の上の帳面を閉じた。
「また誰かに迷惑をかけないか。ちゃんと終わりを覚えたか。あんたが見な」
「……仕事増えた」
「自分で増やしたんだよ」
「はーい」
「返事」
「はい」
景真は少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた。
深影が御伽館へ来たばかりのころなら、怪異を見つけたあとにどうするかまで考えただろうか。
少なくとも今は、危険かどうかだけではなく、その怪異が何をしようとしていたのかを見ている。
八重に叱られながらも、御伽衆の仕事のやり方を少しずつ身につけているのだろう。
そんな景真の視線に気づいたのか、深影がこちらを見た。
「何?」
「いや。ちゃんと留守番してたんだなと思って」
「言ったでしょ」
深影は真っ黒な瞳を細めた。
「私はここを守ってるって」
「……そうだったな」
玄嶺へ出発する朝の言葉を思い出し、景真は笑った。
*
翌日の夕暮れ。
御伽館の前には、長い影が伸びていた。
昼間に届いた依頼を片づけた景真と紅緒が戻ってくると、深影が戸口の脇に座っている。
その足元では、小さな影が影蛇のあとを追って、短い距離を行ったり来たりしていた。
「まだいるんだな」
「しばらく見ることになった」
「八重さんに言われたから?」
「半分」
「残り半分は?」
深影は答えず、小さな影を見る。
昨日より動きは落ち着いていた。影蛇が止まれば止まり、深影が手を上げれば自分から足元へ戻ってくる。
どうやら少しは学んでいるらしい。
景真はその様子を覗き込もうとして、一歩横へずれた。
その足が、深影の長く伸びた影の端を踏む。
ぴたり。
深影が景真を見る。
「…………」
「何?」
「踏んだね」
「え?」
「影踏みする?」
「いや、しない」
「そう」
深影はあっさり頷き、足元から伸びかけた影蛇を引っ込めた。
紅緒が隣で呆れたように息を吐く。
「今のは、ちゃんと聞いたのね」
「教えたから」
「自分で教えたんでしょう」
その時だった。
少し離れた壁際で、小さな影がぴょこんと跳ねた。
景真の影へ近づきかける。
けれど途中で止まり、深影を見る。
深影が首を横に振った。
小さな影は少し考えるように揺れたあと、景真の影を踏まずに戻ってきた。
深影の口元が、ほんの少しだけ上がる。
「覚えた」
夕暮れの御伽館の前で、影蛇が一匹、小さな影の周りをくるりと回る。
小さな影も、それを追って跳ねた。
今度は、誰の影も勝手には踏まなかった。




