第十二話「夕暮れの影踏み」③
深影の影が、本人より先にもう一歩進んだ。
足元に沈んだ小さな裸足の跡が、夕闇の中でさらに濃く脈打つ。
その動きに引かれるように、深影の身体も前へ出た。
「深影、動かないで!」
紅緒がすぐに手を伸ばす。
「平気」
深影は制するように片手を上げた。
「でも、あなたも引っ張られてるでしょう」
「うん」
「うん、じゃないわよ」
紅緒の声が強くなる。
少し離れたところでは、三人の子どもたちが固まったままこちらを見ていた。彼らの影にも、同じ小さな足跡が残っている。
景真は深影の足元を見た。
「その跡、消せないのか?」
「たぶん消せる」
「なら先に――」
「でも、まだ消さない」
「跡だけ消しても、この子がまた誰かの影を踏めば同じだから」
深影は小さな影へ視線を向けた。
身体を持たない子どものような影は、広場の端でじっとこちらを見ている。
「向こうは、わたしが鬼になったと思ってる」
「鬼?」
「影を踏まれたから」
深影の口元から、細い舌がちろりと覗いた。
「だったら、追えばいいんでしょう?」
次の瞬間。
深影の足元から、三匹の影蛇が一斉に飛び出した。
小さな影が跳ねる。
逃げた。
「紅緒。あの子たちお願い」
「待ちなさい、深影!」
呼び止める声には応えず、深影は歩き出した。
正確には、先に走り出した自分の影に引かれながら、その後を追った。
「あいつ、自分から参加しにいったぞ」
景真が呆気に取られて言う。
「見れば分かるわ!」
紅緒は子どもたちを背後へ下がらせながら、深影の行方を目で追った。
小さな影は、広場の地面を滑るように駆けていく。
一匹目の影蛇がすぐ後ろへ迫った。
もう少しで届く。
そう思った瞬間、小さな影は古い物置の壁へ飛び移った。
黒い輪郭が地面から壁へ折れ曲がり、そのまま垂直に駆け上がる。
「そんなのありかよ」
景真が声を漏らした。
「影だもの」
深影だけは驚かない。
影蛇も壁へ移った。
一匹、二匹。地面から壁、壁から軒下へ。光の届く場所に落ちた影を伝いながら、小さな影を追い詰めていく。
それは、人間が走って追いかけるのとはまるで違う追跡だった。
提灯の影へ飛び込み、屋根の影へ抜ける。
枯れ木の細い影を伝って地面へ戻る。
小さな影も、深影の影蛇も、黒い場所から黒い場所へ次々と移っていく。
景真には、どちらが追う側でどちらが逃げる側なのか分からなくなるほどだった。
「……楽しそうだな、あいつ」
思わず呟く。
深影は無表情に見えた。
けれど真っ黒な瞳は、いつもよりわずかに細められている。
小さな影が壁から地面へ落ちた。
そのまま一匹の影蛇へ向かう。
逃げるのではない。
踏もうとしている。
黒い足が影蛇の頭へ重なる寸前、影蛇はするりと横へ滑った。
小さな影もすぐに方向を変える。
二匹目を追う。
またかわされる。
それでも影は諦めない。
「完全に遊んでるな」
景真が言う。
「ええ。でも、このままでは駄目よ」
紅緒は警戒を解かない。
「子どもたちを無理やりここまで連れてきたのは事実だもの」
広場に残した別の影蛇が、三人の子どもたちの影をその場へ留めている。それでも足首の黒い跡は消えていない。
遊びが続く限り、また引っ張られる可能性がある。
深影も分かっているらしい。
二匹の影蛇を左右へ大きく散らした。
小さな影が迷う。
右を見る。
左を見る。
その動きは、面白い玩具を二つ同時に見せられた子どものようだった。
「欲張り」
深影がぽつりと言う。
足元から、もう一匹。
三匹目の影蛇が静かに伸びた。
だが今度は、正面から追わない。
物置の下に落ちた濃い影へ潜り込み、そのまま小さな影の背後へ回る。
景真が気づいた。
「挟む気か」
深影は答えなかった。
一匹目の影蛇が、わざと小さな影のすぐ前を横切る。
影が食いついた。
黒い足を大きく伸ばす。
影蛇の尾を踏む寸前。
二匹目が反対側から飛び出した。
小さな影がくるりと向きを変える。
その背後。
物置の影から、三匹目が音もなく現れた。
蛇の頭が、小さな影の足元へ重なる。
ぴたり。
広場のすべての影が、止まったように見えた。
「踏んだ」
深影が言った。
その瞬間だった。
小さな影の輪郭が大きく揺らいだ。
水面へ石を落としたように、黒い形へ波紋が走る。
同時に、子どもたちが声を上げた。
「あ……!」
三人の影の足首に沈んでいた裸足の跡が、薄くなっていく。
一つ。
二つ。
三つ。
最後には、夕暮れの影へ溶けるように消えた。
深影も自分の足元を見る。
そこにあった黒い跡が消えている。
試すように一歩下がる。
今度は影が先に動かなかった。
「戻った」
「それだけで解除できたのか?」
景真が訊く。
「呼ばれた方が、ちゃんと追いついて、この子自身を踏んだから」
「説明になってないぞ」
深影は三匹目の影蛇を見た。
「この跡は、たぶん『追いかけて』っていう印だったんだよ」
景真は、子どもたちの影に残っていた小さな裸足の跡を思い出した。
この小さな影は、誰かの影を踏んで印を残す。
印をつけられた相手は、次の夕暮れになると影ごとここへ引かれる。
けれど、その相手が小さな影自身へ追いつき、踏み返せば印は消える。
「……そういうことか」
この小さな影は、人間の影踏みを見て、「影を踏めば相手が追いかけてくる」というところまでは覚えていた。
けれど、自分自身が踏まれればそこで一区切りになる、ということを知らなかった。
だから遊びが途切れるたび、残した印の力で相手を広場へ引き戻していた。
そして今、初めて追いつかれ、自分自身を踏まれた。
小さな影は、三匹目の影蛇の下で動かない。
暴れているわけではなかった。
ただ、何が起きたのか分からないように、輪郭を小さく揺らしている。
紅緒が札を構えた。
「今なら封じられるわ」
「待って」
深影がまた止めた。
「深影」
「もう終わったから」
「何が?」
深影は小さな影へ歩み寄った。
もう本人の影が先に進むことはない。自分の足で、ゆっくり近づいていく。
影蛇も強く押さえつけてはいなかった。逃げようとすれば止められる程度に、頭をそっと重ねているだけだ。
深影がしゃがみ込む。
地面にいる小さな影と、真っ黒な瞳が向き合った。
「この子、たぶん知らなかっただけ」
「何を?」
景真が訊く。
「終わらせ方」
深影は指先で、自分の影の上を軽く叩いた。
「みんなの影を踏めば、追いかけてもらえる。そこだけ覚えた」
小さな影が、わずかに揺れる。
「でも、追いつかれて自分が踏まれたら一度終わりになることも、遊びが終わったら帰ることも知らなかった」
景真は広場を見回した。
三日前。ここで遊ぶ子どもたちを、どこかの影から見ていたのだろう。
笑いながら走る。
誰かの影を踏む。
踏まれた子が追いかける。
それだけを見て、自分も混ざった。
けれど日が暮れれば人間の子どもたちは家へ帰る。
この小さな影だけが、遊びの続きを待ち続けた。
「だから次の日も呼びに来たのか」
「うん」
深影の声はいつもと変わらず淡々としていた。
それでも、景真には少しだけ柔らかく聞こえた。
「この子、終わらせ方を知らなかっただけだよ」
小さな影は逃げなかった。
夕暮れの地面で、影蛇の頭の下にじっと留まっていた。




