第十二話「夕暮れの影踏み」②
三人の子どもたちは、夕暮れの幽京をゆっくりと歩き始めた。
正確には、歩かされていた。
先に進むのは足ではない。地面へ長く伸びた影が一歩動き、そのあとを追うように身体が引かれる。
「……気味が悪いな」
景真は思わず呟いた。
子どもたちの家族は御伽館に残っている。ついて行きたいと言ったが、もし急に影の力が強くなった時、慌てて身体を引き戻される方が危ないと深影が止めた。
代わりに、景真と紅緒、そして深影の三人が後を追っている。
「深影、本当にこのまま行かせて大丈夫なの?」
紅緒が前を歩く子どもたちから目を離さずに訊く。
「たぶん」
「また、たぶん?」
「今のところはね」
深影の足元から三匹の影蛇が伸び、それぞれ子どもたちの影のすぐ脇を這っていた。絡みつくでもなく、ただ一定の距離を保ってついていく。
「もし急に強く引かれたら、影蛇で止める」
「身体を押さえるんじゃなくて?」
「うん。引っ張られてるのは身体じゃないから」
深影は自分の影を指先で示すように見下ろした。
「身体だけ止めたら、影と喧嘩することになる。たぶん痛いよ」
それを聞き、景真は子どもたちへ伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「そういう大事なことは先に言ってくれ」
「今言った」
「歩き始める前にだよ」
深影は気にした様子もなく、三つの影を見つめている。
御伽館を離れ、通りを二つ曲がった。
夕暮れはもう終わりかけている。軒先では店じまいの音が響き、家々には少しずつ灯りがともり始めていた。
本来なら、光の位置が変われば影の向きも変わるはずだった。
だが、子どもたちの影だけは違った。
提灯の横を通っても、店先の火に照らされても、三つの影の先端は同じ方角を向き続けている。
時折、本人の足が止まりかけると、影だけがぐっと伸びる。
そのたびに子どもの身体が一歩引かれた。
「あっ……」
一番小さな子がよろめく。
すぐに影蛇がその影の縁へ身体を沿わせた。黒い蛇が押さえ込むように頭を置くと、引く力が少し弱まる。
「大丈夫?」
深影が訊く。
「う、うん……」
子どもは怯えた顔で頷いた。
深影はそれ以上慰めるでもなく、ただ少し歩調を落とした。
その無造作な気遣いに、景真は小さく息を吐いた。
やがて三つの影は、大通りを外れて細い裏道へ入った。
「この先って、何があるんだ?」
景真が訊くと、一番年上らしい少年が振り返る。
「……広場」
「広場?」
「ぼくらが、影踏みしてたところ」
「影を踏まれたら、次はその子が鬼になるんだよな?」
景真が確認すると、少年は小さく頷いた。
「うん。鬼になった子が、また誰かの影を踏んだら交代するんです」
三人の足が、同時にもう一歩前へ出た。
その言葉を聞いていたかのようだった。
*
裏道を抜けた先に、小さな空き地があった。
四方を家と古い物置に囲まれ、中央には一本の枯れかけた木が立っている。昼間なら、子どもが遊ぶにはちょうどいい場所なのだろう。
だが日が沈みかけた今は、妙に暗かった。
家々の隙間から差し込む最後の夕陽が、地面に長い影を幾重にも落としている。
「ここです」
少年が震える声で言った。
三人の影が止まる。
身体も止まった。
急に引かれる感覚が消えたらしく、子どもたちはほっとしたように肩を落とす。
紅緒はすぐに三人を自分の後ろへ下がらせた。
「ここで遊んでいたのね?」
「うん」
「その知らない影が混ざったのは、いつ?」
少年は少し考える。
「三日前。最初は、誰かの影だと思ったんだ」
「誰かって?」
「分からない。四人で遊んでたのに、影が五つあった」
空き地を冷たい風が抜けた。
景真は思わず足元を見た。
自分。紅緒。深影。子どもが三人。
夕陽に伸びる影は六つ。
今のところは。
「その時、怖くなかったのか?」
「最初は。でも……」
少年が言いにくそうに視線を落とす。
「そいつ、逃げるのがすごく上手かったから」
「影が?」
「うん。踏もうとすると、すぐ逃げるんだ。壁にも上がるし。それで、みんなで追いかけた」
紅緒が眉を寄せた。
「知らないものを追いかけたの?」
「……ごめんなさい」
叱られたと思ったのか、少年が縮こまる。
その時だった。
深影の黒い瞳が、空き地の端へ向いた。
「来た」
景真もそちらを見る。
古い物置の壁。
そこに、いつの間にか影があった。
小さな子どものような輪郭。
だが、その影を作る身体はどこにもない。
壁の上に張りついた黒い形だけが、夕闇の中でゆらりと揺れていた。
「あれ……」
少年の声が震える。
「あいつだ」
紅緒が札へ手をかける。
だが深影は動かなかった。
小さな影が、壁を走った。
音はしない。
地面へ落ちたと思った次の瞬間には、枯れ木の影へ紛れ込んでいる。
そこから飛び出し、今度は子どもたちの方へ向かった。
「下がって!」
紅緒が前へ出る。
小さな影はその横をすり抜けるように地面を走り――一人の少年の影を踏んだ。
黒い足が、黒い影の上へ重なる。
瞬間。
少年の影の足首に沈んでいた小さな裸足の跡が、さらに濃く脈打った。
「っ……!」
少年の身体が前へ引かれる。
紅緒が札を投げようとした。
「待って」
深影が止めた。
「でも!」
「見て」
小さな影は、少年を追い続けなかった。
数歩ぶん離れたところまで走る。
そこで止まる。
振り返るように、上半身の輪郭がこちらへ向いた。
誰も動かない。
すると影は、また少し近くまで戻ってくる。
もう一度離れる。
また止まる。
景真はその動きを見つめた。
「……待ってないか?」
「何を?」
紅緒が訊く。
「俺たちが追いかけるのを」
深影の口元から、細い舌がちろりと覗いた。
「うん」
小さな影が、今度は枯れ木の周りをくるりと一周した。
そして再び、こちらを見る。
「これ、襲ってるんじゃない」
深影が言った。
「遊んでる」
その言葉に、紅緒が怪訝そうな顔をした。
「遊んでる?」
「影踏み」
深影は目の前の小さな影を指した。
「この子、あの子たちの真似してる」
言われてみれば、そう見えた。
誰かの影へ近づく。踏む。すぐに逃げる。少し離れたところで、追ってくるのを待つ。
子どもたちがやっていた遊び、そのものだ。
「でも、それなら何で身体まで引っ張るの?」
紅緒の疑問に、深影は少し首を傾げる。
「自分が踏んだら、次は追いかけてほしいんじゃない?」
「だから無理やり連れてきたのか?」
「たぶん」
景真は小さな影を見る。
人間の影踏みなら、影を踏まれた相手が次の鬼になり、誰かの影を踏めばまた交代する。遊びをやめたければ、声を掛け合えばいい。日が暮れれば家へ帰る。
だが、この影にはそれが分からないのかもしれない。
「こいつ、終わり方を知らないんじゃないか?」
景真が言う。
「影を踏めば相手が追いかけてくれる。だから、また踏む。追ってこなかったら、影を引っ張ってここまで連れてくる」
紅緒の表情が少し緩んだ。
「悪意があるわけではない、ということ?」
「悪意がないから安全、とは限らないけどね」
深影が淡々と答える。
「あの足跡がもっと濃くなったら、どうなるか分からない」
その言葉で、紅緒は再び気を引き締めた。
小さな影は、そんな三人のやり取りなど気にしていない。
また子どもの影へ近づこうとする。
影蛇がその前へ滑り込んだ。
小さな影がぴたりと止まる。
影蛇も止まる。
しばらく、黒いもの同士が向かい合った。
「……何してるんだ?」
景真が小声で訊く。
「見てる」
「何を?」
「向こうも、こっちを」
次の瞬間、小さな影が跳ねた。
影蛇の頭を踏もうとする。
影蛇がするりとかわす。
また踏もうとする。
またかわす。
小さな影の動きが、明らかに変わった。
子どもたちではなく、深影の影蛇を追い始めている。
「気に入られたみたいだな」
景真が言うと、深影は少しだけ目を細めた。
「わたしじゃなくて、この子たちがね」
足元からもう一匹、影蛇が現れる。
小さな影はそちらにも反応した。
二匹の影蛇が左右へ分かれる。
影はどちらを追うか迷うようにその場で揺れた。
それから、ふいに動きを止める。
顔のない輪郭が、ゆっくり深影へ向いた。
正確には。
深影の足元へ。
そこには、人の影より濃く落ちた黒い輪郭と、その中を泳ぐ影蛇たちがいる。
「深影」
紅緒が警戒する。
「うん。来るね」
小さな影が地面を滑った。
速い。
一匹目の影蛇が横から飛びかかる。
かわされた。
二匹目も間に合わない。
黒い子どもの足が、深影自身の影へ触れる。
踏んだ。
深影の足元。
影の中に、さらに一段深い闇が沈む。
小さな裸足の跡だった。
「深影!」
紅緒が声を上げる。
次の瞬間、深影の影が一歩前へ出た。
ほんの一拍遅れて、深影の身体も同じ方向へ引かれる。
黒髪が揺れた。
景真が咄嗟に腕を伸ばす。
だが深影は自分で踏みとどまった。
驚いた様子はない。
むしろ、自分の足元にできた黒い足跡を興味深そうに見つめている。
「……なるほど」
「なるほど、じゃないだろ。大丈夫か?」
景真が訊く。
深影はもう一度、自分より先に動こうとする影を見下ろした。
そして、小さな影へ視線を戻す。
口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「わたしも参加したみたい」




