第十二話「夕暮れの影踏み」①
玄嶺から幽京へ戻った日の夕方。
北門をくぐった景真は、見慣れた城壁の内側へ入った途端、思わず肩の力を抜いた。
雪の山道を歩き続けたせいか、幽京の空気が妙に暖かく感じる。玄嶺から流れ込んでいた異常な冷気もほとんど消え、通りを行く人々の服装も、出発した朝ほど厚くはなかった。
「やっと帰ってきたな」
「帰りは何も起こらなくてよかったわ」
紅緒が隣で答える。
その後ろでは、五十鈴が大きく伸びをしていた。
「いやあ、歩きましたねえ。報酬がよくなかったら、帰り道で心が折れてたかもしれません!」
「最後までそこなんだな」
「大事ですから!」
北門から少し進んだところで、五十鈴とは別れた。ものの歩へ報告に戻るらしい。
「では、お二人とも! また何かありましたら!」
「今度は寒くないところがいいな」
「私に言われても困りますよ!」
手を振って走っていく五十鈴を見送り、景真と紅緒は御伽館へ向かった。
館の戸を開けると、受付台の向こうに見慣れた黒い瞳があった。
深影が頬杖をついている。
「おかえり」
「ただいま」
景真が答えると、深影の細い舌がちろりと覗いた。
「寒かった?」
「お前が言うなよ」
「だから行かなかったんだよ」
少しも悪びれていない。
紅緒が羽織を脱ぎながら呆れたように息を吐く。
「留守番していただけでしょう」
「してたよ。ちゃんと」
「暇だった?」
景真が訊くと、深影は受付台の下へ手を伸ばした。
出てきたのは、何枚かの依頼札と書き付けだった。
「別に。こっちも変なの来てたから」
「変なの?」
「影」
深影は一番上の札を、景真の前へ滑らせた。
「踏まれるんだって」
「……影を?」
「ううん。影に」
景真と紅緒が顔を見合わせた。
*
翌朝。
御伽館を訪れたのは、昨日この件を相談に来た母親と、その息子だという十歳ほどの少年だった。深影が「本人を連れて、明日の朝もう一度来て」と伝えていたらしい。
少年は母親の袖を握ったまま、受付台の前で落ち着かなさそうに足元を見ている。朝の日差しを受けて、床には二人の影が短く伸びていた。
八重がいつもの席に座り、その隣で深影が話を聞く。景真と紅緒も、少し離れた卓から同席していた。
「それで、影を踏まれたっていうのは?」
八重が促すと、少年は母親を見上げた。母親が背中を軽く押す。
「昨日じゃなくて、その前の日です」
少年が小さな声で話し始めた。
「友達と、広場で影踏みをしてました」
「影踏み?」
景真が思わず聞き返す。
「知ってるの?」
深影がこちらを見る。
「俺のいた世界にもあったよ。夕方とかに、相手の影を足で踏む遊び」
「影を踏むだけで楽しいの?」
「子どもの遊びって、そういうもんだよ」
深影は納得したのかしていないのか分からない顔で、もう一度少年へ視線を戻した。
「何人で遊んでたの?」
「四人です」
「影も四つ?」
少年の顔が強張った。
「最初は」
部屋の空気がわずかに変わる。
「日が傾いて、影が長くなったころに……一つ増えたんです」
紅緒が眉を寄せた。
「誰かが近くにいたのではなく?」
「いませんでした。ぼくたち四人だけなのに、影は五つあって」
少年は自分の足元を見る。
「その影、走ってたんです。地面の上を。誰もいないのに」
景真の背中に薄い寒気が走った。玄嶺の冷気とは別のものだった。
「それで、その影に踏まれた?」
深影が訊く。
少年は頷いた。
「ぼくの影の足を、踏まれました」
「その時、何かあった?」
「何も。でも次の日の夕方から……」
そこで少年は口を閉じた。
母親が代わりに言う。
「この子の足が、勝手に動くんです」
昼の間、少年には何も起こらなかった。
念のため身体を確かめた紅緒も、目立った妖気や呪いの痕跡は見つけられない。歩かせても走らせても、少年の動きに異常はなかった。
ただ深影だけは、何度も少年の影を見ていた。
「何か分かる?」
景真が訊く。
「まだ」
深影はしゃがみ込み、床へ指先をつけた。
足元の影がわずかに揺れ、そこから細い蛇の形が一匹だけ抜け出す。
影蛇は床を滑り、少年の影の周りをゆっくり回った。
少年が驚いて一歩下がる。影も同じだけ下がった。
「大丈夫。噛まないよ」
「影なのに噛むの?」
景真が訊く。
「噛もうと思えば」
「今その説明いるか?」
少年の顔が余計に強張ったので、深影は影蛇を少し遠ざけた。
やがて日が西へ傾き始めた。
窓から差し込む光が赤みを帯び、床に落ちる影が少しずつ長くなる。
その時だった。
「……来る」
深影が言った。
少年の影が、揺れた。
本人は動いていない。
それなのに床へ伸びた黒い輪郭の右足だけが、ゆっくりと前へ出る。
「え……」
少年が息を呑む。
次の瞬間。
少年の身体が、前へ一歩引かれた。
「っ!」
母親が腕を掴む。
「今、自分で歩いた?」
紅緒が訊く。
少年は必死に首を横へ振った。
「動いてません!」
また影が一歩進む。
身体が遅れて引かれる。
まるで、影の方が本体になったようだった。
紅緒が少年を支えようとするより早く、深影の影蛇が少年の影へ這い寄った。
黒い蛇の頭が、影の足元で止まる。
深影の真っ黒な瞳が細くなる。
「あった」
「何が?」
「踏まれた跡」
深影が指差す。
少年の影の足首あたり。
影の中なのに、そこだけさらに一段深い闇が沈んでいた。小さな裸足の跡に見える。
景真には最初、ただ影が濃くなっているだけに見えた。だが目を凝らすと、五本の指までくっきりと形を結んでいる。
「これが引っ張ってるの?」
紅緒が訊く。
「たぶん」
深影が影蛇を近づけると、黒い足跡がぴくりと動いた。
まるで生きているものが、触れられるのを嫌がったように。
*
その日のうちに、同じ相談が二件増えた。
いずれも子どもだった。
場所も同じ。幽京の裏通りにある小さな広場。夕暮れに友人たちと影踏みをしていた。知らない影が一つ混ざり、その影に自分の影を踏まれた。
そして翌日の夕方から、影が勝手に歩き始めた。
三人の子どもを御伽館の広間へ集め、日が落ちる前に様子を見ることになった。
八重は家族たちを落ち着かせ、高平は念のため館の出入口を閉めさせる。紅緒は札を用意し、景真は三人の話を並べて書き留めていた。
深影だけは、子どもたちの足元を順番に見ていた。
夕暮れが近づく。
三つの影が、床の上で長く伸びる。
最初の少年の影が動いた。
続いて二つ目。
三つ目。
ほとんど同時だった。
「来た!」
紅緒が身構える。
三人の身体が、それぞれ一歩ずつ引かれる。
向きはばらばらではなかった。
全員が、同じ方角へ進もうとしている。
景真は三つの影の先を目で追った。
「同じ方向だ」
「ええ」
紅緒も気づく。
その先にあるのは、御伽館の戸口だった。
深影は少しだけ首を傾げた。
「この影、逃げたいんじゃない」
「じゃあ、何なんだ?」
影蛇が三つの黒い足跡を順番に嗅ぐように頭を寄せる。
深影は戸口の向こう、夕暮れの街を見た。
「どこかへ連れていこうとしてる」
その言葉を待っていたように、三人の影が同時にもう一歩進んだ。
今度は身体まで大きく引かれる。
母親たちの悲鳴が重なった。
深影の足元で、影蛇が一斉に頭を上げる。
「行ってみよう」
「どこへ?」
景真が訊く。
深影は、夕闇へ伸びていく三つの影を見た。
「この子たちの影が、行きたいところ」




