第十一話「恋に恋する雪女」④
秘湯まほろばから里へ戻ったころには、空はすっかり暗くなっていた。
雪女の里には小さな灯りが点々と浮かび、積もった雪を橙色に染めている。昼間までの騒がしさが嘘のように、辺りは静かだった。
客間で夕餉を済ませたあと、景真は少しだけ外へ出た。
温泉で身体は温まったはずなのに、冷たい夜風が頬に心地よかった。
里の外れまで歩くと、石柱の向こうに玄嶺の山々が見えた。昨日まで荒れ狂っていた玄氷脈も落ち着き、今は遠くで風が鳴るだけだ。
「……ようやく静かになったな」
今日一日のことを思い返す。
相合傘。菓子。薪。そして最後には男湯。
静かだったかと言われれば、まったくそんなことはなかった。
「景真さん」
振り返ると、少し離れたところに恋白が立っていた。
「恋白」
昼間までなら、こちらを見つけた途端に嬉しそうに近づいてきただろう。
けれど今の恋白は、その場で一度立ち止まった。
「隣、よろしいですか?」
景真は少し意外に思った。
「ああ」
返事を聞いてから、恋白が隣まで歩いてくる。
それだけの違いだった。だが、朝から彼女に振り回されていた景真には、その一言が妙に印象に残った。
二人でしばらく雪山を眺める。
恋白の胸元には、いつもの絵草子がしまわれている。けれど、手を伸ばす様子はなかった。
「景真さん」
「ん?」
「私、間違っていたんでしょうか」
景真はすぐには答えなかった。
「何が?」
「恋の仕方です」
恋白は自分の手元を見た。
「宵待星乃先生の絵草子を読んで、ずっと恋をしてみたいと思っていました。誰かと出会って、一緒に過ごして、運命みたいに好きになって」
「うん」
「だから景真さんに会った時、これがそうなんだと思ったんです」
雪山で迷った自分を、外から来た男が捜しに来る。
物語として見れば、確かに恋白の好きそうな始まり方なのかもしれない。
「でも姉さまに言われて、少し分からなくなりました」
「俺のことが?」
「恋が、です」
恋白は困ったように眉を寄せた。
「私は景真さんが好きだから、絵草子と同じことをしたかったのでしょうか。それとも、絵草子みたいな恋をしたかったから、景真さんを好きになろうとしていたのでしょうか」
景真は頭を掻いた。
「難しいこと聞くなあ」
「景真さんなら分かるかと思って」
「俺だって恋愛の先生じゃないぞ」
ましてや、宵待星乃ほどの知識もない。あれを知識と呼んでいいのかは別として。
少し考えてから、景真は言った。
「でも、朝の恋白は俺じゃなくて、恋ってものを見てた気はする」
恋白が顔を上げる。
「相合傘も、隣に座るのも、同じ薪を持つのもさ。俺がどう思うかより、絵草子と同じことをする方が大事だっただろ?」
恋白は黙って考え込んだ。
「……そうかもしれません」
「だからって、全部間違いだったってことでもないんじゃないか」
「そうなんですか?」
「少なくとも、今日一日ずっと嫌だったわけじゃないだろ?」
恋白は瞬きをした。
そして、ゆっくり今日の出来事を思い返すように目を伏せる。
「楽しかったです」
答えは早かった。
「傘の下を歩いたのも、景真さんの隣でお菓子を食べたのも、薪を一緒に運んだのも」
そこで少し間が空く。
「温泉は?」
「あれは、もうしません」
「そうしてくれ」
景真が笑うと、恋白も小さく笑った。
「でも、景真さんと一緒にいたこと自体は、楽しかったです」
今度の言葉には、宵待星乃の名前が出なかった。
絵草子のどの場面にも照らし合わせず、恋白自身がそう言った。
「じゃあ、今はそれでいいんじゃないか?」
「それで、いいんでしょうか」
「無理に今日中に答え出す必要もないだろ。俺のことも、恋ってものも、これから知ればいい」
恋白は景真を見た。
朝のような、物語の主人公を見る目ではなかった。
ただ目の前にいる一人の人間を確かめるような、静かな視線だった。
「……はい」
それから恋白は、少しだけ嬉しそうに笑った。
*
少し離れた建物の陰では、その様子を二人が見ていた。
「なるほど……」
五十鈴が小さく呟く。
隣にいた紅緒が、すぐに振り返った。
「何が?」
「いえ。恋白さん、今日はもう突撃しねえんだなって」
「紗白さんにあれだけ言われたもの。当然でしょう」
紅緒の返事は平静だった。
けれど視線は、また景真と恋白の方へ戻っている。
二人はただ並んで話しているだけだ。朝のように距離が近いわけでもない。恋白が何か仕掛けているわけでもない。
それなのに。
紅緒の胸の奥には、まだ小さな棘が残っていた。
「紅緒さん」
「何?」
五十鈴が何か言いかける。
「もしかして――」
真紅の瞳が五十鈴に向いた。にこりともしていない。
五十鈴は瞬時に判断した。
「……明日の帰り道、雪大丈夫ですかね?」
「何で急に天気の話になるのよ」
「死にたくねえからです! 色んな意味で!」
五十鈴はそれ以上何も言わなかった。
何となく分かってしまったことは、今は胸の内へしまっておくことにした。
*
翌朝。
玄嶺の空はよく晴れていた。
景真たちは雪女の里の入口で、帰り支度を整えていた。
玄氷脈は夜の間も安定していたらしく、南へ流れる異常な冷気もほとんど感じない。これなら幽京へ戻っても、ひとまず小夜へ良い報告ができそうだった。
見送りには紗白と恋白が来ていた。
「改めて礼を言う。景真殿、紅緒殿、五十鈴殿。玄氷脈の件はこちらでもしばらく警戒しておく」
「お願いします。こちらからも陰陽寮へ報告しておきます」
紅緒が答える。
「五十鈴殿も、道中頼んだぞ」
「任せてください! 帰り道なら目ぇつぶってても――」
「目は開けて歩け」
「たとえです!」
紗白がわずかに口元を緩めた。
その横で、恋白は昨日までと違い、おとなしく立っていた。
「じゃあな、恋白」
景真が声をかける。
「はい。また会いに来てください」
「機会があればな」
普通の別れだった。
少なくとも、景真はそう思った。
「その時までに、私、もっと景真さんのことを知っておきます」
景真の足が止まる。
「俺のこと?」
「はい。好きな食べ物とか、好きな場所とか、何をしている時が楽しいのかとか」
「何で?」
恋白は少し考えた。
そして、昨日までのように絵草子へ答えを求めることなく言った。
「今度は、ちゃんと景真さんを好きになるためです」
「…………」
景真は言葉を失った。
隣で五十鈴が小さく「おお」と声を漏らす。
紅緒は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目が細くなった。
「恋白」
紗白が妹を呼ぶ。
「はい?」
「ほどほどにな」
「はい」
恋白は素直に頷いた。
景真には、その「はい」がどこまで分かっているのか少し不安だった。
三人は里をあとにした。
雪の道を南へ下る。振り返れば、恋白はまだ里の入口に立ち、こちらへ手を振っている。
景真も軽く手を上げて返し、前を向いた。
しばらく歩いたところで、隣の紅緒が妙に静かなことに気づく。
「紅緒」
「何?」
「やっぱり何か怒ってる?」
「別に」
「昨日からずっとそんな感じじゃないか?」
「知らない」
「何が?」
「知らないったら」
紅緒は歩調を少し速めた。
「お、おい。待てよ」
景真がその背中を追う。
少し後ろを歩く五十鈴は、二人を見比べてから口元を緩めた。
「……こっちも、まだまだだべなあ」
誰にも聞こえない声で呟き、五十鈴も二人のあとを追った。
玄嶺の山には、昨日までのような異常な冷気はもう流れていない。
それでも紅緒の胸の奥には、どうにも収まりの悪いものが残ったままだった。
雪女が景真へ向けた笑顔を思い出すたび、なぜだか少しだけ面白くない。
その理由を、紅緒はまだうまく言葉にできずにいた。




