第十一話「恋に恋する雪女」③
秘湯まほろばは、雪女の里からさらに山道を登った先にあった。
木々の間を抜けると、白い湯気が雪景色の中から立ち上っている。岩に囲まれた谷の一角に湯が湧き、細い流れとなって雪の下へ消えていた。
昨日までの吹雪が嘘のように空は穏やかで、積もった雪が夕方の淡い光を返している。
「おお……!」
五十鈴が真っ先に声を上げた。
「ほんとに温泉だべ!」
「さっきから温泉だって言ってたでしょう」
紅緒が呆れたように返す。
「聞くのと見るのは違いますよ! しかも無料!」
「最後の一言で全部台無しだな」
景真が笑うと、五十鈴はまるで気にしていなかった。
少し先を歩いていた紗白が振り返る。
「ここが、まほろばだ。玄氷脈から離れているおかげで、里より少し暖かい。昨日の疲れも残っているだろう。ゆっくり休んでいってくれ」
「ありがとうございます、紗白さん」
紅緒が頭を下げる。
岩場の奥には簡素な木造の小屋があり、その左右へ細い通路が分かれていた。入口には、それぞれ男湯と女湯を示す札が掛かっている。
景真は右側の札を見て、それから左を見る。
「じゃあ、ここで別れるのか」
「当たり前でしょう」
紅緒が即答した。
恋白は二つの札をじっと見比べていた。
「…………」
その視線が、ゆっくり景真へ移る。
朝から何度も見た目だった。何か思いついた時の顔だ。
「恋白」
紅緒が先に声をかけた。
「はい?」
「何も考えてないわよね?」
「もちろんです」
恋白は微笑んだ。
「では、あとで」
そう言って女湯の方へ歩いていく。
紅緒はしばらく、その背中を見送っていた。
*
しばらくして。
湯に浸かった景真は、ようやく肩の力を抜いた。
周囲を囲む岩の向こうには雪をかぶった木々が見える。湯気の向こうから聞こえるのは、湯が岩を伝って流れる音だけだった。
昨日は玄嶺の山を歩き回り、今日は朝から恋白に振り回され続けている。
「……やっと静かになった」
誰に言うでもなく呟く。
女湯とは高い岩壁と木の仕切りで隔てられているらしく、向こう側の声もほとんど聞こえない。
景真は目を閉じた。
温かな湯に浸かっていると、この二日間の疲れがようやく身体から抜けていく気がする。
少なくとも、今だけは何も起こらないだろう。
そう思った直後だった。
「景真さん」
目を開けた。
聞き間違えるはずのない声だった。
男湯の入口に、恋白が立っていた。
身につけているのは、湯浴み用の薄衣だろう。雪女らしい色白の肌がうっすらと見えている。だと言うのに、恋白はいつもと変わらない穏やかな顔をしていた。
「うわああぁ!」
「お邪魔します」
「待て待て待て!」
景真の声が岩場に響いた。
「何でいるんだ!?」
「会いに来ました」
「そういう意味じゃない! ここ男湯だぞ!」
恋白は入口の札を振り返った。
「知っています」
「知ってて来たのかよ!」
恋白は不思議そうに首を傾げる。
「ですが、恋を深めるには、二人きりでゆっくりお話しする時間が大切だと」
「誰が言ったんだ」
「宵待星乃先生です」
やっぱりだった。
景真は額を押さえたくなったが、今は湯から出るわけにもいかず、その場から恋白を見るしかない。
「絵草子に、男湯へ入れって書いてあったのか?」
「同じ湯殿で、二人が心を通わせる場面がありました」
「その二人、たぶん先にもっと色々あっただろ!」
恋白は少し考えた。
「確かに、三巻ほど前から想い合っていました」
「そこを飛ばすな!」
景真の声が再び響いた。
その時、男湯の入口が勢いよく開いた。
「どうしたの!?」
*
駆け込んできたのは、湯浴み用の衣を身につけた紅緒だった。景真の叫び声を聞いて、何かあったと思ったのだろう。
紅緒ももうすでに一度湯に浸かったのだろう。薄衣は肌にぴっちりと張り付き、身体の線をうかびあがらせている。
「何があったの!?」
「何でお前まで来るんだよ!」
紅緒はそこでぴたりと止まった。
景真。
恋白。
そして、入口に掛かった「男湯」の札。
「…………」
数秒遅れて、紅緒の表情が変わった。
「何で恋白がここにいるの!?」
「景真さんに会いに来ました」
「会いにって、ここ男湯でしょう!?」
「知っています」
「知ってて来たの!?」
「俺もさっき同じこと言った!」
景真の声がまた大きくなる。
恋白は二人が慌てている理由がよく分からないらしく、穏やかな顔のままだった。
「宵待星乃先生の絵草子では、同じ湯殿で二人が心を通わせて――」
「今はその話じゃない!」
「その先生の話はいったん忘れて!」
景真と紅緒の声が重なった。
恋白が少しだけ目を丸くする。
その騒ぎの少し外。入口の陰から、五十鈴がそっと顔だけ覗かせていた。
「……やっぱりこうなったべ」
朝から恋白の様子を見ていたせいか、それほど驚いてはいない。むしろ予想が当たったような顔をしている。
「五十鈴! 見てないで助けて!」
紅緒が叫ぶ。
「おらまで入ったら、もっとややこしくなるだけです!」
もっともな返事だった。
「じゃあ紗白さんを呼んできて!」
「はい!」
五十鈴の顔がすっと引っ込んだ。紅緒に対する逃げ足だけは妙に速い。
紅緒は改めて恋白へ向き直る。
「恋白。とにかく出るわよ」
「でも、まだ景真さんと――」
「出るの!」
恋白は景真を見た。
「景真さんも、そう思いますか?」
「頼むから、いったん出てくれ」
「……はい」
ようやく恋白が頷く。
紅緒が恋白を連れて入口へ向かいかけたところで、ぴたりと足を止めた。
「…………」
「今度はどうした?」
「……私も男湯に入ってるじゃない」
「今気づいたのかよ!」
「あなたがあんな声で叫ぶからでしょう!」
叫びながら、紅緒は腕で身体を隠した。色白の頬が真っ赤に染まっている。
「俺のせいなのか!?」
「いいから、もう何も言わないで!」
紅緒は耳まで赤くしたまま、恋白を連れて足早に出ていった。
景真は一人残され、深く息を吐いた。
「……何なんだ、これ」
*
騒ぎのあと、恋白は仁王立ちする紗白の前で正座していた。
その周りには、仏頂面の紅緒、普段通りの五十鈴、そして疲れきった顔の景真の三者三様が立っている。
「恋白」
静かな、しかし威厳を感じる声で紗白が言った。
「はい、姉さま」
「なぜ男湯へ入った?」
「景真さんとの仲を深めるためです」
迷いのない答えだった。
紗白は目を閉じ、しばらく黙った。
「また絵草子か」
「はい」
「そうか」
紗白は小さく息を吐く。
「恋白。現実と絵草子は違う」
恋白が顔を上げた。
「だが、絵草子の二人も同じ湯殿に――」
「その二人は、互いにそうしたいと思っていたのだろう?」
恋白が言葉を止める。
「景真殿はどうだった?」
今度は、すぐに答えなかった。
恋白が景真を見る。
景真は何も言わず、ただ見返した。
「……驚いていました」
「そうだな」
「困ってもいました」
「そうだ」
紗白は静かに頷く。
「相手の気持ちを考えず、絵草子にあることを順番になぞるだけなら、それは恋ではないだろう」
恋白は黙った。
朝から何を言われても絵草子を根拠に返していた彼女が、初めて何も言い返さなかった。
「恋にのぼせるのは構わないが、湯にまでのぼせて周りを見失うな」
紗白は言ったあと、自分の言葉を反芻した。
そして、ふっと口元を緩める。
「……ふふっ。恋と湯、どちらものぼせる、か」
一人だけ小さく笑った。
誰も笑わなかった。
恋白に至っては、聞こえなかったかのように景真の方を見たままだった。
ひとしきり満足したのか、紗白は何事もなかったように表情を戻す。
「ともかく、景真殿には私からも詫びる。すまなかった」
「いえ……まあ、何もなかったので」
景真は曖昧に答えた。
「恋白も謝れ」
恋白は少し間を置いてから、景真へ向き直った。
「景真さん。ごめんなさい」
「うん。次からは、先に相手に聞いてくれ」
「はい」
返事は素直だった。
けれど、その声は朝までとは少し違って聞こえた。
恋白は胸元の絵草子へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
そして初めて、その本を開かないまま景真を見る。
何かを確かめようとするような、静かな視線だった。




