第十一話「恋に恋する雪女」②
一本の傘の下を、景真と恋白は並んで歩いていた。
雪は細かく、風も弱い。傘が必要なほどではない。それでも恋白は満足そうだった。
「これが、相合傘というものなんですね」
「たぶんそうだけど」
「宵待星乃先生の絵草子では、とても大切な場面として描かれていました」
恋白はそう言って、少しだけ傘を景真側へ傾ける。
「景真さん、濡れていませんか?」
「そもそも大して降ってない」
「そういう問題ではありません」
「どういう問題なんだよ」
返事はなかった。恋白にとっては、同じ傘に入っているという事実そのものが重要らしい。
里の細い道を一周して客間へ戻るころには、雪はほとんど止んでいた。
これで満足したのだろう、と景真は思った。
甘かった。
昼前。
里の者から温かい茶と菓子をもらい、景真たちが客間で休んでいると、恋白が当然のように景真の隣へ座った。
「また隣なの?」
紅緒が訊く。
「はい。好きな人とは、できるだけ近くにいるものだそうです」
「まだ好きかどうかも分からないって言ってなかった?」
恋白は少し考えた。
「では、好きになる予定の人です」
「予定って何よ」
紅緒の返事が少しだけ早かった。
五十鈴が茶をすすりながら、二人を交互に見る。
「恋白さん、ずいぶん積極的ですねえ」
「絵草子で勉強しましたから」
恋白は胸を張った。
「恋をするなら、待っているだけではいけないそうです」
「へえ。すごいですね」
「五十鈴、感心しないで」
「はい」
紅緒に言われ、五十鈴は素直に茶へ戻った。
その時、景真が菓子を一つ口へ運んだ。
恋白の視線が、ぴたりと止まる。
「景真さん」
「今度は何?」
恋白が身を乗り出し、景真の頬へ手を伸ばした。
その手が届くより先に、紅緒の声が飛ぶ。
「景真」
「何だ?」
「自分で取りなさい」
「何を?」
景真は頬を触った。何もない。
「何もついてないけど」
恋白も首を傾げた。
「はい。ついていません」
「じゃあ何を取ろうとしたんだよ」
「絵草子では、こういう時に頬についたものを取ってあげるんです」
「ついてからやれ」
景真が呆れる横で、紅緒が無言で茶を飲んだ。
五十鈴は口元を隠している。笑いを堪えているのが丸分かりだった。
しばらくして、景真はふと思った。
「恋白って、そもそも男とこういう話をしたことあるのか?」
恋白はあっさりと首を横に振った。
「ありません」
「ないの?」
「殿方とこうしてお話ししたのも、景真さんが初めてです」
景真は言葉を失った。
紅緒も一瞬だけ目を見開く。
「それで、どうしてそんなに自信満々なのよ」
「知識はありますから」
恋白は真顔だった。
「宵待星乃先生の絵草子を何冊も読んでいます」
「それを知識って呼んでいいのか……?」
景真の疑問に、恋白だけが不思議そうな顔をしていた。
*
午後になるころには、恋白の「勉強」はさらに続いていた。
景真が里の外れから雪山を眺めていれば隣へ来る。
里の者から干した果実をもらえば、自分の分を半分差し出してくる。
景真が薪を運ぶのを手伝えば、なぜか同じ一本を一緒に持とうとする。
「これ、一人で持てるぞ」
「二人で持つ方が仲が深まります」
「薪で?」
「はい」
根拠はすべて絵草子だった。
最初こそ戸惑っていた景真も、何度目かには諦め始めていた。
一方、紅緒は諦めていなかった。
「景真、その薪はこっちよ」
「今持っていく」
「景真、次は水桶をお願い」
「分かった」
「景真、そのあとは紗白さんに昨日の柱のことを確認して」
「急に仕事増えてない?」
「気のせいよ」
気のせいではない気がした。
少し離れたところで、五十鈴が紅緒をじっと見ていた。
「紅緒さん」
「何?」
「今日、ちょっと怖くないですか?」
「普通よ」
「でも、恋白さんが景真さんに近づくたびに――」
「五十鈴さん」
紅緒が笑った。なぜか、さん付けだった。
笑顔なのに、五十鈴は姿勢を正す。
「はい」
「何かしら?」
「何でもねえです」
五十鈴は賢明だった。
そのやり取りを知らない景真は、紅緒のところへ戻ってくる。
「なあ、紅緒」
「何?」
「今日、機嫌悪くない?」
紅緒の眉が動いた。
「悪くないわ」
「でも朝から――」
「悪くない」
「……はい」
それ以上聞くのはやめた。
紅緒自身にも、うまく説明できなかった。
恋白が景真の隣へ行く。
恋白が景真へ笑いかける。
恋白が絵草子の真似をして景真との距離を縮める。
そのたび、胸の奥に小さな棘のようなものが引っかかる。
理由を考えようとすると、余計に面白くない。
だから紅緒は、考えるのをやめた。
*
そんな様子を、いつの間にか少し離れた場所から見ている者がいた。
「恋白」
落ち着いた声に、恋白が振り返る。
「姉さま」
紗白が立っていた。
石柱の点検を終えたのだろう。昨日までの張り詰めた様子は薄れているが、里長らしい堂々とした雰囲気は変わらない。
「何をしている?」
「恋です」
恋白は即答した。
紗白は黙った。
景真も黙った。
五十鈴は少し離れたところで顔を伏せた。
紅緒だけが腕を組んでいる。
「……そうか」
紗白は一度頷いた。
それから景真を見る。
「景真殿」
「はい」
「景真殿は了承しているのか?」
「してません」
景真は即答した。
「これからしてもらう予定です」
恋白が続ける。
紗白は妹へ視線を戻した。
「それは恋ではないだろう」
「そうでしょうか?」
「少なくとも、相手を置いて一人で進めるものではないと思うが」
恋白が少し考える。
「ですが、宵待星乃先生の絵草子では――」
「その宵待星乃という人物を、私は少し問い詰めたい」
景真と紅緒が同時に顔を見合わせた。
やめておいた方がいい。
言葉にはしなかったが、二人の考えは一致していた。
紗白は小さく息を吐いた。
「里の外へ出たと思えば帰ってこず、帰ってきた翌日には恋か。忙しい妹だな」
「姉さま。恋は突然始まるものだそうです」
「それも絵草子か?」
「はい」
「そうか」
紗白の返事は平坦だった。
しかし景真には、少しだけ疲れて聞こえた。
*
紗白が来たのは、恋白を叱るためだけではなかった。
「ちょうど皆を探していた。昨日の礼について話がある」
「礼?」
五十鈴がすぐに反応した。
「昨日、景真殿たちには玄氷脈の異変を収めるのを助けてもらい、恋白まで捜してもらった。このまま何もせず帰すわけにはいかない」
「気にしなくてもいいですよ。もともと調査で来たんですから」
紅緒が答えると、紗白は首を横に振る。
「それはこちらの事情とは別だ。それに恋白の件については、姉としても詫びたい」
「姉さま、私は別に迷惑を――」
「かけている」
「はい」
恋白は素直に引き下がった。
紗白は山の奥へ視線を向ける。
「この里から少し離れたところに、湯が湧く場所がある」
「温泉ですか?」
景真が訊く。
「そうだ。里では『まほろば』と呼んでいる。山の岩間から湧く湯で、普段は里の者くらいしか使わない」
五十鈴の目が輝いた。
「それ、私たちも入っていいんですか?」
「そのつもりで話している」
「無料ですか?」
「五十鈴」
紅緒が横から制する。
「大事なところです!」
紗白は一瞬だけ五十鈴を見て、少し微笑んだ。
「もちろん、金は取らない」
「行きます!」
「返事が早いな」
景真が笑う。
昨日から歩き通しだったことを思えば、温泉はありがたい。紅緒も異論はないらしく、小さく頷いた。
その横で、恋白だけが別の反応をしていた。
「温泉……」
小さく呟き、胸元にしまっていた絵草子へそっと手を添える。
そして何かを確かめるように、景真を見る。
紅緒がその視線に気づいた。
「……恋白」
「はい?」
「何を考えてるの?」
「まだ秘密です」
朝と同じ答えだった。
紅緒の嫌な予感だけが、なぜか朝より強くなった。




