第十一話「恋に恋する雪女」①
朝。
景真が目を覚ますと、障子の向こうが白く明るんでいた。
昨夜まで山を覆っていた荒々しい風の音はない。耳を澄ませば、屋根から時折雪の塊が落ちる鈍い音と、遠くで誰かが雪を踏む音が聞こえるくらいだった。
布団から起き上がり、景真は障子を少し開けた。
雪女の里は、朝日に照らされて淡く輝いていた。家々の屋根には厚い雪が積もり、昨日あれほど吹き荒れていた冷気も嘘のように穏やかだ。
玄氷脈の異常は、ひとまず収まったらしい。
「……平和だな」
思わず漏れた声に、自分で少し笑う。
昨日は幽京を出てからずっと歩き通し、雪女の里へ着けば石柱が壊れ、今度は行方不明になった恋白を捜して山を登った。最後には玄氷脈まで再び暴れ出した。
それに比べれば、静かな雪の朝というだけでありがたく感じる。
身支度を整えて部屋を出ると、廊下の先から香ばしい匂いが漂ってきた。
客間の隣では、すでに紅緒と五十鈴が朝餉を前に座っている。
「おはよう、景真」
「おはようございます!」
「おはよう。二人とも早いな」
五十鈴の前には、温かな汁物と山菜、小さな焼き魚が並んでいた。その視線は妙に真剣で、もう箸を持っている。
「昨日あれだけ動いたんですから、腹減るのは当然です!」
「まだ誰も止めてないぞ」
景真が腰を下ろした、その時だった。
「おはようございます」
静かな声とともに、恋白が膳を持って入ってきた。
「ああ。おはよう」
景真が答える。
恋白はにこりと笑った。
それから、景真を見た。
一度、目を逸らす。
また見る。
そして、なぜかもう一度微笑んだ。
「……何?」
「いえ」
恋白は何事もなかったように五十鈴の前へ膳を置いた。続いて紅緒。最後に景真の前へ置く時だけ、少し丁寧に位置を直す。
「どうぞ、景真さん」
「ありがとう」
恋白はそのまま立ち去る――かと思った。
「景真さん。お隣、よろしいですか?」
「え?」
景真の隣には、ちょうど一人分の空きがある。
「別にいいけど」
「ありがとうございます」
恋白は嬉しそうにそこへ座った。
向かい側で、紅緒の箸が一瞬だけ止まる。
景真は気づかなかった。
五十鈴は気づいたが、焼き魚の方を優先した。
朝餉の間も、恋白は妙だった。
何か話しかけるわけではない。けれど景真が汁を飲めばちらりと見て、五十鈴と話せばまた見て、目が合うと小さく微笑む。
さすがに景真も落ち着かなくなった。
「恋白。さっきから、俺の顔に何かついてる?」
「ついていません」
「じゃあ、何でそんなに見るんだ?」
恋白は少し考えた。
「……確認しています」
「何を?」
「まだ秘密です」
ますます分からない。
紅緒が無言で汁椀を置いた。
*
食後。
紗白は里の者たちと石柱の点検へ向かい、五十鈴は「ちょっと里を見てきます!」と言って外へ飛び出していった。玄嶺出身とはいえ、雪女の里へ入るのは初めてらしい。
紅緒も陰陽寮への報告に必要なことを整理したいと言って、客間に残った。
景真が廊下へ出ると、待っていたように恋白が立っていた。
「景真さん」
「やっぱり何かあるだろ」
恋白はこくりと頷いた。
「昨日、ずっと考えていたんです」
「何を?」
「私たちの出会いについてです」
予想していなかった言葉に、景真は瞬きをした。
「……出会い?」
「はい」
恋白は真剣だった。冗談を言っている顔ではない。
「私は里を出て、雪の中で一人になりました」
「まあ、そうだな」
「帰る道も分からなくなって、あの岩場で待っていました」
「うん」
「そこへ景真さんが来ました」
「俺だけじゃないけどな。紅緒と五十鈴もいたぞ」
「でも、最初に私の名前を呼んだのは景真さんです」
言われてみれば、そうだった気がする。
恋白は胸の前で両手を組んだ。
「誰も来ない雪山で、私を捜して来てくれた殿方が、最初に私を見つけて名前を呼んでくれたんです」
少しずつ、嫌な予感がしてきた。
「それで?」
「運命の出会いだと思います」
「…………」
景真は返事に困った。
昨日の夜、恋白が見せてくれた絵草子を思い出す。離れた二人が運命のように巡り会う恋物語だと言っていた。
「恋白。それ、昨日の本に影響されてないか?」
「もちろんです」
否定するどころか、胸を張られた。
「宵待星乃先生の絵草子には、恋について大切なことがたくさん描かれているんです」
「そうなのか……?」
「はい。ですから私、決めました」
恋白がまっすぐ景真を見る。
「私、景真さんと恋をしてみたいです」
「……してみたい?」
思わず聞き返した。
「はい」
「好き、じゃなくて?」
恋白は考え込んだ。
「それは、これから分かるのではないでしょうか」
「俺に訊かれても困る」
どうやら順序がおかしい。
恋白は景真を好きだから恋をしたいのではない。恋をしてみたいから、景真を相手に選んだらしい。
それを本人は少しも変だと思っていない。
「景真さんは、恋をしたことがありますか?」
「急に答えづらいこと訊くなよ」
「では、一緒に勉強しましょう」
「何を?」
「恋をです」
雪女は、ひどく真面目な顔で言い切った。
*
それから間もなく、紅緒も恋白の話を知ることになった。
景真が客間へ戻ると、恋白も当然のようについてきた。紅緒は報告用の紙を前にしていたが、二人を見るなり筆を止める。
「……どうしたの?」
「恋白が俺と恋をしてみたいらしい」
紅緒の筆先から、墨が一滴落ちた。
「は?」
「ですから、景真さんと恋をしてみたいんです」
恋白が改めて説明する。
紅緒はしばらく何も言わなかった。
「……どうして、そうなったの?」
「宵待星乃先生から学びました」
「誰?」
恋白は待ってましたとばかりに袖から一冊の絵草子を取り出した。昨日の山で抱えていたものだ。
「私の大好きな作家です」
表紙には、やはり「宵待 星乃」とある。
恋白が嬉しそうに頁をめくった。
「特に、このお二人のお話が素敵なんです」
開かれた頁を覗き込み、景真は固まった。
黒い髪を後ろでまとめた女。眠たげな細い目。左腕のあるはずの袖だけが空いている。その隣には、長い髪を編み込み、柔らかな笑みを浮かべる女がいる。
名前も書かれていた。
小宵。
春香。
「…………」
景真は無言で紅緒を見る。
紅緒も無言で景真を見る。
「似てるな」
「似てるどころじゃないでしょう」
御伽館で陽香の原稿を探した時に見た絵が、嫌でも頭に浮かんだ。
「これ……陽香さんじゃないか?」
「たぶんね」
恋白が不思議そうに二人を見る。
「陽香さん?」
「いや、こっちの話」
景真は頁へ視線を戻した。
小宵が猫を抱き、春香がその隣で微笑んでいる。どう見ても、小夜と陽香を少しだけ名前を変えて描いたようにしか見えない。
陽香が「一文字違えば別人」と言い張っていた姿まで思い出してしまった。
「……玄嶺にまで広まってるのか」
「何が?」
「何でもない」
恋白は気にせず、さらに頁をめくる。
「このお話で、私は恋というものをたくさん学びました」
景真は急に不安になった。
「具体的には?」
「好きな人とは、できるだけ近くにいること」
「うん」
「食事は隣でいただくこと」
今朝の行動に説明がついた。
「相手の頬に何かついていたら、取ってあげること」
紅緒の眉がわずかに動いた。
「雨や雪の日には、一つの傘に入ること」
「それ、全部本の中でやってたことか?」
「はい」
恋白は自信満々だった。
その時、障子の向こうで、ぱらぱらと何かが当たる音がした。
景真が窓から外を見る。
朝は晴れていた空から、いつの間にか細かな雪が落ち始めていた。
恋白も窓の外を見る。
そして、絵草子を見る。
もう一度、雪を見る。
顔がぱっと明るくなった。
「景真さん」
「何だよ」
「少し外を歩きませんか?」
嫌な予感しかしない。
それでも、昨日世話になった雪女の頼みを無下に断るほどの理由もなく、景真は外へ出た。
雪はまだ弱い。傘がなくても困らない程度だった。
なのに恋白は、どこから持ってきたのか一本の傘を手にしている。
「どうぞ」
傘が景真の頭上へ差し出された。
「いや、このくらいなら傘いらないだろ」
「必要です」
「何で?」
「一緒に入ることに意味があるんです」
言い切られた。
恋白が景真の隣へ寄る。
一つの傘の下に、二人が並ぶ。
その直後。
「…………」
背後から視線を感じた。
振り返る。
里の建物の軒下に、紅緒が立っていた。
無表情だった。
ただし、なぜかものすごく見られている。
「紅緒?」
「何?」
「いや……何でもない」
景真は前を向き直った。
隣では、恋白が満足そうに微笑んでいる。
昨日まで玄嶺を覆っていた異常な冷気は、もうない。
代わりに、別の意味で落ち着かない一日が始まろうとしていた。




