第十話「玄嶺の地へ」④
雪女の里を出ると、三人は恋白が向かったという道を辿った。
雪は先ほどより深くなっている。風が吹くたび、地表の粉雪が白い煙のように流れ、足跡らしいものはすぐに輪郭を失っていった。
「足跡は、もうほとんど残ってないわね」
紅緒がしゃがみ込み、雪面へ目を凝らす。
「紗白さんも、途中で見失ったって言ってましたね」
「うん。でも、全部消えたわけじゃねえです」
五十鈴が少し先で手を挙げた。
木の根元。風の当たりにくい窪みに、浅い足跡が二つだけ残っている。そこから先は再び雪に埋もれていた。
「こっちへ進んだみてえですね」
「分かるのか?」
「雪山じゃ、消えた跡より残ってる跡を見るんです。風の向きと、雪の溜まり方もありますから」
五十鈴はそう言って胸を張った。幽京にいた時より、こういう場所ではずっと頼もしく見える。
「さすが地元だな」
「だから最初から言ってるでしょう!」
得意げに答えた直後、五十鈴は少し先の斜面を見上げた。
「ただ、この先は道が二つに分かれます。片方は南の集落へ下りる道。もう片方は尾根へ上がる道です」
「恋白さんは、人里へはほとんど下りたことがないって話だったわね」
紅緒の言葉に、景真は紗白の説明を思い返す。
里の周りの山には慣れている。しかし、人里まで下りた経験はほとんどない。外の景色を見たがっていたというなら、人里へ向かった可能性もなくはない。
けれど、何かが引っかかった。
「五十鈴。尾根の方って、何がある?」
「何がって……山ですよ?」
「それは見れば分かる」
五十鈴が首を傾げ、しばらく考える。
「ああ。少し上がったところに、見晴らしのいい岩場があります。天気がよければ南の街道まで見えるはずです」
景真は周囲を見回した。
足跡が残っていた場所のそばには、雪を払ったような跡があった。木の幹にも、手を置いたような浅い窪みが残っている。
「追われてたわけじゃなさそうだ」
「どうして?」
「急いで逃げてるなら、こんなところで何度も止まらないだろ。たぶん景色を見たり、休んだりしながら歩いてた」
そして恋白は、外の景色を見たがっていた。
「尾根へ行ってみよう」
*
三人は進路を変えた。
尾根へ向かう道は急だった。雪に足を取られながら登るほど、風は強くなっていく。紅緒が時折立ち止まり、周囲の妖気を探る。
「……いる」
しばらくして、紅緒が顔を上げた。
「雪女の妖気。すごく薄いけど、この先から感じるわ」
「じゃあ当たりか」
五十鈴が一気に歩調を速める。
やがて木々が切れ、岩の張り出した場所へ出た。
その下に、人影があった。
淡い髪の女が、岩壁を背にして座っている。雪女らしい白い装い。その膝には一冊の絵草子が開かれていた。
「……恋白さん?」
景真が呼びかけると、女は顔を上げた。
一瞬きょとんとしたあと、ゆっくり立ち上がる。
「はい。天谷恋白です」
怪我をしている様子はない。顔色も悪くない。
三人から同時に息が抜けた。
「無事だった……」
紅緒が胸を撫で下ろす。
「紗白さん、すごく心配してましたよ!」
「姉さまが?」
「昨日の昼から戻ってねえんですよ!」
五十鈴の声が山に響く。
恋白はそこで初めて空を見上げた。
「……そんなに経っていました?」
「経ってます!」
恋白は膝の絵草子へ視線を落とした。
「少し遠くまで行ってみようと思って。それで、ここから人の街道が見えたので、しばらく眺めていたんです」
「それで帰らなかったの?」
「帰ろうとはしました。でも夕方から雪が急に強くなって、道が分からなくなってしまって。ここなら風を避けられるので、明るくなるまで待っていたんです。でも朝になっても雪で道が分からなくて、下手に動かない方がいいと思って」
紅緒が小さく息を吐く。
「そういうことなら、無理に動かなかったのは正解ね」
「でも、その前に遠くまで来すぎです!」
五十鈴の追及に、恋白はまた絵草子を見る。
「途中で読んでいたら、時間を忘れてしまって」
「それが原因じゃないですか!」
景真は思わず苦笑した。
緊張して探していた分、力が抜ける。少なくとも、何者かに襲われたわけではなかった。
「とにかく戻ろう。里が大変なことになってる」
その言葉に、恋白の表情が変わった。
「里が?」
景真たちは玄氷脈の異常と石柱の破損を説明した。
聞き終えるころには、恋白から先ほどまでののんびりした空気が消えていた。
「……私の場所も、空いたままなんですね」
「一人抜けただけなら普段は調整できるって、紗白さんは言ってたわ。あなた一人のせいじゃない」
紅緒がはっきりと言う。
「でも、今は戻った方がいい」
「はい」
恋白は絵草子を閉じ、袖の内へ大事そうにしまった。
*
四人は急いで来た道を戻る。
その途中だった。
山の奥から、低い音が響いた。
地鳴りにも、遠雷にも似ている。足元の雪が細かく震える。
「何だ?」
恋白が北を振り返った。
顔から血の気が引く。
「玄氷脈が……!」
次の瞬間、山の向こうから白い風が押し寄せた。
空気そのものが凍りつくような冷気だった。景真は思わず腕で顔を覆う。
「里へ急いで!」
恋白が走り出した。
雪女だけあって、雪の上を進む足取りは驚くほど速い。五十鈴がその後を追い、景真と紅緒も必死についていく。
里へ戻った時、石柱の一つが激しく明滅していた。
「恋白!」
紗白の声が飛ぶ。
「姉さま!」
「話はあとだ。持ち場へ入れ!」
「はい!」
恋白が雪女たちの列へ駆け込む。空いていた石柱の前に立ち、両手を紋へ添えた。
途端、ばらばらだった白い光が一本につながった。
しかし、それだけでは収まらない。先ほど応急処置をした柱が再び軋み、根元の氷に細い亀裂が走る。
「五十鈴!」
「はい!」
紅緒に呼ばれるより早く、五十鈴は籠手を膨らませ、柱へ肩を入れた。
「紅緒殿、先ほどと同じだ。霊力を少しずつ頼む!」
「分かりました!」
紗白の指示で紅緒が術を重ねる。
景真はその場でできることを探した。
石柱の紋が順番に光っている。だが、恋白の隣にある柱だけ、下側の紋様が途中で途切れていた。
「紗白さん! あの柱、下だけ光ってない!」
紗白が目を向ける。
「さっきの吹雪で吹き寄せられた雪と氷だ。紋を繋ぐ溝が埋まっている!」
「どければいいんですね!」
五十鈴の近くにいた雪女がすぐに動き、積もった雪と氷を払う。埋もれていた細い溝が現れ、そこへ白い光が走った。
石柱同士の輝きがつながる。
「今だ。皆、合わせろ!」
紗白の声とともに、雪原いっぱいに白い光が広がった。
北から押し寄せていた冷気が、見えない壁へぶつかる。
一度、大きく雪が舞い上がった。
そして――風が弱まった。
低く響いていた玄氷脈の唸りも、少しずつ弱まっていく。
しばらく誰も動かなかった。
やがて紗白が石柱から手を離す。
「……収まった」
その一言で、あちこちから息を吐く音がした。
完全な修復ではない。だが、少なくとも今すぐ冷気が南へ溢れ出す危険はなくなった。
紗白が恋白を見る。
恋白も姉を見る。
「恋白」
「はい」
「無事でよかった」
まず出てきたのは、その言葉だった。
恋白の表情が少しだけ緩む。
「……ごめんなさい、姉さま」
「だが、帰ると言った時刻は守れ。里の外へ出るなとは言わない。少なくとも、自分がどこまで行くつもりなのかは伝えてからにしろ」
「はい」
「それと、絵草子を読みながら歩くな」
恋白が少しだけ目を逸らした。
「……はい」
五十鈴が小さく吹き出す。
紗白はそれ以上叱らず、今度は景真たちへ向き直った。
「景真殿、紅緒殿、五十鈴殿。本当に助かった。妹を連れ戻してくれたことも、この里を支えてくれたことも、礼を言う」
「私たちは調査に来ただけです」
「その調査で玄嶺が救われた。それで十分だ」
紗白が空を見上げる。
雪雲の隙間から、わずかに夕暮れの光が差していた。
「今から幽京へ戻るのは危険だ。今夜は里で休んでいってくれ」
「いいんですか?」
「こちらから頼みたいくらいだ。それに、礼と詫びも兼ねて、明日は案内したい場所がある」
五十鈴の耳がぴくりと動いた。
「お礼ですか?」
「おい五十鈴」
「いや、だって大事でしょう!」
景真と紅緒が同時に苦笑した。
*
その日の夜。
景真たちは里の客間へ通された。暖を取るための火が焚かれ、ようやく指先の感覚も戻ってくる。
部屋へ向かう途中、廊下の先に恋白の姿があった。
昼間持っていた絵草子を胸に抱えている。
「さっきの本、そんなに好きなのか?」
景真が何気なく訊くと、恋白は少しだけ嬉しそうに表紙を見せた。
「はい。恋のお話なんです。何度読んでも素敵で」
表紙には、景真の知らない名が記されていた。
――宵待 星乃。
「恋の話か」
「はい。離れていた二人が、運命みたいに巡り会うんです」
恋白はそう言ってから、ふと景真を見た。
少しだけ長い視線だった。
「……どうした?」
「いえ。何でもありません」
恋白は絵草子を抱え直し、静かに頭を下げる。
「今日は、本当にありがとうございました。景真さん」
その声はまだ、ただの感謝に聞こえた。
少なくとも、景真には。




