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第十話「玄嶺の地へ」③

 雪女の妖気らしい――。

 その言葉を胸に残したまま、三人はさらに北へ進んだ。

(雪女か……)

 景真の脳裏に、現世で聞いた昔話が浮かんだ。

「俺のいた世界にも、雪女の昔話があったな」

「そちらにも雪女がいるの?」

 紅緒が隣から訊く。

「いるっていうより、昔話の中だけどな。雪の中で人を惑わせたりする怖い話もあった。中には、人の男に恋をした雪女が、その恋心ゆえに最後には想い人を死なせてしまう話もあった」

「……怖い話ね」

「ああ。でも、ただ怖いだけじゃなくて、どこか悲しい話だった」

 五十鈴が前を向いたまま、少しだけ首を傾げた。

「こっちの雪女が、同じだとは限らねえですよ」

「ええ。昔話と、今ここにいる妖怪は分けて考えないとね」

 紅緒の言葉に景真は頷いた。話の中の雪女と、この世界の雪女が同じとは限らない。それでも、その昔話の記憶は妙に胸の奥へ残った。

 道は次第に細くなり、両側から迫る山肌には白い雪が厚く積もっていく。木々の枝も霜に覆われ、風が吹くたび細かな氷の粒が舞った。

「この先です」

 先頭を歩く五十鈴が足を止めた。

 道の先には、雪に埋もれかけた細い山道が続いている。人が頻繁に使っているようには見えない。

「雪女の里があるのか?」

「あるって聞いてます。私も中まで入ったことはねえですけど」

 五十鈴は少しだけ声を落とした。

「玄嶺に住んでりゃ、雪女の里がこの辺にあるって話くらいは知ってます。でも、わざわざ近づく人はほとんどいねえです」

「避けられているの?」

 紅緒が訊く。

「怖がる人はいます。でも私は、雪女が誰かに悪さしたって話を聞いたことも、見たこともねえんです」

 だから腑に落ちないのだろう。

 紅緒は返事をせず、冷たい風へ意識を向けた。

「妖気は、さっきより濃くなってる」

 景真にも寒さが一段増したのが分かった。頬が痛い。手袋の中の指先まで冷えている。

「やっぱり、雪女が原因なのか?」

「まだ分からないわ。妖気が強いことと、異変を起こしていることは別よ」

 そう言いながらも、紅緒の表情は硬い。

 三人は雪を踏みしめ、山道を進んだ。

 やがて木々の向こうが不自然に白く霞み始めた。霧のようにも見えるが、近づくにつれて、それが細かな雪と冷気の塊だと分かる。

 その向こうに、何人もの人影があった。


   *


「……いる」

 景真が呟く。

 白い着物をまとった女たちが、雪原に一定の間隔を空けて立っていた。肌も髪も雪のように淡く、吐く息すら白い。

 雪女。

 その言葉が頭に浮かぶ。

 だが、景真が想像していた光景とはまるで違った。

 彼女たちはこちらを襲おうとしているのではない。

 むしろ全員が、北を向いていた。

 雪原には背丈ほどの石柱が幾つも立ち、その表面には白く光る紋様が刻まれている。雪女たちは両手を石柱へ添え、そこへ力を送り込んでいた。

 北の谷間から、轟くような風が押し寄せる。

 白い冷気が壁のように迫り、石柱の間で見えない何かにぶつかった。

 瞬間、地面の雪が爆ぜるように舞い上がる。

「うわっ!」

 景真が腕で顔を庇った。

 紅緒の髪が大きく揺れ、五十鈴も足を踏ん張る。

 冷気はそこで完全には止まらず、薄く削がれながら南へ抜けていった。

 景真は目を細めた。

 北から来た冷気が、雪女たちのいる場所で弱くなっている。

(……逆だ)

 もし彼女たちが冷気を生み出しているなら、ここから南へ広がっていくはずだ。

 だが実際には、北から来たものをここで受け止めている。

「紅緒!」

「分かってる!」

 紅緒も同じことに気づいたらしい。

 その時、石柱の一つから鋭い音が響いた。

 亀裂が走る。

「まずい!」

 雪女の一人が叫んだ。

 柱が傾き、そこから白い冷気が一気に噴き出す。

 五十鈴が真っ先に走った。

「押さえます!」

 腰の籠手へ霊力を通す。金具が噛み合う音とともに籠手が膨らみ、五十鈴は傾いた石柱へ両手を当てた。

「んんっ……!」

 雪の上に靴底が沈む。だが石柱はそれ以上倒れなかった。

 紅緒も駆け寄る。

「この柱に力を流せばいいの?」

 すると、少し離れた場所から落ち着いた声が飛んだ。

「そうだ。だが一度に流しすぎるな。柱が耐えられない」

 一人の雪女がこちらへ歩いてくる。

 ほかの雪女たちを率いるだけの貫禄があった。淡い髪をまとめ、冷気が吹き荒れる中でも堂々と立ち、少しも姿勢を崩していない。

「陰陽寮の術者だな。助かる。そちらの巫女殿、柱の紋へ少しずつ霊力を流してくれ」

「分かったわ」

 紅緒が石柱へ手をかざす。淡い光が紋様へ染み込み、白い輝きが少しずつ戻っていった。

 景真には術のことは分からない。

 それでも、もう一つ気づいた。

 割れた柱だけ、根元の雪が不自然に盛り上がっている。

「五十鈴、柱の下!」

「下?」

「根元が浮いてる。雪をどけた方がいい!」

 五十鈴が籠手で柱を支えたまま、足元の雪を蹴り払う。

 下から現れたのは、半ば割れた石の土台だった。

「こっちも壊れてます!」

「なら柱だけ立て直しても駄目だ」

 堂々とした雪女が即座に判断した。

「応急でいい。土台ごと押さえる。あと二人、こちらへ!」

 雪女たちが動く。

 五十鈴が柱を支え、紅緒が術を補い、雪女たちが周囲へ新たな氷を張って土台を固める。

 やがて石柱の震えが収まり、吹き抜けていた冷気も細くなった。

 完全に止まったわけではない。

 それでも、先ほどまでのように息もできないほどの冷気ではなくなった。

 その雪女が小さく息を吐く。

「助かった。礼を言う」

 そこでようやく、彼女は景真たちを順に見た。

「私は天谷あまだに紗白さはく。この里の長をしている」

 紅緒も名乗り、景真と五十鈴もそれに続く。

「大月紅緒です。陰陽寮から、南へ流れている異常な冷気を調べに来ました」

「東春景真です」

「ものの歩の梯五十鈴です。案内役で来ました!」

 紗白は三人の顔を見回し、静かに頷いた。


   *


「事情は分かった。なら、まず誤解を解いておこう」

 紗白が北の谷を見た。

「この冷気は、私たちが起こしているものではない」

 紅緒がわずかに目を見開く。

「では、この妖気は?」

「私たちのものだ。北から流れ込む冷気を抑えるために使っている」

 紗白は石柱の一つへ手を添えた。

「玄嶺の北部には、地の底を通って強い冷気が流れる霊脈がある。私たちは玄氷脈げんひょうみゃくと呼んでいる」

「玄氷脈……」

「普段なら、この里の術で流れを散らし、玄嶺全体へ少しずつ逃がす。私たちに必要な冷気まで消すつもりはない。ただ、強すぎる分だけを抑えているんだ」

 景真は先ほど見た光景を思い返した。

 北から押し寄せる冷気と、それを受け止める雪女たち。

 紅緒が感じていた妖気は、原因ではなく、冷気を止めようとしていた痕跡だったのだ。

「じゃあ、どうして今になって……?」

 景真の問いに、紗白の表情が少し険しくなる。

「二つ重なった」

 紗白は割れた石柱を見た。

「昨夜、玄氷脈の流れが急に強くなった。その負荷で、古くなっていた柱の一つが割れた」

「それだけではないんですね?」

 紅緒が訊く。

「ああ」

 紗白は一拍置いた。

「本来ここにいるはずの雪女が、一人いない」

 五十鈴が瞬きをする。

「一人?」

天谷あまだに恋白こはく。私の妹だ」

 紗白の声は平静だった。だが、ほんの少しだけ眉間に皺が寄っている。里長として状況を見極めようとする落ち着きの奥に、妹を案じる色が滲んでいた。

「昨日の昼、里の外へ出た。日が暮れる前には戻ると言っていたんだが、まだ戻っていない」

「その人も、この結界を維持する役目だったのですか?」

「そうだ。誰か一人抜けただけなら普段は調整できる。だが、柱の破損と玄氷脈の増大が同時に起きた」

 だから抑えきれなくなった。

 幽京まで届いた冷気は、その結果だった。

「恋白さんは、どこへ行ったんですか?」

 紅緒が訊く。

「分からない」

 紗白は即答した。

「外の景色を見たいとは前から言っていた。だが、これほど長く戻らないとは思っていなかった。何かあったのかもしれない」

 その一言だけ、紗白の声がわずかに低くなった。

「恋白は、里の周りの山には慣れているんだ。だが、人里まで下りたことはほとんどない。少しくらい遠出をしても、日が暮れる前には戻ってくる。それが戻らないとなれば、ただの寄り道とは考えにくい」

「探しに行く人は?」

「出したいが、今は出せない」

 紗白が周囲を見る。

 雪女たちは皆、石柱の前を離れられずにいる。

「ここで一人でも欠ければ、また冷気が南へ抜ける。私も里長として、この場を離れられない」

 紗白の視線が、一瞬だけ里の外へ向いた。

「だから頼みたい。異変を止めるためにも、何より恋白が無事か確かめるためにも、急いで見つけたい」

 その言葉で、三人がここへ来た意味がはっきりした。


   *


「俺たちが探します」

 景真が言うと、紅緒もすぐに頷いた。

「ええ。そのために来たようなものね」

「私が道を見ます!」

 五十鈴も胸を叩く。

 紗白は少しだけ目を細めた。

「助かる。景真殿、紅緒殿、五十鈴殿。頼めるか」

「はい」

 景真たちが答える。

 紗白は里の外へ続く道を指した。

「恋白が出たのは、あちらだ。足跡は途中で雪に消えている。外へ出る時、絵草子を一冊持っていた」

「絵草子?」

「ああ。本人は散歩だと言っていた」

 紗白はほんの少しだけ目を伏せた。

「……帰ってきたら、話をする必要はありそうだな」

 声音は落ち着いていたが、姉として言いたいことがあるのは景真にも分かった。

 北から、再び低い風の音が響く。

 石柱の紋が白く明滅した。

 時間はあまりない。

 景真は紅緒と五十鈴を見た。

「行こう」

 三人は頷き、雪女の里をあとにした。

 探すのは、異変を起こした妖怪ではない。

 異変を止めるために必要な、一人の雪女だった。

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