第十話「玄嶺の地へ」②
北門を抜けた途端、景真は思わず足を止めた。
背後には、幽京を囲む高い城壁が延びている。門の内側には整然とした町並みと人のざわめきがあったのに、一歩外へ出れば景色は急に広くなった。北へ続く街道の両脇には畑と雑木林が広がり、そのさらに向こうには、幾重にも重なる山並みが白く霞んでいる。
「……本当に、外に出たんだな」
「何よ、その感想」
紅緒が隣で首を傾げる。
「いや。幽京の中にいると忘れそうになるけど、あの街ってちゃんと壁で囲まれてたんだなって」
「妖怪の群れに襲われることもあるもの。大結界だけに頼るわけにはいかないわ」
「言われてみれば、そうか」
景真は振り返り、城壁の上に立つ見張りの兵を見上げた。現世で見慣れた町とは何もかも違う。今さらのように、その事実が実感を伴って胸へ落ちてくる。
「お二人とも、こっちです!」
先を歩いていた五十鈴が大きく手を振った。
彼女は幽京を出てから、目に見えて足取りが軽い。重そうな籠手を腰に下げているにもかかわらず、坂道でも平地と変わらない速さで進んでいく。
「そんなに急がなくても道は逃げないぞ」
「でも、昼のうちに最初の集落まで着いた方がいいですよ。玄嶺は日が落ちると、道が一気に見えづらくなりますから」
「やっぱり詳しいのね」
「地元ですから!」
五十鈴は胸を張った。
「それに、この辺はまだ玄嶺の入口みたいなもんです。山へ入ったら、もっと道が細くなるんですよ」
「入口でこれか……」
北から吹きつける風に、景真は羽織の襟を引き寄せた。幽京の中でも十分寒かったが、城壁を離れるほど冷気は鋭さを増している気がする。
*
しばらくは街道沿いに畑や小さな家が続いていた。だが、北へ進むにつれ人家はまばらになり、代わりに背の高い木々が増えていく。地面にもところどころ白いものが残り始めた。
「雪?」
景真が足元を見る。
「この時期に、ここまで下で残るのは珍しいです」
五十鈴の返事から、先ほどまでの軽さが少し消えた。
「玄嶺って、いつも寒いんじゃないのか?」
「寒いですけど、寒いにも限度がありますよ。もっと奥ならともかく、この辺で朝から凍るなんて、そうそうないです」
紅緒が道端へしゃがみ込んだ。草の葉を覆う白い霜へ指を近づけ、触れる寸前で止める。
「どうした?」
「少しだけ、霊気の流れが乱れてる」
「霊気? 妖気じゃなくて?」
「ええ。霊気は土地や自然そのものに流れている力で、妖気は妖怪から生じる力よ。ここでは霊気が乱れている。でも、この空気には妖気も混じっているみたい」
紅緒は立ち上がり、北を見る。
「でも、小夜さんの話どおりね。冷気――あ、冷たい空気の方ね。冷気そのものが、ずっと南へ流れている」
*
三人は再び歩き始めた。
街道が緩やかな山道へ変わる頃には、幽京の城壁はもう見えなくなっていた。周囲を囲むのは黒々とした木々と岩肌ばかり。谷の底を流れる川の音が、遠くから途切れ途切れに聞こえてくる。
景真は何度か足を止めたくなった。
寒さのせいではない。目に入るものが、いちいち新しいのだ。
木々の間には見たことのない鳥が止まり、谷向こうの岩場には小さな祠が建っている。道端に積まれた石には、風除けなのか魔除けなのか、赤い紐が結ばれていた。幽京のように整えられた場所ではない。それでも、確かに人が暮らし、道を使い、土地と折り合いをつけてきた痕跡がそこかしこにある。
「同じ国なのに、全然違うな」
「幽京と比べたら、何もねえとこでしょう?」
五十鈴が笑った。
景真は一瞬だけ彼女を見る。
「……今、ちょっと訛った?」
「え?」
「『何もねえ』って」
「言ってませんよ」
「言ったわね」
紅緒まで加わると、五十鈴は少しだけ頬を膨らませた。
「お二人とも、細かいです」
そう言いながらも、どこか照れくさそうだった。
さらに進むと、五十鈴が分かれ道で迷うことなく右へ曲がった。
「こっちの方が近いです」
「道、かなり細いけど大丈夫か?」
「大丈夫です。昔はよく通ってましたから」
その言葉だけが、少し静かだった。
五十鈴は先へ進む。景真は何となく問い返しかけたが、彼女がすぐにいつもの調子へ戻ったため、口を閉じた。
「この先に沢があります。水も飲めますよ。あ、でも今は凍ってるかも知れねえな……」
「また出たぞ」
「何がです?」
「いや、何でもない」
故郷へ近づくほど、彼女の言葉も少しずつ元へ戻っているらしい。
昼を少し回った頃、三人は山あいの小さな集落へ着いた。
石積みの土台に木造の家が並び、屋根は幽京で見るものより急な傾斜になっている。軒下には薪が高く積まれ、道行く人のほとんどが厚手の布や毛皮を身につけていた。
「ここで少し話を聞きましょう」
五十鈴が集落の入口にいた年配の男へ声をかける。
「すみません。この辺、ここ数日で急に冷えませんでしたか?」
「急にどころじゃねえよ」
男は顔をしかめた。
「三日前からだ。朝になったら井戸桶まで凍っててな。昨日なんぞ、沢の端まで氷が張った。こんなのは真冬でも滅多にねえ」
「三日前……」
紅緒が呟く。
「ほかに変わったことはありませんでしたか? 妖怪を見たとか、妙な音を聞いたとか」
「妖怪は見てねえ。むしろ逆だな」
「逆?」
「山の奴らが降りてきてる」
男は北側の森を顎で示した。
「鹿も兎も、普段ならもっと上にいる獣まで南へ下りてくる。昨日は山犬の群れまで村の外を通った。人を襲いもしねえで、ひたすら南へ走ってったよ」
景真と紅緒が顔を見合わせる。
「何かから逃げてる……?」
「そう見えるわね」
紅緒の声が低くなる。
*
礼を言って男と別れ、三人は集落の北端まで歩いた。
そこで景真は、雪の上にいくつもの足跡が残っているのに気づいた。大小さまざまな獣の跡が、ほとんど同じ方向へ続いている。
南だ。
「本当にみんな下ってるな」
「山に何かあるんでしょうか」
五十鈴が珍しく真剣な顔で北を見上げる。
紅緒は足跡から少し離れた場所へ歩き、雪面へ手をかざした。
しばらく黙っていたが、やがて眉を寄せる。
「……ある」
「何が?」
「妖気」
紅緒は目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。
「幽京で感じたものよりずっと濃い。でも、妙ね。何か一体の妖怪が残した感じじゃない」
「どういうことだ?」
「山からの空気そのものに混ざってる。山全体から流れてきているみたい」
その時、北風がひときわ強く吹き抜けた。
木々がざわめき、細かな雪が地面から舞い上がる。
五十鈴が髪を押さえながら目を細めた。
「この先は、もっと標高が上がります。雪も深くなるべ」
今度は本人も気づかなかったのか、訛りを直さなかった。
紅緒が風上へ顔を向ける。
「この妖気……知ってる気がする」
「何の?」
景真が訊く。
紅緒はすぐには答えなかった。指先に薄く霊力を灯し、流れてくる冷気を確かめるように目を凝らす。
「断定はできない。でも、冷気を操る妖怪の中でも、この感じは――」
一拍置いて、紅緒が言った。
「雪女に近いわ」
五十鈴の表情が変わった。
「雪女……」
「心当たりあるのか?」
「この先に、雪女たちが暮らしてる場所があります」
さっきまで地元を案内していた時の明るさは、もうなかった。
「でも……」
五十鈴が北の山々を見上げる。
「少なくとも私は、雪女が誰かに悪さしたって話を聞いたことも、実際に見たこともねえんです」
白く霞む峰々から、また冷たい風が吹き下ろした。
景真は羽織の襟を押さえながら、その先を見た。
雪女。
名だけなら知っている。けれど、この世界で彼女たちがどんな存在なのかは何も知らない。
ただ一つ分かるのは、異常な冷気の源へ近づいているということだけだった。




