第十話「玄嶺の地へ」①
朝、目を覚ました景真は、布団から出した右手をすぐに引っ込めた。
(……寒っ)
昨夜までは、こんな寒さではなかった。季節が変わるには唐突すぎる。息を吐けば薄く白くなり、障子の隙間から入り込む空気は、冬の朝のように冷えていた。
身支度を整えて部屋を出ると、違和感はさらに増した。御伽館の中まで、いつになく冷え切っている。廊下を抜けて戸口から外を覗けば、軒先の水桶には薄い氷が張り、道端の草には白い霜が降りていた。通りを行く人々も、肩をすぼめたり腕を擦ったりしながら、口々に寒さを訴えている。
「昨日まで、こんなんじゃなかったよな……」
景真が空を見上げる。晴れている。雪雲らしいものもない。なのに、北から吹いてくる風だけが妙に冷たかった。
冷たい風を避けるように戸を閉めて館内へ戻ると、いつもより大きな火鉢が置かれ、その周りに何人かが集まっていた。
受付台の奥には、見慣れた姿――のはずなのだが、今朝ばかりはずいぶん形が違って見えた。
深影が、毛布にくるまっていた。
頭だけを出し、さらに火鉢へできる限り近づいている。普段なら姿勢よく受付台に座っている彼女が、今日は完全に丸い。
「……おはよう」
「お、おう。ずいぶん重装備だな」
「寒い」
「見れば分かる」
毛布の隙間から伸びた手が、火鉢へ向かってじりじりと近づく。
「朝から急にこうなったんだよ。最悪」
「深影でもそんなに寒いのか?」
言ってから、景真は少し考えた。
「……いや、蛇だから余計に駄目なのか」
毛布の中から、真っ黒な瞳だけがこちらを見た。
「分かってるなら訊かないで」
「悪かった」
そこへ、館の奥から紅緒が姿を見せた。いつもの巫女装束の上に厚手の羽織を重ねている。
「景真、起きたのね」
「紅緒も寒そうだな」
「寒いもの。むしろ、あなたがその格好で平気なのが不思議だわ」
「平気じゃない。かなり寒い」
景真が両手を擦り合わせると、紅緒は小さく息を吐いた。白い息がわずかに浮かぶ。屋内ですらこれなのだから、尋常ではない。
「ちょうどよかったわ。小夜さんから呼び出しが来ているの」
「この寒さの件か?」
「おそらくね」
*
その予想は当たっていた。
陰陽寮へ向かう途中、景真たちは幽京のあちこちで同じ光景を目にした。軒下に薄く張った氷。朝市で湯気の立つ椀を抱える人々。北へ向かうほど、道に降りた霜は濃くなっている。
陰陽寮では、すでに何人もの役人や術者が慌ただしく行き交っていた。案内された部屋で待っていた小夜は、机の上に広げられた地図へ視線を落としていた。
「来ましたね。お二人とも、朝からすみません」
「いえ。小夜さん、この寒さはやはり異常なのですか?」
「はい。少なくとも、自然な気候の変化ではありません」
小夜が地図の北側を指でなぞる。幽京から北へ伸びる街道。その先に広がる山地。
「天文方の観測では、冷気は北から南へ流れ込んでいます。特に強いのが、この辺りです」
指先が止まった。
「玄嶺……」
紅緒が呟く。
「ええ。北方――玄嶺の地から、通常では考えにくい量の冷気が流れています。それだけなら気象の異常で済むのですが……」
小夜は一枚の紙を取り上げた。そこには術者たちが記録したらしい数値や印が並んでいる。
「冷気に、ごく薄い妖気が混じっています」
紅緒の表情が引き締まった。
「妖怪の仕業、ということでしょうか」
「まだ断定はできません。だからこそ、現地を見てきてほしいんです」
小夜の視線が紅緒へ向き、それから景真へ移る。
「紅緒さんには、冷気と妖気の出所を確認してもらいます。景真さんも同行してください」
「俺もですか?」
「これまでにも、私たちが見落としていた違和感を何度も見つけていますから。今回も、あなたの目で現場を見てほしいんです」
また厄介事に巻き込まれた、と言えばその通りなのだろう。けれど不思議と、以前ほど驚かなかった。
(玄嶺の地か……)
幽京へ来てから、景真が本格的に足を運んだのは、その周辺ばかりだった。北の山地がどんな土地なのか、名前以上のことはほとんど知らない。
「分かりました」
答えると、小夜が頷いた。
「ものの歩にも連絡を入れています。玄嶺は土地勘のない人が歩くには危険ですから、案内役を一人出してもらうことになっています」
「ものの歩から?」
「ええ。玄嶺出身の方だそうですよ」
その言葉に、景真は一人だけ心当たりを思い浮かべた。
*
陰陽寮を出たあと、二人は一度御伽館へ戻った。
紅緒が旅支度を整えている間、景真は火鉢の前から一歩も動こうとしない深影へ声をかけた。
「そういうわけで、俺たち玄嶺まで行ってくる」
「うん」
「一応訊くけど、深影も――」
「行かない」
最後まで言わせてもらえなかった。
「まだ何も言ってないぞ」
「玄嶺でしょ。もっと寒いんでしょ。行かない。行くわけない」
断固としている。普段の深影なら、面白そうな話には真っ先に首を突っ込む。それが今は、毛布から鼻先だけ出して首を横に振っていた。
「厚着すれば何とかなるんじゃないか?」
「ならない」
「即答ね」
荷を持って戻ってきた紅緒が呆れたように言う。
「蛇を何だと思ってるの」
「妖怪」
「そういう話じゃない」
深影は毛布をさらに引き上げた。
「私はここを守ってる。二人とも頑張ってきて」
「受付で暖まってるだけじゃないのか?」
「大事な仕事だよ」
真顔で言い切られ、景真はそれ以上突っ込むのをやめた。
*
昼前。
景真と紅緒は、幽京の北へ続く街道の入口に立っていた。
城壁の向こうへ目を向ければ、遠くに青黒い山並みが連なっている。その頂には白い雪が見え、山の方角から吹き下ろす風は、幽京の中よりさらに冷たい。
紅緒が羽織の襟元を押さえる。
「ここから先、もっと冷えるでしょうね」
「深影、来なくて正解だったかもな」
「本人が聞いたら得意げに頷きそうね」
そんな話をしていると、街道脇から大きく手を振る人影が見えた。
「紅緒さーん! 景真さーん!」
聞き覚えのある、よく通る声だった。
緑を基調とした装い。高い位置で束ねた髪が、駆けてくるたび大きく揺れている。見覚えのある籠手が、腰に結わえ付けられている。
「やっぱり五十鈴か」
梯五十鈴は二人の前まで来ると、白い息を弾ませながら笑った。
「お久しぶりです! 今回、玄嶺の地まで案内させてもらいます!」
「よろしくお願いします、五十鈴さん」
「任せてください! 玄嶺なら私の地元ですから! それに今回、報酬がいいんですよ!」
「……そこも大事なんだな」
「もちろんです!」
胸を張る五十鈴の背後で、北からまたひときわ強い風が吹いた。
頬を刺すような冷気に、景真は思わず目を細める。
その風の向こう。遠く連なる玄嶺の山々は、白く霞んでいた。
(あそこから、この冷気が来てるのか)
幽京の外へ続く道を見ながら、景真は羽織の襟を引き寄せた。
こうして三人は、冷気の源を求めて北へ向かうことになった。




