第九話「星読みの秘め事」④
五人になった一行は、陰陽寮へ続く道をゆっくりと戻っていった。
残る原稿は、あと一枚。
たった一枚のはずなのに、陽香の視線は先ほどまで以上に忙しかった。道端へ、軒下へ、往来する人々の足元へ。小夜が何かを見つけるたび、ほんのわずかに肩が揺れる。
「陽香」
「なあに、小夜?」
「先ほどから、私が屈むたびにこちらを見ていませんか?」
「気のせいよ」
「そうですか」
小夜はそれ以上追及しなかった。
しかし、その横で深影が口元を緩める。
「陽香、最後の一枚って、そんなに見られたくないの?」
「深影ちゃん。落とし物は全部大事でしょう?」
「でも、さっきから小夜が探してる方ばっかり見てるよ」
「……よく見てるわねえ」
「暇だから」
深影は悪びれもせず答えた。
景真は吹き出しそうになって口元を押さえる。紅緒はまだ先ほどの原稿を引きずっているのか、深影と陽香の会話には加わらず、黙々と道の端を探していた。
「紅緒ちゃん」
「は、はい?」
「そんなに下ばかり見ていると、人にぶつかるわよ」
「大丈夫です」
返事が妙に早い。
景真には、その理由が何となく分かった。陽香と目を合わせると、また茶屋で見た絵を思い出してしまうのだろう。
しばらく進んでも、それらしい紙は見つからなかった。
道は少しずつ人通りが減り、陰陽寮の建物が遠くに見え始める。ここまで来てもないとなれば、風で別の通りへ飛ばされた可能性もある。
「一度、戻って探し直しますか?」
紅緒が言った、その時だった。
「あ」
小夜が足を止めた。
道端の軒下に、一匹の猫がいた。灰色の毛並みをした小柄な猫で、前脚の下に何かを押さえている。
薄い鼠色の紙だった。
陽香の顔から、笑みが消えた。
「小夜、待って」
「はい?」
だが、小夜はすでに猫の前へしゃがみ込んでいた。
「すみません。それ、少し返してもらえますか」
猫は答える代わりに、紙の上で前脚をふみふみと動かした。
「小夜さん、猫相手にも敬語なんですね」
「お願いするんですから、当然でしょう」
小夜は懐から何かを取り出し、猫の鼻先へ差し出した。乾かした小魚らしい。
「用意いいですね」
「たまたま持っていただけです」
猫は迷うことなく紙を明け渡した。
陽香が一歩踏み出す。
「ありがとう、小夜。それ、私が――」
言い終わるより早く、小夜が紙を持ち上げた。
表がこちらを向いていた。
小夜の目が、そこに描かれたものへ落ちる。
陽香が止まった。
景真たちも止まった。
最後の頁には、小宵と春香が描かれていた。
夜の縁側。寄り添って座る二人の頭上には、細い月が浮かんでいる。春香は小宵の手を両手で包み、真っ直ぐに見つめていた。
そして吹き出しには、こうあった。
「これから先も、ずっと私のそばにいて」
次の枠で、小宵は頬を赤らめながら微笑んでいる。
「……私も、ずっとあなたのおそばにいたいです」
景真はそっと空を見上げた。
紅緒は一瞬で顔を赤くし、深影は興味津々といった様子で紙を覗こうとしている。
「深影」
「見てないよ」
紅緒に名前を呼ばれただけで、深影は素早く一歩下がった。
小夜だけが、しばらく無言で原稿を見ていた。
「……小夜」
陽香の声が、今日一番弱かった。
「何ですか?」
「読んだ?」
「表を向いていましたから」
「どこまで?」
「全部です」
陽香が静かに目を閉じた。
数秒の沈黙のあと、小夜はもう一度紙面を見る。
「陽香」
「……はい」
「最後の台詞、私ならこんな言い方はしませんよ」
景真は思わず小夜を見た。
そこなのか。
陽香も同じことを思ったらしい。ぱちりと目を開く。
「そこ?」
「ほかに何かありますか?」
「いや、あるでしょう。いろいろ」
「絵は上手だと思いますよ」
陽香の頬が、わずかに赤くなった。
景真は初めて見るものを見た気がした。いつも余裕のある陽香が、褒められたことを喜んでいいのか、描いた内容を恥ずかしがるべきなのか分からない顔をしている。
「……本当に?」
「はい。ただし」
小夜は原稿を陽香へ差し出した。
「次からは、なくさないでください。拾った方が困ります」
「はい……」
「それと、私をもとに描くのは今さら構いませんけど、せめてもう少し名前を離したらどうです?」
「小宵と小夜は別人よ?」
「そこを押し通すんですね」
小夜が呆れたように笑った。
それを見て、ようやく陽香の肩から力が抜ける。
「じゃあ、怒ってない?」
「怒ってはいませんよ」
「本当に?」
「陽香」
「はい」
また素直な返事が出た。
深影が吹き出し、景真も今度は堪えられなかった。紅緒まで口元を押さえている。
ひとしきり笑ったあと、陽香は最後の一枚をほかの原稿へ重ねた。ほどけた紫の紐では心許ないため、小夜が持っていた細紐を借り、今度はきっちりと二重に結ぶ。
「これなら、もう散らばりませんね」
「ええ。助かったわ」
ようやく、落とし物探しは終わった。
五人はそのまま陰陽寮の前まで歩いた。
別れ際、深影が思い出したように陽香へ手を挙げる。
「陽香」
「なあに?」
「あれ、続きあるの?」
紅緒の肩がまた跳ねた。
「深影!」
「だって気になる」
陽香は少しだけ考え、それからいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「あるわよ」
「あるんだ」
景真も思わず声を漏らした。
「今度はなくさないでくださいね、陽香」
「分かってるわ、小夜」
小夜はため息をついたものの、少なくともその場で「やめてください」とは言わなかった。
紅緒はまだ何か言いたそうだったが、結局口をつぐんだ。
陽香と小夜が陰陽寮へ入っていくのを見送り、景真は大きく息を吐いた。
「……平和だったな」
「どこが?」
紅緒が即座に返す。
「誰も怪我してないし、妖怪も暴れてない」
「基準がおかしくなってるわよ」
「でも面白かったね」
深影が笑う。
景真もつられて笑った。
世界の命運にも、幽京の危機にも関わらない。たった一束の紙を探して、皆で街を歩いただけの午後。
こういう厄介事なら、たまには悪くない。




