第九話「星読みの秘め事」③
書店を出た途端、陽香の歩調が目に見えて速くなった。
先ほどまでなら、通りの店主に声をかけられるたび足を止めていた。それが今は、呼び止める声にも「ごめんなさい、また今度ね」と笑顔だけを返し、迷いなく人波を縫っていく。
「陽香、速い」
深影が小走りになりながら言った。
「そう?」
「うん。さっきの倍くらい」
「気のせいよ」
気のせいではなかった。
景真と紅緒も少し早足になって、その後を追う。
「小夜さん、どっちへ行ったんでしょう」
「店主さんの話では、陰陽寮の方へ向かったそうよ。まだ遠くへは行っていないはず」
「陽香さま」
「なあに、紅緒ちゃん?」
「先ほどから、ずいぶんお急ぎのようですが」
「落とし物は早く回収した方がいいでしょう?」
「それは、そうですが……」
陽香はにこやかだった。
ただし笑顔のまま、歩調は少しも緩まない。
(分かりやすいな……)
景真がそう思った時、隣を歩く深影が口元から細い舌をちろりと覗かせた。
「陽香、焦ってる匂いする」
「しないわよ」
「するよ?」
「深影ちゃん」
「……しないかも」
深影があっさり撤回する。
紅緒が何とも言えない顔をした。
そのまましばらく通りを進んだところで、景真は道端に紫色のものが落ちているのに気づいた。
「あ」
拾い上げる。
短い紫の紐だった。片端には結び目が残り、もう片方はすっかりほどけている。
「陽香さん。これ」
陽香が振り返る。
その目が一瞬だけ遠くなった。
「……私のね」
「やっぱり、ここで完全にばらけたんですね」
「そうみたい」
陽香は紐を受け取り、小さくため息をついた。
「よりによって、こんなに綺麗にほどけなくてもいいのに」
「日頃の行い?」
「深影ちゃん?」
「何でもない」
少なくとも、紙があちこちで一枚ずつ見つかった理由はこれではっきりした。
問題は、そのうち何枚がすでに誰かの目に触れているかだった。
そして、その「誰か」の中に小夜が含まれている可能性が、今やかなり高い。
角を一つ曲がったところで、紅緒が足を止めた。
「……あちら」
視線の先に、見覚えのある黒髪があった。
通りの脇、軒先の日陰に立つ女。後ろでまとめた髪。風に揺れる左の空袖。
小神小夜だった。
しかも右手には、数枚の鼠色の紙がある。
四人が揃って止まった。
小夜の方もこちらに気づき、わずかに眉を上げる。
「あら。皆さん揃って、どうされたんですか?」
いつもの穏やかな声だった。
陽香だけが答えない。
視線は、小夜の右手に釘づけになっている。
「小夜」
「はい?」
「それ……」
小夜は手元を見下ろした。
「ああ、これですか。やっぱり陽香の落とし物でした?」
陽香の笑顔が一段固くなる。
「どこで拾ったの?」
「書店の前で一枚。それから歩いていたら、少し先で二枚ほど見つけました。紙も同じですし、まとめて落としたものかと思いまして」
「そう。ありがとう」
陽香が手を差し出す。
しかし小夜は、その手へ渡す前にふと紙面へ目を落とした。
陽香の指先が、ほんの少しだけ止まる。
「小夜」
「はい」
「……見た?」
いつもの陽香なら、もう少し遠回しに訊いただろう。
だが今は、あまりにも直球だった。
景真と紅緒は黙る。
深影だけが、小夜の返事を待つように首を傾げている。
「ええ。少しだけ」
陽香の笑顔が止まった。
「少しだけ?」
「拾った時に表を向いていましたから。持ち主の手がかりがないかと思って、少しだけ見ました」
「どの頁を?」
「陽香」
「なあに?」
「そんなに矢継ぎ早に聞かなくても、逃げませんよ」
小夜は苦笑した。
それから手にした原稿を一枚めくり、もう一度そこに描かれた人物を見る。
「それより、これ」
小夜が顔を上げた。
「また私でしょう?」
沈黙が落ちた。
「……また?」
景真が思わず口にする。
紅緒も同じ言葉を飲み込んだような顔をしている。
深影だけは隠さなかった。
「またなの?」
陽香がそっと目を逸らした。
「何のことかしら」
「陽香」
「はい」
なぜか返事だけ素直だった。
小夜は呆れたように息を吐く。
「前にもありましたよね。私によく似た陰陽師が、猫を拾ったり、山へ薬草を取りに行ったりする絵草子」
「あれは小夜じゃないわよ」
「左腕がなくて、猫好きで、名前が『小宵』でしたけど」
「字が違うでしょう?」
陽香は胸を張った。
景真は今日二度目になる理屈を聞いた。
(そこ、押し通すんだ……)
深影が楽しそうに小夜へ一歩近づく。
「小夜、前のも知ってたんだ」
「ええ。本人が隠しているつもりなので、知らないふりをしていたんですけどね」
「小夜」
「何ですか?」
「それは今、言わなくてもよかったんじゃない?」
「皆さん、もう気づいているでしょう?」
小夜が景真たちを見る。
景真は答えに困った。
紅緒は申し訳なさそうに視線を伏せる。
深影だけが元気よく頷いた。
「うん。小夜と陽香だった」
「深影ちゃんは本当に遠慮がないわねえ」
「違うの?」
「小宵と春香よ」
「一文字ずつ違うやつ」
「そう」
陽香は満足そうに頷いた。
(何も解決してない)
小夜は手にした原稿をぱらりと揃え直す。
「まあ、私をもとに描くこと自体は今さらですから、別に構いませんけど」
その言葉に、陽香の表情が少しだけ明るくなる。
「ただ」
すぐに続いた一言で止まった。
「今回は、ずいぶん距離が近くありませんか?」
陽香の笑顔が再び固まる。
紅緒の肩がびくりと揺れた。
どうやら先ほど茶屋で見てしまった頁を思い出したらしい。頬がみるみる赤くなる。
「ど、どのあたりまでご覧になったんですか、小夜さま」
「紅緒さん?」
「い、いえ。何でもありません」
小夜は不思議そうに首を傾げた。
「私が拾った頁では、春香さんが小宵さんの腰に腕を回していましたね」
「……」
紅緒の顔がさらに赤くなった。
景真は何となく空を見た。
深影は「やっぱり」とでも言いたげに陽香を見ている。
「陽香」
「なあに、小夜」
「あのお二人、友人なんですよね?」
まさか同じ質問を二度聞くことになるとは思わなかった。
陽香は一拍置いて、にこりと微笑んだ。
「もちろんよ」
「そうですか」
小夜はそれ以上追及しなかった。
その淡々とした返しが、かえって陽香には堪えたらしい。
「小夜、その顔は何?」
「普通の顔ですよ」
「絶対に信じてないでしょう」
「陽香がそう言うなら、そういうことにしておきます」
「ほら」
いつの間にか、落とし物探しより二人のやり取りの方が主題になっている。
景真は少しだけ気が抜けた。
重大な機密文書でも、陰陽寮の裏事情でもなかった。
ただ、天文博士が幼なじみをモデルに描いた漫画を、本人に見られたくなかっただけだ。
(平和だな……)
そう思える自分も、だいぶこの世界に慣れてきた気がする。
陽香は小夜から原稿を受け取ると、これまで回収した分と重ねた。
そして一枚ずつ端を確かめ、枚数を数えていく。
「……一、二、三……」
途中で、その指が止まった。
「まだ足りない」
「あと何枚ですか?」
「たぶん、一枚」
「たぶん?」
「最後に描き直した頁があって、順番を入れ替えたから……でも、あと一枚のはず」
陽香の声には、まだ完全には安心できない響きが残っていた。
小夜がその様子を見て、何気なく言う。
「では、私も探しますよ」
陽香が固まった。
「……小夜も?」
「はい。落とし物なんでしょう?」
「そうだけど」
「人数が多い方が早く見つかります」
「それは、そうなんだけど……」
正論だった。
断る理由が見つからない。
小夜はすでに歩き出す準備をしている。
「最後に立ち寄った場所はどこですか?」
陽香は答えず、しばらく小夜を見つめた。
それから、諦めたように小さく笑う。
「……陰陽寮へ戻る途中よ」
「では、その道を探しましょう」
「うん。五人ならすぐ見つかりそう」
深影は楽しそうだった。
紅緒はまだ少し頬が赤い。
景真は、今日一番困ったように笑う陽香を見ていた。
(本人まで捜索に加わるのか……)
残る原稿は、あと一枚。
そして、その一枚を誰より見られたくない相手が、今や一番近くで探そうとしていた。




