第一話「逢魔が時の巫女」②
紅緒の背を追いながら、景真は何度も後ろを振り返った。
森の暗がりに、先ほどの餓鬼が再び現れる気配はない。白と淡い朱色、二つの月に照らされた街道は静まり返り、二人の足音だけが妙に大きく響いていた。
「なあ」
「何?」
「ここ、本当に日本じゃないんだよな」
紅緒は歩みを緩めず、横目だけを景真へ向けた。
「ニホンという場所は知らないわ。ここは幽世よ」
「かくりよ……」
聞き慣れない言葉を口の中で転がす。夢だと言い聞かせるには、湿った土の匂いも、頬を撫でる夜風も鮮明すぎた。
「じゃあ、さっきのは?」
「餓鬼。飢えに呑まれた下級の妖よ」
「やっぱり餓鬼だったのか。妖ってことは、妖怪?」
「あなたのいた場所では、そう呼ぶの?」
少なくとも言葉は通じる。その事実だけが、今の景真には細い命綱のように思えた。
張り詰めていた息が少しずつ戻ってくると、ようやく前を歩く少女を落ち着いて見る余裕も生まれた。
月明かりを受けた髪は、白というより淡い銀色に見える。背筋はまっすぐ伸び、細身ながら歩みには危なげがない。肩の開いた巫女装束も、見た目の華やかさより動きやすさを優先して仕立てられているようだった。
紅緒が垂れた枝を避けて腕を上げる。衣の脇がふっと開き、そこから白い肌が覗いた。景真は反射的に反対側の森へ顔を向けた。
(いや、何を見てるんだ俺。命を助けてもらった直後だぞ)
心臓がさっきとは別の理由で騒がしい。自分を戒めながら、今度は腰の装備へ視線を移した。
腰に吊るした袋には、お札が収められているらしい。ただし、細長い札袋は不自然なほど薄く、口元から覗く札も数えるほどしかない。右腕には、枝で引っかいたような浅い傷がある。先ほどの餓鬼と戦った時についたものではなさそうだった。
「怪我してるぞ」
紅緒の肩がわずかに動いた。
「これくらいは怪我に入らないわ」
「札も、ほとんど残ってないんじゃないか?」
今度こそ紅緒が振り返った。深紅の目が、景真の顔をまっすぐに捉える。
「……よく見ているのね」
「見えたから」
余計なものまで見えかけたとは、もちろん言わない。
「余計なところまで見て、痛い目を見ないようにしなさい」
心を読んだのか。と、危うく言いそうになった。
「それ、どういう意味だよ」
「言葉どおりよ」
紅緒は再び前を向いた。その横顔がほんの少し呆れているように見えたのは、景真の気のせいかもしれなかった。
しばらく歩いたところで、紅緒が尋ねた。
「あなたは、どうしてあんなところにいたの?」
「猫を探してたんだ。迷子の猫を探して、子どもが泣いてたから」
「あの黒猫?」
景真は足を止めかけた。
「見たのか?」
「額に白い菱形の模様がある猫でしょう。少し前、私の前を走っていったわ」
「ユキだ。やっぱりあいつも、こっちに来てる」
景真はユキが消えた森を振り返った。今すぐ捜しに戻りたい気持ちと、餓鬼に襲われた恐怖が胸の中でぶつかる。
「今のあなたが一人で森へ入れば、猫を見つけるより先に、妖に見つかるわ」
「……わかってる」
「よその子の猫を追って、知らない場所へ入り込んだのね」
「見つけたのに放って帰れないだろ」
紅緒は何も答えなかった。ただ、わずかに振り返った横目が、景真を見定めるように細くなった。
*
やがて木々の向こうに、小さな灯りが見えた。
森を抜けた先に建っていたのは、古びてはいるが手入れの行き届いた神社だった。石の鳥居から拝殿まで白い玉砂利が続き、境内の四隅には淡く光る注連縄が張られている。人の姿はなく、聞こえるのは木の葉が擦れる音だけだ。
「ここは?」
「結界神社。私の預かっている場所よ」
「住んでるのか?」
「そうだけど」
紅緒は鳥居の前で指を二本立て、空中に短い線を描いた。見えない膜が水面のように揺れ、閉ざされていた境内の空気がふっと緩む。
「入って」
言われるまま鳥居をくぐると、森の冷たい気配が背後で途切れた。息を吸うだけで、身体にまとわりついていた重さが少し薄れる。
「結界って、本当にあるんだな」
「名前のままの場所なのだから、なかったら困るわ」
紅緒は拝殿脇の建物へ景真を招き入れた。簡素な板の間と低い卓。棚には色も文字も異なる札が几帳面に並び、壁には大きな和弓が掛けられている。
紅緒は腰の白鞘を外して武具掛けへ置き、湯呑みに水を注いで景真の前へ差し出した。
「今夜はここから出ないで。明るくなったら、私が陰陽寮へ連れていく」
「陰陽寮?」
「朝廷の役所よ。術や暦を扱い、妖による事件にも対処している。あなたが本当に別の世界から来たのなら、私一人では判断できないもの」
景真は水を一息に飲んだ。喉の渇きが引くと、代わりに現実世界のことが浮かんでくる。
神社の石段で待っている男の子。帰りの遅い息子を待つ母。そして、この森のどこかにいるユキ。
「戻れるのか」
紅緒はすぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ伏せられた目が、それだけで十分な返事に思えた。
「……今は、わからないわ」
「そっか」
軽く返したつもりだったが、声は思ったより乾いていた。
紅緒は慰めるような言葉を口にせず、棚から新しい札を何束か取り出した。空に近かった腰の袋へ手早く収め、腕の擦り傷には白い布を巻く。
景真は止まった腕時計へ目を落とした。針は午後五時五十六分を指したまま、もう一秒も進んでいない。
境内の外から、小さな羽音が聞こえた。
一羽の白い鳥が鳥居をくぐってくる。近づくにつれて、それが羽毛ではなく、折り目のついた白い紙でできているとわかった。紙の翼を本物の鳥のように動かし、まっすぐ紅緒の肩へ降り立つ。
「折り紙……?」
「小夜さまの式よ」
紅緒の表情から、わずかに残っていた緩みが消えた。
紙の鳥は嘴を開いた。そこから流れたのは、静かで落ち着いた女の声だった。
『大月紅緒。北の外縁にて、大型の蛇妖が暴走しています。進路は結界神社の方面。周辺の避難は開始済みですが、近隣の退魔方は別件に対応中です。増援には時間がかかります』
一拍置いて、声が続く。
『まずは進路を確認し、可能ならば人里から逸らしてください。単独での深入りは避け、危険と判断した場合は必ず退くこと』
「……承知しました」
『ところで――』鳥の頭が、景真の方を向いた。『そちらの方は?』
式を通して見えているらしい。
紅緒は一瞬だけ景真を見やり、すぐに式に視線を戻した。
「迷い人です。森で保護しました。明日、陰陽寮へ連れていきます」
『事情がありそうですね。お待ちしています』
そう告げると、式は小さく一度鳴いた。次の瞬間には翼を畳んだ一枚の折り紙へ戻り、床へ静かに落ちる。
「今のが、小夜って人?」
「陰陽博士の小神小夜さま。私の上役よ」
説明しながら、紅緒は壁の弓を取り、弦と握りを手早く確かめる。続いて武具掛けから白鞘の刀を取り、腰へ差した。先ほどまでの少女らしい表情は消え、顔つきはすでに退魔師のものへ戻っていた。
*
「ここにいなさい」
紅緒は言いながら弓を背負った。
「蛇の妖怪がこっちへ向かってるんだろ。ここにいて大丈夫なのか?」
「結界はそう簡単には破られないわ」
その言葉を追うように、北の森から低い咆哮が響いた。
建物の柱がかすかに震え、棚の札が一斉に揺れる。境内を包む淡い光が、一度だけ大きく波打った。
紅緒は鳥居の方を見た。眉間にわずかな皺が寄る。
「……思ったより近い」
「今のを聞いて、一人でここに残ってろって?」
紅緒はしばらく考え、床へ落ちた式と北の鳥居を見比べた。
「結界神社は進路上にある。ここへ置いていくより、南の避難路まで移した方がいいわね」
「だったら一緒に行く」
「避難させるだけよ。戦わせるつもりはないわ」
「あんたは一人で戦うのか」
「増援が来るまで進路を変えるだけ。無理なら退くわ」
景真は、巻き直したばかりの腕の布と、補充した札袋を見た。強いから大丈夫だと無条件に思えるほど、景真は楽観的ではなかった。
「戻るって約束しろよ」
紅緒が言葉を止める。
やがて短く息を吐き、札袋の口を締め直した。
「……南の街道に、古い石の祠が残ってる。何かあったら、私の指示でそこへ走って」
「わかった」
「私の後ろから離れない。指示には必ず従う。いい?」
「努力する」
「人には約束しろって言うくせに……」
呆れたように息を吐きながらも、紅緒はそれ以上追及しなかった。
二人は南側の鳥居から神社を出た。
先を走る紅緒は速かった。長い髪と袴の裾を揺らしながらも足取りは安定し、景真は置いていかれないよう必死に後を追う。
森を進むにつれ、空気に生臭い匂いが混じり始めた。折れた枝、抉られた地面、太いものを引きずったような跡。獣の気配はなく、虫の声さえ消えている。
「待って」
紅緒が急に足を止めた。景真は危うく、その背中へぶつかりそうになる。
紅緒は地面の跡を見下ろした。北から結界神社へ伸びていたはずの痕跡が、境内の手前で不自然に向きを変えていた。大きく弧を描き、二人が進む南の街道へ重なっている。
「報告された進路と違う……」
「俺たちの方へ来てるってことか?」
「まだわからない。でも、急ぐわ」
再び走り出してから、景真は息を切らしながら尋ねた。
「蛇妖って、さっきの餓鬼と同じ妖怪なのか?」
「同じ妖でも格が違うわ。蛇妖には、人と変わらない知性を持つ者も多い」
「じゃあ、悪いやつとは限らない?」
「ええ」
「それでも退魔するのか」
紅緒の足が、ほんのわずかに緩んだ。
「退魔は、何も斬ることだけじゃない。鎮める。封じる。正気に戻す。それで止められるなら、そうするわ」
「止められなかったら?」
「斬る」
迷いのない答えだった。
「迷っている間に誰かが死ぬくらいなら、私は斬る」
冷たい言葉に聞こえた。けれど、紅緒の横顔には楽しさも誇らしさもない。ただ、何度も同じ判断をしてきた者の重さだけがあった。
「助けられない時も、あるんだな」
「あるわ」
短い返事だった。
景真はそれ以上尋ねられなかった。
*
森を抜けた先で、街道が大きく抉れていた。
道沿いの石灯籠は倒れ、木々の幹には鞭で打たれたような深い傷が走っている。空気には濃い妖気が淀み、息を吸うだけで胸の内側がざらついた。
街道脇の少し先には、先ほど紅緒が話していた小さな石祠が見える。苔むした境界石が三つ、三角を描くように残っていた。
紅緒が片手を上げ、景真を止める。
「ここから先は、絶対に私より前へ出ないで」
返事をするより先に、地面が揺れた。
街道の向こうで土煙が上がる。倒木を押し退けて現れたものを見て、景真は息を呑んだ。
巨大な蛇だった。
大木ほども太い胴は、夜を写し取ったような闇色をしている。長い身体は道を塞ぐようにうねり、鱗の隙間から黒い妖気が煙のように漏れていた。鎌首をもたげた頭部では、金色の目が赤黒い濁りに覆われている。
だが、その視線に宿っているものは、怒りというより、何かに追い立てられる獣の苦痛に近かった。
蛇妖が身をよじる。その首元に、一枚の札が貼りついているのが見えた。白い紙に、朱と墨で複雑な文字が記されている。
「封じ札……?」
紅緒が低く呟いた。
「封じってことは、誰かが暴走を抑えようとしたのか?」
景真が尋ねると、紅緒は札を見据えたまま答えた。
「形はそう見えるわ。妖気を封じきれず、術式が過剰に反応しているのかもしれない」
蛇妖の瞳が、景真の横を通り過ぎる。
紅緒を捉えた。
その瞬間、それまで苦しげに揺れていた鎌首が、不自然なほど正確に彼女へ向いた。首元の札が赤黒く脈打ち、鱗の隙間から妖気が噴き上がる。
紅緒は弓へ手を伸ばさず、腰の白鞘から刀を抜いた。同時に、左手の指へ一枚の札を挟んだ。
「景真、下がって」
苦痛に濁った金色の目と、ほんの一瞬だけ景真の視線が重なった。
助けを求めている。
なぜか、そう見えた。
蛇妖が咆哮する。
巨大な尾が、高く持ち上がった。




