第一話「逢魔が時の巫女」①
その日の空は、朝から妙に重たかった。
梅雨に入ったばかりの街は、どこを見ても湿った色をしている。駅前のアスファルトは薄く濡れ、信号待ちをする人々の傘が、車のライトをぼんやりと弾いていた。
東春景真は学生鞄を肩にかけ直し、左手首の腕時計へ目を落とした。
午後五時四十七分。
いつもなら、もう少し早く家に着いている時刻だった。けれど今日は、帰り際に担任から頼まれたプリント運びを手伝い、駅前では落とし物を探していた老人に声をかけた。そのせいで、すっかり遅くなっている。
「……まあ、いいか」
誰かに頼まれたわけではない。困っている姿が目に入ったから、足を止めただけだ。そういうことをしていると損をする、と友人に笑われたこともある。けれど、見なかったふりをして帰る方が、景真にはずっと落ち着かなかった。
駅から住宅街へ続く道へ入ると、人通りは急に少なくなった。古い商店のシャッターが半分ほど下り、看板の端から雨粒がぽつぽつと落ちている。
細い路地の向こうから、子どもの泣き声が聞こえた。
景真は足を止めた。
小学校低学年くらいの男の子が、電柱のそばでしゃがみ込んでいる。片手には壊れかけのビニール傘。もう片方の手で、濡れた目元をこすっていた。
「どうした?」
声をかけると、男の子はびくりと肩を震わせた。知らない高校生を警戒したのだろう。景真は少し離れたところで膝を折り、なるべく目線を合わせた。
「迷子か?」
男の子は首を横に振り、路地の奥を指差した。
「ユキが……」
「ユキ?」
「猫。あっち行っちゃった」
指の先には、古い石段があった。住宅街の外れにある小さな神社へ続く道だ。景真も前を通ったことはあるが、境内へ入った記憶はほとんどない。木々に囲まれ、昼でも薄暗い場所だった。雨の夕暮れ時となれば、なおさらだ。
「どんな猫?」
「黒い猫。おでこだけ白いの」
景真は石段を見上げた。濡れた石は滑りやすく、子ども一人で上がらせるには危ない。
「わかった。俺が見てくるから、ここで待ってろ」
「でも……」
「すぐ戻る。猫を抱えるのに邪魔だから、鞄を預かっててくれるか?」
景真は学生鞄を男の子の足元へ置いた。それから、念を押すように指を立てる。
「待ってる間、知らない人について行くなよ。……俺も知らない人だけど」
自分で言ってから少し間抜けだと思ったが、男の子は泣きながらも小さく笑った。景真はそれを見て、ほんの少し安心した。
石段の手前で、もう一度腕時計を見る。
午後五時五十三分。
古びた時計は、父の形見だった。
――困ったときは、ちゃんと周りを見ろ。
父はそう言って、この時計を景真へ渡した。時間を見るためのものなのに、その言葉は時計の針よりもずっと曖昧で、幼いころの景真には意味がわからなかった。
今でも、完全にわかったとは言えない。
それでも景真は、迷ったときほど時計を見る癖があった。自分が今、どこに立っているのかを確かめるように。
制服の内ポケットには、母から渡された小さなお守りも入っている。赤い布地は少し色あせ、角は擦れて丸くなっていた。父の時計と母のお守り。その二つを確かめると、景真は雨に濡れた石段へ足をかけた。
*
石段を上るたびに、街の音が遠ざかっていった。
車が水を跳ねる音も、信号機の電子音も、男の子のすすり泣きも、一段ごとに薄い膜の向こうへ沈んでいく。代わりに耳へ届くのは、葉を打つ雨音と、どこからともなく響く低い風の音だけだった。
「ユキー」
猫を驚かせないよう、景真は声を抑えて呼んだ。石段には濡れた落ち葉が張りつき、古い鳥居の朱色は雨に濡れて黒ずんでいる。
鳥居の向こうで、小さな影が動いた。
黒猫だった。額の真ん中に、白い菱形の模様がある。
「おい。ユキだな?」
黒猫は一度だけ振り返り、境内の奥へ駆けていった。
「待てって。そっちは危ないぞ」
景真は慌てて鳥居をくぐった。
境内は、外から見たよりも広かった。小さな拝殿の横には古びた祠があり、その後ろには大きな楠が立っている。楠の根元には、人一人がくぐれるほどの古い石鳥居があり、しめ縄から濡れた紙垂が力なく垂れていた。
その楠の陰に、黒いものがいた。
最初は、ただの影だと思った。雨雲で薄暗いのだから、木の影が濃く見えても不思議ではない。
けれど、それは地面へ落ちているのではなく、ゆらゆらと立ち上がっていた。煙のようでもあり、濡れた布のようでもある。細く伸びたかと思えば、獣の背のように丸く膨らみ、形を定めないまま蠢いている。
ユキが、その影の方へ近づいていく。
「待て!」
景真は走った。
黒い影の中で、何かが光った。目だと思った。だが、そこに生き物らしい顔はない。ただ、こちらを見ているという感覚だけが、肌へまとわりついた。
背筋が冷えた。雨のせいではない。
景真はユキを抱き上げようと手を伸ばした。だが、指先が濡れた毛へ触れるより早く、影が大きく歪んだ。足元の水たまりが波打ち、境内の空気が一気に重くなる。
――逃げろ。
頭のどこかで、そう声がした。
けれど、ユキはまだ目の前にいる。石段の下では、男の子が帰りを待っている。
見捨てられない。
見捨てることはできない。
――見捨てることは、許されない。
景真は歯を食いしばり、黒い影とユキの間へ身体を滑り込ませた。
「来るなら、こっちだ」
言ってから、自分でも何をしているのかわからなくなった。相手が何なのかも、殴れるのかも、逃げ切れるのかもわからない。
それでも、身体は前へ出ていた。
制服の内ポケットが、急に熱を持った。
景真は胸元を押さえた。母のお守りだ。布越しに、あり得ないほど強い熱が伝わってくる。火傷しそうな熱さではない。けれど、心臓の鼓動に合わせるように、どくん、どくんと脈打っていた。
「なんだよ、これ……」
黒い影が景真へ向かって伸びる。先端が指のように分かれ、顔へ触れようとした。
*
景真は反射的に後ろへ下がった。
背中が、楠の根元に立つ古い石鳥居の柱へ触れた。
その瞬間、世界が音を失った。
雨粒が空中で止まったように見えた。葉の揺れも、ユキの鳴き声も、自分の息遣いさえも遠い。視界の中心で、黒い影だけがゆっくりとほどけ、煙の糸となって鳥居の内側へ吸い込まれていく。
胸元のお守りが白く輝いた。
「っ……!」
景真は思わず目を閉じた。まぶしいというより、身体の内側から光に押し出されるような感覚だった。足元が消える。地面を踏んでいるはずなのに、足の裏に何もない。落ちると思ったときには、もう上下の感覚さえ失われていた。
水の中へ沈むようだった。
けれど、身体は濡れていない。
耳元を、いくつもの音が通り過ぎた。知らない誰かの祈り。遠い笑い声。鈴の音。太鼓の響き。草を踏む足音。
その奥から、低く澄んだ鐘の音が聞こえた。
一つ。
そして、二つ。
音は遠いのに、胸の内側へ直接響いてくる。景真には、それがどこから鳴っているのかわからなかった。
――困ったときは、ちゃんと周りを見ろ。
不意に父の声を思い出した。
景真は、沈みかけた意識を無理やりつなぎ止めた。
光の向こうに、鳥居が見えた。さっきまでくぐっていた神社のものではない。もっと巨大で、古く、空を支える柱のようにそびえている。
その向こうには、見たことのない空が広がっていた。
月が二つ浮かんでいる。
一つは白く、もう一つは淡い朱色。雲の流れは速く、星は濡れた砂を散らしたように瞬いていた。
次の瞬間、景真の身体は地面へ放り出された。
「ぐっ……!」
背中を打ち、肺から息が抜ける。視界が揺れた。湿った土、草、知らない花の甘い匂い。雨は降っていない。代わりに、冷たい夜風が頬を撫でていく。
景真は咳き込みながら身を起こした。
「ここ……どこだ」
石段も、拝殿も、住宅街もない。細い街道が森の中を伸び、道の両脇には背の高い木々が並んでいる。幹には淡く光る苔が付き、枝の間を紙のように薄い蝶が漂っていた。
景真は腕時計を見た。
秒針が止まっている。
午後五時五十六分。
夢だと思いたかった。だが、背中の痛みも、手のひらに付いた土も、あまりに現実だった。
足元で、小さな声がした。
ユキだった。
景真のすぐそばへ投げ出されていた黒猫は、ふらつきながら起き上がった。濡れた毛を逆立て、景真の後ろにある暗い森を見ている。
次の瞬間、ユキは暗がりから逃れるように、反対側の茂みへ駆け出した。
「おい、待て!」
黒い背中は街道脇の茂みへ飛び込み、そのまま見えなくなった。
追いかけようとした景真の足が止まる。
ユキが逃げていった先とは反対――景真の背後の暗がりから、低いうなり声が聞こえた。
獣の声に似ていた。けれど、どこか違う。木の幹を震わせ、地面の下から染み出してくるような、重く湿った声だった。
闇の中で、何かがこちらを見ていた。
*
草むらが大きく揺れた。
現れたものを見て、景真は息を呑んだ。
一瞬、人の子どもかと思った。だが、枝のように細い手足と、不釣り合いに膨れた腹、耳元まで裂けた口を見た瞬間、その考えは本能的に拒絶された。濁った瞳が、景真だけを見ている。
いつか妖怪図鑑で見た姿が、頭の片隅に浮かんだ。
餓鬼。
「……冗談だろ」
景真は後ずさった。
餓鬼――なのだろうか――が地面を蹴った。
景真は横へ転がる。鋭い爪が、さっきまで頭のあった場所を裂いた。土が跳ね、頬へ冷たい泥が飛ぶ。
立て。動け。逃げろ。
そう思うのに、足へうまく力が入らない。自分がどこへ逃げればいいのかもわからない。
餓鬼がもう一度身を沈める。
その姿を見た瞬間、景真は無意識に腕で顔を覆った。ほとんど意味がないことはわかっていた。それでも、何もしないよりはましだった。
鋭い風が、景真の横を駆け抜けた。
白と赤の影が、視界を横切る。
金属の澄んだ音が一度だけ響き、飛びかかっていた餓鬼の身体が空中で弾かれた。
次に景真が目を開けたとき、少女が彼と餓鬼の間に立っていた。
月明かりを受けた銀の髪。白と赤の巫女装束。右手には、細身の刀。
――凛。
その言葉はこういう時に使うのか。そんなことを思うほど、少女の立ち姿には迷いがなかった。
「動かないで」
短い声が飛んだ。
餓鬼が叫び、少女へ飛びかかる。
少女は半歩だけ踏み込み、振るわれた爪を刀の峰で逸らした。身体が入れ替わる。銀の髪が弧を描き、その下で刃が一閃した。
餓鬼の身体から、淀んだ黒い気配が噴き出す。形を保てなくなった影のように崩れ、夜気の中へ薄れていった。
少女は刃を振って残った妖気を払い、白鞘へ静かに収めた。
それから、ようやく景真を振り返る。
深い紅色の瞳が、まっすぐに景真を捉えた。
月を背にこちらを見下ろす少女に、景真は一瞬息をするのも忘れた。
見惚れる、とはこういうことを言うのだろう。
「怪我は?」
「え……あっ、たぶん、ない」
我に返る。答えながら、景真は自分の声が情けないほど震えていることに気づいた。立ち上がろうとしたが、膝がうまく伸びない。
少女は周囲へ視線を走らせた。茂みの向こう、ユキが逃げた方角にも目を向ける。けれど、黒猫の姿はもう見えなかった。
「あなた、人間ね」
「見ればわかるだろ」
「そういう意味ではないわ。この辺りの者ではないでしょう」
景真は言葉に詰まった。
「俺にも、ここがどこなのかわからない。神社にいたはずなんだ。それが急に……」
少女の眉がわずかに寄る。景真の制服、お守りの入った胸元、止まった腕時計へ順に目を向けた。
「神隠し……いえ、それとも」
独り言のように呟いたあと、少女は街道の先へ視線を移した。夜の森には、まだ何かが潜んでいるような気配がある。
「ここに一人で置いておくわけにはいかないわ。歩ける?」
そう言って、少女が手を差し伸べてきた。
「歩くしかないだろ」
少し気恥ずかしかったが、その細く白い手を取る。ひんやりとした手は、つい先ほどまで刀を振るっていたとは思えないほど柔らかかった。
何とか立ち上がったが、まだ少し膝が笑っている。
少女は少しだけ呆れたように息を吐いた。
「私は大月紅緒。陰陽得業生、退魔方兼結界守よ」
景真が拾えたのは名前だけだった。あとは耳慣れない言葉ばかり。陰陽だの退魔だの、まるで平安時代にタイムスリップしたかのようだった。
「俺は東春景真」
「景真ね。私の後ろから離れないで。勝手なこともしないこと」
助けられた直後に反論する気にはなれなかった。何より、この少女までいなくなれば、景真は見知らぬ世界へ完全に取り残される。
「わかった」
紅緒が歩き出す。
景真は一度だけ振り返った。森の向こうに、現実世界の鳥居も、雨に濡れた石段も見えない。男の子に預けた鞄も、帰りを待つ母も、今は途方もなく遠い場所にある。
左手首の腕時計は、午後五時五十六分で止まったままだった。
――逢魔が時。
ふと、そんな単語を思い出した。昼と夜の境目。この世とあの世が交わる、世界が曖昧になる瞬間。
自分は、いったいどこに紛れ込んだのだろうか。
そんな取り留めのないことを思いながら、景真は紅緒の背中を追った。




