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プロローグ

 逢魔が時。

 昼と夜との境がほどけ、人の道へ妖が紛れ込む刻。幽京ゆうきょうへ続く街道にも、薄紫の宵闇がゆっくりと降り始めていた。

 その街道脇の林で、一匹の獣妖が低く唸っていた。

 大きさは普通の猫とさほど変わらない。けれど、逆立った尾は二つに分かれ、爪の先からは青白い火が散っている。猫又は木の根元へ身を寄せ、近づくものすべてを拒むように牙を剥いていた。

 その正面に、大月おおつき紅緒べにおは立っていた。

 銀の髪が宵風に揺れる。肩の開いた巫女装束の袖口を軽く払い、紅緒は猫又の動きを見定めた。腰には白鞘の刀を差しているが、それを抜く気配はない。

「落ち着いて。傷つけるつもりはないわ」

 言葉が通じたのかどうか。猫又は鋭く鳴き、地を蹴った。

 紅緒は半歩だけ身を引いた。飛びかかる爪を紙一重でかわし、左手の指先に挟んだ札を猫又の額へ滑らせる。

 白い紙に記された朱と墨の文字が、淡い光を帯びた。

 光は猫又の身体を縛りつけることなく、荒れていた妖気だけを静かに包んでいく。青白い火が一つ、また一つと消え、逆立っていた毛並みもゆっくり伏せられていった。

 やがて猫又は地面へ降り、戸惑ったように紅緒を見上げた。先ほどまでの敵意は、もう瞳に残っていない。

「もう大丈夫ね」

 紅緒は腰を落とし、札をそっと剥がした。役目を終えた紙からは、わずかな温もりだけが指先へ残る。そのまま手を伸ばせば、頭を撫でられそうな距離だった。

 けれど猫又は、紅緒の指が届くより先に身を翻し、二本の尾を揺らして林の奥へ駆けていった。

 宙に残された手を、紅緒はしばらく引っ込めなかった。

「……一度くらい、撫でさせてもいいでしょうに」

 小さくこぼした直後、遠くで鐘が鳴った。

 幽京の方角から届く、酉の刻を告げる鐘。低く澄んだ音が一つ、二つと宵空へ広がり、木々の葉をかすかに震わせていく。

 紅緒は立ち上がり、回収した札を懐へ戻した。

 そのとき、すぐ近くの茂みが大きく揺れた。

 紅緒の手が、反射的に刀の柄へ伸びる。まだ別の妖が潜んでいたのか。息を潜め、音のした方へ身体を向ける。

 飛び出してきたのは、額に白い菱形の模様がある黒猫だった。

 妖気はない。どこにでもいる普通の猫だ。首輪をしているところを見ると、飼い猫なのだろう。

 紅緒の肩から、ほんの少し力が抜けた。

「おいで。この辺りは危ないわよ」

 黒猫は返事の代わりに一声鳴いた。濡れた毛を逆立て、何かから逃げてきたように浅い呼吸を繰り返している。

 紅緒は警戒させないよう、ゆっくりと膝を折った。今度こそ、と伸ばしかけた指の先を、黒猫はあっさり駆け抜けた。紅緒の足元を横切り、そのまま反対側の茂みへ姿を消してしまった。

「……今日の猫は、ずいぶん愛想がないのね」

 去っていった方向を名残惜しそうに見つめたのは、ほんの一瞬だった。

 猫が飛び出してきた茂みの奥から、淀んだ妖気が立ち上った。

 先ほど鎮めた猫又とは違う。飢えと濁りが混じった、獣じみた気配。しかも、黒猫が逃げてきた方角から漂っている。

 紅緒の表情から、わずかな未練が消えた。

「……あちらね」

 白鞘の刀を押さえ、紅緒は街道を蹴った。

 鐘の余韻が消えきらない森を、銀の髪が駆け抜けていく。

 その先で、一人の少年が異形の爪にさらされていることを、紅緒はまだ知らなかった。


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